「悠、殺人事件の捜査に協力してほしいんだけど」

 父の墓参りのあとに立ち寄った喫茶店で、捜査一課に所属する姉の盟がそう切り出した。悠一は運ばれてきたコーヒーを一口啜ってから、姉の言葉を反芻した。日常の一コマに差し込まれた聞き捨てならない言葉が、悠一の思考を阻害する。

 悠一が戸惑っていると、姉はもう一度、「殺人事件の捜査に協力してくれない?」と念を押すように言った。聞き間違いではなかった。

「俺、ただの大学生なのに?」

「だからこそ、頼んでいるのよ」

「大学生なら、他にもっと適役はいると思うけど」

「私の知り合いの大学生なんて悠くらいよ」

 盟は唇を尖らせた。悠一は溜め息をついた。

「警察が一般の学生に捜査協力の依頼なんて、そんなの許されるの?」

「絶対に駄目だろうね。でも、今回は事情が事情なんだ。上には黙っていればバレないし、最悪姉弟だから許されるでしょ。ね、だからお願い。絶対に危険なことはさせないから」

 姉は顔の前で手を合わせると、片目を閉じて見せた。その左腕にはすっかり見慣れた腕時計が巻き付いている。その表情はずるいな、と思いながら悠一は次の瞬間には頷いていた。

 盟は、よかった、と頬を緩めると、鞄から黒いファイルを取り出した。明らかに持ち出し禁止であろうそれを、臆面もなく机に広げる。

「姉さん。協力はいいけど、これは流石にまずいんじゃないの?」

 見かねた悠一が言うと、盟は首を傾げた。

「でも、情報は共有しないと協力にならないよ」

「それはそうだけどさ……場所は考えようよ」

「角席だから大丈夫よ」

 盟はあっけらかんとそういうと、机の上にファイルを置いた。表紙には案の定、太文字で『持ち出し禁止』と書かれている。横行が過ぎるのではないか。

「事件解決より大切な規則なんて少ないよ」

 悠一の視線に気づいた盟が歌うようにそういった。

 本当はもう少し小言を言おうと思ったが、父の墓参りのあとだったので、悠一は口を噤んだ。いまはタイミングが悪い。

「それじゃあ、最初の事件から順に説明していくわね」

 盟はページを繰って、悠一の前にファイルを置いた。

「まず一件目が起こったのは、いまから五年前の九月中旬。悠がまだ中学三年生の頃ね。被害者は間中由佳さん。上央大学付属上央中学校に通っていた、当時中学二年生よ」

 悠一はその中学校の名前を聞いて顔を上げた。盟は制するように頷くと、巻末のリフィルから写真を撮りだし、ファイルの横に並べた。

「犯行現場は上央中学からそう離れていない堤防。徒歩で十分くらいかしら。ここはずっと違法投棄と不審者が問題になっていた場所で、人通りはなかったわ」

 写真には件の堤防の様子が収められていた。草は伸び放題で、川には大量のゴミが棄てられている。ソファなどの家具を始め、自転車やタイヤまでもが川を埋め尽くしていた。

「この棄てられている自転車は、由佳さんのものみたいね。両親にも確認済み。その近くから彼女のスクールバックも見つかってる。由佳さんは学校帰りに、自分の意志でここに来たみたい」

 盟が写真を取り出し一枚目の横に並べた。自転車とスクールバックがそれぞれ写っている。泥で汚れて、形が歪んでいた。自転車のフレームに「間中由佳」と薄汚れたシールが貼られていた。鞄の方も似たような有様だった。

「死亡推定時刻は十七時から深夜零時まで。死因は後頭部を鈍器のようなもので殴られたことによる脳挫傷。凶器は直径二十センチくらいの大きな岩よ。由佳さんの遺体のすぐそばで見つかっているわ。どうやら何度も打ち付けられたみたいね。頭蓋骨は大きく陥没していたそうよ」

