第3話 奥山の
「えっ」
驚いた様子で素早く手をひっこめた青年は、そこであらためて、自分が今なにを聞いたのかを反芻したらしかった。そうして、もっとびっくりした目になった。
見覚えのある黒いきれいな瞳が、じっと自分を見つめてくる。
「え、えっと……? きみは」
「あ、えと……すみません。い、一回生の青柳といいます。気にしないでください。なんでもないのでっ」
必死で顔の前で両手をふり、うつむいてしまう。きっといま、自分は耳まで真っ赤になっているだろう。そう思ったら余計にどぎまぎが加速して、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
「えっと、ちょっとこの辺で調べたい本を探しててっ」
「……ああ。ええと、もしかして鎌倉幕府関連?」
瞳の光と同じ、穏やかで涼しげな声が後頭部に降ってくる。
気持ちがいい。声まであの日、あの時の彼を彷彿とさせられる。許されるものなら、もっともっと聞いていたいとも思ったが、今はそんな場合ではなかった。
律が頭を上下にぶんぶん降ると、「だったら僕も同じだから」という思いがけない返事があった。
「……え?」
「あ。でも別に、あのドラマの影響とかじゃないんだよ? なんか、人に話すとそんな風に誤解されちゃうことが多いけど──」
「あ、はい……ですよね」
「そう。……君も?」
「は……はい。ドラマとかは関係ないっていうか──」
鼻から下を片手で隠しながらもごもご言うものだから、青年はにこにこしながらも「ん?」とこちらに少し体を傾けている。よく聞こえないらしい。
律だって決して背が低いほうではないのに、彼はもう少し高かった。しかし律とは違って胸や腕に分厚さがある。なにかしらで鍛えている人の体に見えた。
「え……えっと」
「あ。僕、清水。経済学部の二年生」
「ど、どうも」
予想通りというのか、やっぱり先輩だった。ぺこぺこしている律の手にある紙片をちらりと見て、清水はまたにこっと笑った。スポーツをやってる人に特有の笑顔だな、と思った。そういえば日焼けもしている。背ばかり高くてひょろひょろした
「じゃ、一緒に見て回る? 同じような本、探してるなら」
「えっ。い、いいんですか」
「もちろん。僕もこんなとこ来るのはじめてでさ。勝手がわかんないもんだから、さっきからあっちこっちぐるぐるしちゃって。講義は午後からだからいいんだけど」
「そうなんですか」
「きみ、講義は?」
「に、二限から」
「じゃあもうちょっと時間あるね。俺、実朝の和歌の本とか、『
「和歌……吾妻鏡」
そうだ。かつての自分は、歌を詠むことに魂を捧げていた。いや、もちろん鎌倉殿としてなすべき仕事はたくさんあったわけだから、趣味の域にすぎないことはわかっているけれど。
それでも生きていた間、許される限りの力を尽くし、京の素晴らしい
……そして、彼への想いを。
たった五七五七七の、わずかな音に心を託して。
「でも、あの……どうして」
「どうして、って言うなら俺も訊きたい」
「え?」
鼻筋の通ったさわやかそのものの横顔がふいとこっちを向いたとき、その目のあまりの真摯さにどきりとした。そういえば、いつのまにか一人称が「オレ」に変わってるな、この人。などと頭の片隅で思った。
「さっき、呼んだよね。俺のこと。……
「え? ……えっと」
「確かに聞いた。俺、耳はいいし。ここ静かだし」
「…………」
「間違いなく聞いた。……きみは誰なの」
「う、あう……」
困った。これは非常に困ったことになった。
すでに大混乱する脳からは、なんのうまい返事も生まれてこない。水から飛び出てしまった金魚みたいに口をぱくぱくさせ、目を白黒させるしかない。
清水の目も声も態度も、決して律を責めるような調子のものではない。それでも相当な威圧感だった。
「……えっと。か、鎌倉っの、ことに、没頭、しすぎててっ……! ごめんなさい!」
「いや。謝らなくてもいいんだけど」
「だから、あなたの……清水さんのことじゃなくて! すみません!」
「謝らなくていいって言ってるのに」
清水は困った顔で笑った。ぽりぽり頭を搔いている。
いつのまにか書架に追い詰められていて、そこで「書架ドン」状態になっていたことに気づき、律の血液は逆流した。
「えっと、あのっ! じゅ、授業の準備があるのでっ」
「あっ。ちょっと!」
清水がそう叫んだときにはもう、律は脱兎の勢いでそのコーナーを駆け抜けていた。
そのまま一目散に図書館を飛び出る。
(なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ……!)
奥山の たづきも知らぬ 君により わが心から まどふべらなる
『金槐和歌集』402
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