二人が世界を分かつまで

杉林重工

綺麗な月の夜でした

 恋に落ちるのはものすごいシンプルだった、と思い出した。


「大丈夫ですか、お嬢さん。えっと……なんでもないです」


 クサい台詞。思い返すと笑ってしまう。つい恥ずかしくなって、後半の言葉を濁してしまった。だけど、これがわたしにとっては大事だったのだ。だって、たったこれだけで、ついぞ親から『二度も』そんな扱いをされたことがなかったわたしは、こうもあっさりと、長く人生を共にする相手を決めてしまったのである。


 しかし、自分で口にすると余計面白い。何を思ってあの時、彼はこんなことを言ったのだろう。


「怖いよう、怖いよう」


 そんな懐かしいことを思い返していたから、『それ』のことを忘れていた。


 今わたしが目の前にしている対手は、ずっと同じことを呟いていた。理解不能、意思の疎通など到底かなわない。人間と同種だと、決して扱ってはならない、と聞いている。対面するとわかるが、嘘はないと思った。


 城塞都市ドーダムで最も大きな病院の屋上。まん丸の満月を背にしてその魔族は震えていた。とはいえ、油断はできない。わたしは屋上の床を確かめるように踏みつける。さすがこの街最大の病院らしく、屋上は宮殿と同じ石材や魔術がふんだんに使われているらしい。まるで『コンクリート』を踏んでいるようだった。


「走って」


 わたしは背に守る女性に言う。すると、弾かれたように彼女は走り出し、あっという間に屋上からいなくなった。


 ――さて。


 わたしは、自分の手を見る。指先までかっちりと黒く硬い殻のような何かで覆われている。それも、手袋ではなく皮膚のように、自分の体のように。そもそも、月明かりの中でも恐怖に歪んだ彼女の顔がよく見えた、この視力。逃げる足音がまだ聞こえる耳。キッチンで使っている台に乗った時より高くなったこの身長。


 これが、魔人〈ダオド〉だ。


「怖いよう、怖いよう」


「怖くないよ」


 つい出てきてしまった意味のない言葉。いよいよ〈ダオド〉は膝を曲げ、戦闘態勢を作る。 


「怖いから、こんな場所は、壊さなきゃ」


 ついに、屋上の端で丸くなって震えていたそれが体を広げた。満月を覆い隠すほど巨大な羽。鳥や虫とは違う、骨格を軸にし、薄い皮膚のようなもので構成された、まるで蝙蝠のようなそれが、広いはずの屋上の、端から端までを埋めた。


「壊さなきゃ!」


 大きく空気を抱え、素早く翼を閉じて圧縮。加速する。〈飛行する魔族〉は真っすぐにわたしの方へ飛んできた。


 わたしは反射的に左足を下げ、見様見真似で右拳を握った。結んだ拳が重さを増す。そこへ向けて、脚先から腰、肩、肘と廻った力が駆け巡る。その力をそのままに、この拳に乗せて打ち放つ。


 ――吹き飛べ。


 わたしが戦うことなんて、想像もしてこなかった。でもこれは、わたしが今までずっと逃げ続けてきた選択肢。そして、わたしが決める未来の話である。

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