 盟が四枚目の写真を取り出した。被害者が写っているのかと、一瞬目を逸らした。けれど違った。

 写真にはメジャーと一緒に撮られた無骨な岩が写っていた。メモリは二十センチを示している。確かにこれなら幼気な少女の頭蓋など簡単にたたき割れるだろう。

「それから、遺体には性的暴行のあとも見られたわ。由佳さんはズボンだけ脱がされていてね。服は彼女の遺体の横に畳まれておかれていたわ。解剖の結果、異物を捻じ込まれた痕跡を発見。瓶や缶といった類いのものね。ただこれは彼女の死後に行われたものみたい。指紋や皮膚片、体液などの検出はなし。第一発見者はホームレスの男性。ゴミを漁りに立ち寄った際、たまたま見つけたと供述。でも、このホームレスの男性は容疑者から外れているわ」

 盟は焦らすようにそこで言葉を切ると、目を閉じてコーヒーを啜った。悠一もつられてカップを持ち上げた。

「なんで容疑者から外されたの」

「……遺体の腐敗が進んでいたからよ。男性が発見した時点で、死後五日は経っていたらしいわ」

「遺体ってそんなに見つからないものなの? しかも中学生だし。親は?」

「由佳さんがいなくなってから三日後に、両親が捜索願を出してる。……でも、これは両親を責められないわね」

 盟はそこで別のページを開くと、枠で囲って強調してある部分を指さした。

「見て。由佳さんはこの三つのアプリを頻繁に使っていたみたい。スマホにもインストールされていたわ。なんのアプリだと思う?」

 資料にはアイコンの画像が印刷されていた。全く見覚えのないアプリだった。悠一は首を振った。

「出会い系よ。由佳さんは普段から、数日間家に帰らなかったことも多かったんですって。いろいろな男性と関係を持っていたみたい」

「そう聞くと、三日で捜索願が出されたのは早い気もするね」

「どれだけ電話をしても繋がらないから、流石に不安になって捜索願を提出したらしいわ。それで、その二日後に河川敷で遺体が見つかったって流れね。まあ、警察が見つけたわけじゃないんだけど」

 姉はまるで自分の失態かのような顔でそう締めくくると、写真をしまってから店員を呼んで、コーヒーのおかわりを注文した。悠一も姉と同じものを頼んだ。

「さて、とりあえず一件目の概要はこんな感じだけど、なにか質問はある?」

「じゃあ、質問だけど……俺に白羽の矢が立ったのは、俺が上央大学の生徒だからってことでいいんだよね」

 悠一は上央大学の二年生だ。盟はファイルを閉じると頷いた。

「そういうこと」

「ってことはもしかして先月のあの事件も関係ある?」

「あ、悠も知ってるのね。それだったら話が早いわ」

 盟は机の上で手を組んだ。左手の薬指で指輪が光った。今日は仕事じゃないもんな。悠一はこめかみがピクリと動くのを感じながら、姉に話の続きを促した。

「この事件は先月のものも含めて、今のところ三件の連続殺人事件なのね。それで、被害者は全員上央の生徒だった。犯人はまだ捕まってない。だからもし次が起こるなら、その被害者も上央の生徒かなって」

「次って、また誰か殺されるの?」

「そうならないために、警察官がいるのよ。もちろん悠に頼むのだって、次の誰かを出さないためよ」

 悠一はその言葉を聞いて、頭の奥に鈍痛のようなものを感じた。事実は小説よりも奇なりとはよくいったものだ。まだ二十年そこらの人生で、こんなに何度も殺人事件と関わることになるなんて。

「ちなみに、犯人の目星はついてるの?」

 悠一が聞いたのと同時に店員がコーヒーを運んできた。店員が席から離れるのを待ってから盟がファイルを開いた。

「とりあえず、犯人がどうこうって話は後にするわね。それより二件目の説明を始めてもいい?」

 悠一はカップを自分のほうに引き寄せながら頷いた。

「オッケー。じゃあ二件目ね。二件目の事件が起きたのは二年前の十二月下旬。悠が高校三年生のとき。被害者は上央大学付属上央高校に通っていた木下沙枝さん、当時高校二年生よ」

