翌日。悠一は授業終わりに、大学図書館に立ち寄った。レンガを模した三階建ての建物だ。入り口でいくつかの笑顔に迎えられる。閑静な館内を横切り二階へ上がった。二階は一階よりは適度な話し声が聞こえた。書架の本を整理している、顔なじみの女学生に会釈してさらに奥へ歩を進める。

 一番奥のテーブル席でお目当ての人物を見つけた。パソコンを開いて、いつも通り窓際に座っている。折り目正しい白のシャツに身を包んでいて、まるで昼下がりの会社員のようだった。その対面に悠一は腰を下ろした。

「要、新作面白かったよ」

 悠一は鞄から一冊の文庫本を取り出した。昨日の雨のせいでページが湿気っていたが、それがまたこの本を風情あるものに変えているようだった。表紙を人気イラストレーターの華やかな絵が飾り、色合いの落ち着いたタイトルと著者名が調律を保つように並んでいる。悠一はその表紙を要の方に向けた。

「やっぱり新庄先生の文章はどれもいいな。ユニークでおしゃれだ」

 悠一が言うと、要はパソコンを閉じてこちらを見た。

「その名前で呼ばないで下さいよ。この前もここの司書さんにそうやって話しかけられたんですから」

「ごめんって。でも友達の栄華ってやっぱり嬉しいんだよ。今回のやつ、結構評判もいいみたいだしさ」

 要が理知的な瞳を細めた。

「まあ今作は特に、先輩にもだいぶ手伝ってもらいましたから。これは自分だけの作品じゃないですよ」

 要は「新庄要」という名義で小説家をやっている。昨年デビューしたばかりで、悠一はたまに執筆活動を手伝ったり、一緒に取材に行ったり、微力ながら手助けをしていた。

「ところで、要は蜷川かがりって人知ってるか?」

 新作の感想をいくつか伝えたあとに、悠一はそう切り出した。中学校から上央の生徒である要は、なにを今更という風に頷いた。

「そりゃあ、もちろん。何度か関わったこともありますし。むしろ知らない人の方が珍しいくらいですよ」

「どのくらい知ってる?」

「人並みですよ。成績優秀、容姿端麗。教師からの信頼が厚く、それでいてイヤミなところが欠片もない。男子からも女子からも好かれる、理想で麗しの女子大生、ですよね。でも、確か蜷川先輩って……」

「ああ」悠一は頷いた。「先月、事件に巻き込まれて亡くなってる」

 それから悠一は、要に事件のあらましを語って聞かせた。

 要が書く小説は、事実を元にしたミステリーが多い。もしかしたら何か新しい発見があるかもしれない。連続する三件の殺人事件。だんだんと年を取る被害者。容疑者は県内で名の知れた大学の生徒。本当に小説のような事件だ。

「その情報って、そんなに簡単に流して良いものなんですか?」

 悠一が話し終えると、要が呆れた顔つきでそういった。

「どうなんだろ。でも、姉さんはなんだかんだで冷静だから、本当に部外者に話しちゃいけないことは俺にも伝えてないと思う」

 たとえ父親が殺されていようとも、そのせいで職務に取り憑かれたようになっていたとしても、自身の姉が分別のつく人間であることは悠一がよく分かっていた。

「俺は姉さんを信頼してるし。それに要はこのことを誰かに広めたりしないだろ?」

「まあ、それはそうですけど」

 悠一の家の事情を知っている要は、どこかバツが悪そうな表情で頷いた。

「それより、どうかな。何か意見が聞ければと思うんだけど」

 悠一が聞くと、要はシャツの袖をまくって、学者のような顔つきで顎を撫でた。

「そうですね。まだ三件の事件の詳細が分からないのでなんとも言えませんが、この事件ではなにか盗品はなかったんですか? シリアルキラーが起こした事件の場合、戦利品の特定も一つの鍵になるんですけど……」

「それは知らないな。姉さんが伏せているのかもしれない。一応聞いておくよ」

「お願いします。あと、女性器に異物をっていうのは気になります。一件目では被害者の膣に異物を捻じ込んだ跡が、二件目ではナイフが刺さっていたんですよね。そうすると、犯人は性的不能者なのかもしれません。普通の方法では興奮できない。射精ができない」