 盟は写真を取りだして、さっきと同じようにファイルの隣に置いた。そこには公園が写っていた。遊具や外灯が少なく、寂しげな印象を受ける。

「沙枝さんは十二月二十日の深夜に、公園で亡くなっているところを発見されたわ。第一発見者は沙枝さんの母親。帰りの遅い沙枝さんを心配して探しに行ったところ、近所の公園で倒れているのを発見。この時点ではもう亡くなっていたみたいね。死亡推定時刻は十八時頃。死因は腹部を刺されたことによる出血性ショック死。凶器は市販のカッターナイフよ」

 盟が写真を取り出した。どこにでも売っていそうな、ピンクの少し大きめのカッターナイフが写っている。刃や柄には大量の血がこびりついていた。さっきの岩よりもよっぽど生々しい。

「そのカッターナイフから指紋は出なかったの?」

 悠一が写真を指さして問うと、盟は首を横に振った。

「残念ながら。犯人はよほど用心深いのか、軍手をしていたみたいね。沙枝さんの服や肌から軍手の繊維が検出されたわ。これも市販のもの。その他は、体液も皮膚片も、なにも検出されなかったわ」

「服からってことは、沙枝さんも性的暴行を?」

 盟は無念そうな顔で頷いた。

「一件目と同じように、女性器には凶器のカッターナイフが突き刺さっていたわ。服は全て脱がされ、公園のベンチに置かれていた。それから、一件目と違って、胸の下部には深い切れ込みが入っていた。どれも死後に行われたものよ」

 持ち帰ろうとしたのかしら。姉の言葉に、悠一は頬が強張るのを感じた。

 少女の死体を損壊して昂ぶる猟奇殺人鬼。その光景は想像したくなかった。

「怪しい人とか、公園に防犯カメラは?」

「それもなし。公園には防犯カメラなんてなかったし、不審者の目撃情報もないわ。この公園は一件目と同様、昼間でも人気のないところだったみたいでね」

「じゃあ、土地勘のある人が犯人ってこと?」

「そうなるわね。ただ、このときにはまだ一件目と関連した事件とは見られていなかったけど。なにせ一件目と二件目で三年間も空いてるからね。二件目は単独の事件として捜査されたわ」

 盟は憂うような表情でページを捲った。

「当然犯人が見つかるはずもなく、捜査は難航。容疑者候補は何人かいたけど、それも全て空振りに終わったわ」

 資料には何人かの名前が記載されていた。その中には木下姓もあった。親族が真っ先に疑われたのだろう。

「ちなみに、木下さんはどんな人だった? 間中さんみたいに出会い系をやっていたりした?」

 盟は首を振った。

「それはなかった。むしろ逆ね。当時の担任が秀介さんだったから聞いたけど、大人しくて、消極的な生徒だったそうよ。行事ごとにはあまり関心がなくて、部活動にも入っていなかったみたい」

 悠一はその名前に、口の端が引き攣るのを感じた。誤魔化すようにカップに口をつけた。ミルクを入れたはずのブレンドがさっきよりも苦く感じられた。

「それじゃあ怨恨の可能性は低いんだ」

「そうね。そういったトラブルとは無縁の子だったんじゃないかしら。まあ教師は生徒の全て把握できるわけじゃないとも言われたけど」

 盟が愛おしそうに薬指を撫でるのを、悠一は見たくなかった。ふいと視線を逸らして、コーヒーを飲み干した。

「それで、三件目は?」

 盟は指輪から手を離すと、ファイルを開き直した。

「三件目は悠も知っての通り、先月の下旬に起きたわ。被害者は蜷川かがりさん。上央大学の三年生。この事件でようやく前二件と合わせて、連続殺人事件として捜査されることになったわ」

 盟はそこで言葉を切ると、身を乗り出して悠一を見据えた。

「ここでさっきの悠の質問に戻るんだけど、この事件の犯人ね、一件目のときは、件の出会い系を使っていた男性が容疑者として挙げられたわ。二件目は親族と近所の浮浪者。でも、三件目で捜査対象が一新されたわ。どうしてだと思う?」