 要は人目を憚る様子もなく淡々と口にした。悠一は周りに人がいないことを確認してから、話の続きを促した。

「二件目の胸を切り取ろうとした跡っていうのは、執着の表れですかね。例えば一九八〇年、イギリスで起きた殺人事件で、女性の乳房だけが切り取られた死体が見つかるという事件がありました。捕まった男性は幼少期から母親の愛情に恵まれず育った、今でいう被虐待児でした。彼の精神分析で、母性に限りなく飢えていたことが分かっています。また、アメリカでも似たような事件があって、このとき持ち去られていたのは子宮でした。この事件の犯人として捕まった男性は他にも、女性の髪や爪なども持ち去っていたみたいですね。そして、彼もまた被虐待児でした」

 要は何でもないふうに実例を諳んじた。悠一は今更それに驚くこともなかった。要は小説を書くために古今東西のあらゆる事件を調べている。頭の中にはもっとストックがあるのだろう。

「この二件の事件の共通点は、彼らは母体を愛しているのに憎んでいるという点にあります。ひどいコンプレックスを抱えているんですよ。幼少期の体験のせいで、大切な物が欠如してしまっている」

「っていうことは、今回の事件の犯人も虐待されていた人間ってことか?」

「絶対にそうとは言えませんが、可能性はあるでしょうね。性的不能者になったのも、虐待の経験からかもしれませんし。虐待がなかったとしても、幼い頃から親が不在がちだったとか、片親であったとか、家族間に問題があったのかもしれません」

 要はそこではっとしたように口を噤むと、頭を下げた。

「ごめんなさい。いまのは、無神経な発言でした」

 要の謝罪を悠一は手を振って制した。

「それより、要はこの犯人はどんなやつだと思う? やっぱり上央の生徒だと思うか?」

「ええ。それなら被害者が歳を取っていく理由も筋が通りますしね。生徒じゃなくて教師っていう場合もありますけど」

「なるほどね。姉さんにも進言しとくよ」

 ただ、そうなると盟に婚約者すら疑わせることになる。父の死後、全く笑わなくなった頃の姉が悠一の脳裏によぎった。

「あと、いま少し考えたんですけど、一件目の死体の状態なら入れ替わりトリックができるかもしれませんね」

「入れ替わり?」悠一は首を傾げた。

「例えば、首の切れた死体が見つかったとしたら、推理小説においてはまず入れ替わりを疑いますよね。今回もそういうことができるかもしれません」

「腐乱死体だからってことか」

 要は大きく頷いた。

「そういうことです。遺体が腐敗していたんじゃ、被害者の特定は遺留品からになります。それなら偽装もできるのかなって」

「そうなると、今もまだ間中さんは生きてるってことか? じゃあ、間中さんが犯人?」

「想像に過ぎないんですけどね。入れ替わりなんてまず現実的じゃありませんし。できたとしても、そこまでして人殺しを続けるメリットが分からないですね」

 それでも一応姉に伝えておこうと思った。

「あと他になにか気づいたことはない?」

「あとは月並みな分析ですが、犯人は随分と神経質な性格みたいですね。間中さんの事件にしても、木下さんの事件にしても、服が畳まれていたんでしょう? それに現場に犯人に繋がるような証拠品はほとんど残っていない。こんな惨劇を起こしてる割には妙に冷静というか、落ち着いているような印象を受けます」

「確かに。体液も指紋も残してないし、徹底してる」

「その割には細部が雑なのも不思議ですね。証拠の隠滅を図っているような跡はなにもない。ただ運がいいだけっていうのもあり得ますね」

 要は話し疲れたのか、背もたれに体を預けると天井を仰いだ。

「そういえば要はこの事件の被害者とは仲良かったのか?」

 悠一が聞くと、要は姿勢を正して窓の外に目を遣った。外は日が傾き始めていて、テーブルの上に夕焼けの色を落としていた。

「間中さんとも木下さんとも、当時クラスは同じでしたよ。ただのクラスメイトでしたけど。でも、自分の知った顔が亡くなったって聞いたときは信じられなかったですし、ショックでしたね」

 悠一はその状況を自分自身に置き換えて考えてみた。

 どうだろう。例えばこの事件に姉が巻き込まれたとしたら。久下が巻き込まれたとしたら。もっと繋がりの希薄な人間で言えば、さっき会釈したあの女学生が巻き込まれたとしたら。

 次の被害者が出る前に、なんとしても犯人を突き止めなくてはならないなと思った。

「それにしても、まさかこんな小説みたいな展開に関わることになるとは思いませんでしたよ」

 要は脇に寄せていたノートパソコンを開きながら言った。

「ミステリ作家に殺人事件の捜査の相談なんて……。まったく、事実は小説より奇なりってのは本当ですね」

「それは俺も思った。なんでこんなに殺人事件に縁があるんだろうな」

 悠一の言葉に、要は悲しそうに目を伏せた。

「お父さんの件は、残念でしたね」

「まあ、でも半年前のことだし。姉さんの方も順調だから大丈夫だよ」

 悠一は慌ててそう言った。けれどその言葉は、要より自分自身に言い聞かせているような響きを持っていた。

 それに気がついたのか要は無理をしたように笑うと、キーボードを叩きながら悠一の方を見た。

「今回の事件って、小説にしたらまずいですかね」

「バカ」

 要らしからぬジョークに、悠一は少しだけ笑った。要も同じように笑った。


    *


 図書館を出て、校門にさしかかったところで後ろから呼び止められた。その声に悠一は思わず顔を顰めた。このまま気づかないふりをして帰ろうかと思ったが、その前に彼が悠一に追いついた。

「あ、やっぱり悠一君だ。いまから帰り?」

 振り返ると、盟の婚約者である瀬川秀介が立っていた。スーツを着こなし、爽やかな笑顔を湛えている。悠一は適当に相づちを打って、校門を出た。秀介は当然かのようにその隣に並んだ。

「昨日は盟さんのこと取っちゃってごめんね。久しぶりに会いたくなっちゃってさ」

 秀介がそういって笑うのが、まるで当てつけのように見えた。悠一は少し歩調を速めた。

「昨日はお墓参りだったんだよね。私も一緒に行けばよかったかな」

「瀬川さんが来る必要なんてないと思いますけど」

 いつもより低い自分の声が耳に障った。

「そういうわけにもいかないよ。お義父さんにはお世話になったし。それにまだ盟さんも万全じゃないから。昨日は楽しそうだったけど、でもたまに寂しそうなんだ」

 秀介は、それがまるで自分の苦しみであるかのような顔をした。

「心配なんだよ。彼女、最近は仕事にのめり込み気味だから。いつか体を壊すんじゃないかって、ヒヤヒヤしてる。悠一君もそう思うでしょ?」

「そうですね」

 同意を求めている風だったので、悠一は口先だけで頷いた。しかし秀介は悠一の答えなどどちらでもいいようで、被せるようにしてさらに続けた。

「お義父さんが亡くなってから、盟さん変わったしさ。気持ちは分かるけど、でも危険なことはしてほしくないんだ。今もなにか事件を追ってるみたいだし。だから、悠一君にも盟さんのことちゃんと見ていてほしい。お願いします」

 秀介は熱を孕んだ口調でそう締めくくった。悠一はなにも答えなかった。彼の、姉のことなら全て承知しているかのような口ぶりに嫌気が差した。自分の方が姉のことを考えているといわんばかりの態度が気に食わなかった。

 彼は盟と婚約関係になってからというもの、ずっとそうだった。父が存命のときも、殺されたときも、葬式の席でも。彼はずっと盟のことだけを考えているという顔つきで微笑んでいた。それに感化されるように笑顔を取り戻す姉を見て、悠一は劣等感を覚えずにはいられなかった。

 そのとき校舎の方からチャイムの音が聞こえた。高校の終業のチャイムだ。校門からは制服に身を包んだ学生が群れを成して出てきた。

「瀬川さんは今日はもう仕事終わってるんですか?」

 生徒より早く帰路についている教師は不審だ。歩みを止めて悠一が聞くと、秀介は表情を一転させた。まるで痛いところを突かれたように笑った。

「実は、停学になってる子の家庭訪問があるんだ。私の担任してるクラスの子でね。上央の恒例みたいなものなんだよ。今日から一週間、少しだけ帰りが早いんだ」

 秀介は悠一の意図を見透かしたようにいった。けれど口調はいつもより急ぎ足で、指は盛んにネクタイを気にしていた。なにか隠し事があるのは間違いなかった。

「浮気とかじゃないですよね」

 悠一は冗談めかしてそう聞いた。自分の頬が自然と吊り上がるのを感じた。もしこれが本当に浮気だとしたら盟との結婚を反対できる。ただそれと同時に、そんなこと自分の下衆な望みでしかないことも分かっていた。

 案の定、秀介は困ったような笑みを浮かべて「まさか。あんな美人な人と婚約しているのに、他の女性なんて考えられないよ」といった。薬指には指輪が輝いていた。

 その言葉で自分の行為が馬鹿らしく感じられて、悠一は押し黙って歩き出した。

 秀介はそれから特に変わった様子もなく話し続け、悠一を家まで送ると駅の方面へ歩いて行った。

 離れていく秀介の背中に、悠一は顔を歪めて舌打ちをした。

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