 試すような姉の視線。悠一は少し考えてから答えを口にした。

「……被害者がだんだん歳をとっているから」

「正解」

 盟は微笑んで背もたれに体を戻した。

「捜査本部は犯人は被害者と同じ年齢、学校であるという見方で捜査を進めていくわ」

「それって……」

「容疑者は、上央大学の生徒ってことよ」

 盟はきっぱりと言い切った。

 悠一はようやく捜査協力の本当の理由を理解した。被害者だけでなく、容疑者すら上央大学の生徒ならば、妥当な判断だ。

「……それで、俺はなにをすればいいの?」

「学校って警察の介入を嫌がるのよ。でも在学生とその姉なら捜査しやすいでしょ。だから、悠は私についてきてくれればいいわ」

 盟がそういったとき、ちょうど電話が鳴った。姉のスマートフォンだ。私用携帯だろう。

「ごめんちょっと出てくるね」

 盟は画面を確認すると、頬を緩ませ店の外へ出て行った。姉の指で指輪が光った。

 そのあいだ悠一は手持ち無沙汰にファイルを読んだ。随所に姉がこのファイルを読み込んでいるあとが見られた。マーカーが引かれていたり、姉の字で補足が書かれていたり。盟がそこまでやる理由は明白で、自分には姉の横行を咎められないなと思った。

 やがて盟は戻ってくると、慌ただしく鞄にファイルをしまった。財布を取り出し、伝票に千円札を二枚重ねる。

「ごめん。ちょっといまから秀介さんのところ行ってくるね」

「なにかあったの?」

 少しの期待を込めてそう聞いたが、それは姉の笑顔で簡単にかき消された。

「ご飯食べに行こうって誘われちゃった。久しぶりのデートよ。服も着替えたいし、今日はもう帰るわね」

 盟は心の底から嬉しそうで、水を差すのは憚られた。

「そっか。よかったじゃん。楽しんでおいでよ」

 悠一は思ってもないことを口にした。

「それから、明日はデスクワークがあるから、捜査は明後日からお願いするわ。また連絡するから」

「分かったから、早く行きなよ」

「じゃあ、また明後日ね」

 盟は残っていたコーヒーを飲み干すと、小走りで店を出ていった。悠一は姉の姿が見えなくなってから、ようやく笑顔を消して、深い溜め息をついた。

 父が死んでからずっと刺々しかった姉がまた笑えるようになったのは、偏に婚約者のおかげだった。弟の悠一にはとてもできなかったことだ。

 それが分かっているから、姉の結婚を反対できずにいる。ただ婚約者が気に入らないという理由だけで反対できるほど悠一は子どもではない。

 悠一はもうなにも入っていないカップに口をつけた。外では小雨が降り始めていた。


         *


 家に着くころには雨は本降りになっていた。鞄に入れていた文庫本に気を払いながら、アパートの鍵を開ける。大学進学に合わせて借りた、学校から徒歩圏内の学生アパートだ。

 扉を開けると、奥から肉の焼ける匂いがした。玄関には女性用のスニーカーが置かれている。悠一はそれを脇にどけると、自分も靴を脱いで部屋に入った。

「あ、先輩。お帰りなさい。お邪魔してます」

 備え付けのキッチンには、フライ返しを持った久下香奈美が立っていた。一つにまとめられた黒髪が、肩甲骨の辺りで揺れている。

 先日渡した合鍵を早速使ったのだろう。部屋の隅には彼女のリュックサックが置かれていた。

 悠一は返事だけして、ソファに沈んだ。なにもしていないのに体が重たかった。精神的に疲れているのが分かった。

「今日はお墓参りでしたっけ」

「ああ、うん。父さんのね。ようやく色々落ち着いたよ。親が死ぬって大変なんだな。あっという間の半年だったよ」

 悠一が感慨深く呟くと、久下は火を止めてこちらを向いた。

「お父さんが死んだのに、先輩は案外平気そうですね」

 情が薄いですね、と暗に言われているようだった。間違いではないのかもしれない。悠一は父との思い出が薄く、だからこそ悲しむほどの情も湧かない。姉が死んだのなら話は別だが。

「父さんは仕事人間だったからな。俺の世話もほとんど姉さんがしてくれてたし。父親らしいあの人を見たことがないんだよ。俺が熱を出そうが怪我をしようが、あの人はずっと仕事だけだった。単純に仕事が好きだったんだろうな」

 だからって仕事中に殺されなくてもいいのにな。声には出さず、心の中でそう呟いた。

「もちろん、それ相応に弔意は持ち合わせてるけど、やっぱり父親が死んだって感じはしないな。親戚のおじさんが死んだって言われた方がまだしっくりくるよ。まあ、姉さんは俺と違って悲しんでるだろうけど」

「今日の先輩は多弁ですね」

 悠一の言葉の切れ間を縫うように、久下はしんみりした調子でいった。悠一は自分の口を咄嗟に覆った。久しぶりに姉と話したせいで、気持ちが緩んでいるのかもしれない。悠一は重たい足で立ち上がると水道水を口に含んだ。コップを空にしてから、「あ、そうだ」と久下の方を向いた。

「それより、久下は先月の事件について知ってる?」

 結局姉から三件目の詳しい話は聞けなかった。悠一は事件が起きたということしか知らない。邪魔立てした婚約者のことを思い出して、心の中で舌打ちをした。

「先月って、かがりさんが殺された事件ですよね」

「そう、それ。確か、蜷川かがりさんだっけ。その人のこと、久下は詳しいの?」

 悠一が聞くと、久下は声を上ずらせた。

「先輩、それ本気で言ってるんですか。詳しい詳しくないとか、そういう話じゃないですよ。あの人のこと知らないなんて……」

 信じられないものを見る目つきだった。

「しょうがないだろ。俺は途中編入なんだから。一年やそこらで、誰がどういう人間かなんて把握できないんだよ」

「それでもかがりさんは知っておくべきですよ。それくらい有名ですし、なによりかがりさんも途中編入生なんですから」

「そうなのか?」悠一は少なからず驚いた。

 上央大学は八割から九割の学生が内部進学で、途中編入者は肩身の狭い思いをするハメになる。入学して、悠一が一番初めに受けた洗礼もそれだった。外部からの編入生に、彼らは心のどこかで一線を引いている。悠一は入学から一年経ったいまでも、周りから距離を置かれていた。

 内部進学生の久下は、蜷川かがりの人となりを熱弁し始めた。

「かがりさんは本当にカリスマだったんですよ。高校二年からの編入にも関わらず、生徒会長を務めてましたし、友達が多くて後輩からも慕われていました。成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗の絵に描いたような優等生。あの人の悪い噂は聞いたことがないですね。私も高一のときお世話になりましたが、あの人は怖いくらいに完璧でしたよ」

 久下は自分の言葉に何度か頷いて、それから訝しげな目を悠一に向けた。

「でも、なんで先輩が突然かがりさんの事件を?」

 悠一はそれにはなにも答えず、手に持っていたコップを流しに置いた。ふと、キッチン窓から外を眺める。横殴りの雨が窓に当たっては弾けていた。

「雨、ひどくなってきましたね」

 悠一の視線を追って、久下は怯えるような声を出した。

「雨嫌いなのか?」

「好きな人の方が少ないですよ。雨って良いことないじゃないですか。服も髪も濡れるし。雷とか、怖いですし」

 彼女はどこか辛そうな横顔でそういうと、ふっと溜め息を零した。悠一はなにか言おうと口を開いた。けれど、悠一が言葉を発するより前にその色は消え失せ、次の瞬間にはいつもの久下に戻っていた。

「じゃあ私はそろそろ帰りますね。先輩も今日はゆっくり休んで下さい。ご飯は食べられなかったら捨ててもいいですから」

 久下がフライパンの上ですっかり固くなったハンバーグを指さした。悠一が返事をする前に部屋を出て行った。

 泊まっていけば? 悠一は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 出会って数ヶ月しか経っていない後輩を泊められるほどの度量は、悠一にはなかった。

 代わりに悠一も一緒に部屋を出て、靴を履いた。

「家まで送るよ。外、だいぶ暗いし」

 玄関の置き時計は八時を差していた。ここから久下の家までそう離れていない。ただ外灯が少なく、人通りも決して多くはなかった。なにより事件の話を聞いたあとで、女性の一人歩きは見過ごせない。

 悠一が傘を開くと、久下もその隣に並んだ。その横顔からは、さっきのような憂えの影は、もう覗けなかった。

 雨は勢いを増していた。

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