第2話 月影の
「しまった。やっぱりこの時間だと混むんだな……」
普段より早く家を出たため、少し弊害もあった。一般的な学生や会社員が出掛ける時間と重なると、どうしても通勤ラッシュにまきこまれる。無理をせず、もう少し時間をずらして出掛ければよかったと思ったが後の祭りだ。
律が通う大学は、幸いにして自宅からでも通えない距離ではない。近隣のバスに乗り、電車に乗り、もう一度バスに乗る。一時間半ほどかかってしまうけれど、それでも下宿させてもらえるほどの遠さではなかった。
通勤客も高校生らしき制服姿の男女も、みんな今はスマホを見ていて暇のつぶし方は心得ているように見える。律もこれまではその御多分に漏れない若者に違いなかったのだが、今日はいつものように音楽を聴いたりSNSやネットニュースを眺めたりする気にはなれなかった。
なんといっても、いま気になるのはかの人の消息だ。
「消息」などと言っても、すでに何百年も昔にこの世を去った人のことだけれど。
まずは自分の前世であると思われる「
それから、自分の死後に鎌倉幕府の第三代執権になったというあの人──「
聡明でありながらも心優しく、公正を重んじる人物だった彼は、その後、武家社会の根幹をなすことになったという
(……うん。彼らしい)
高校までの歴史の授業でこのあたりも学んでいるはずなのに、なぜか今回はじめてこの情報に触れたような気がした。奇妙なものだ。それと同時に、つい頬がゆるんでしまうようなうれしさも否定できない。
だが、そんな風にほほえましい気持ちになる反面、やはり物足りなかった。ここに書かれていることは、その時代を生きた自分にとっては
大学前のバス停を降り、律はその足をまっすぐに大学図書館に向けた。
ネット上にある情報以外のなにかを少しでも見聞きしたいという欲求が、勝手に足を動かしたように思われた。
理学部所属の、しかも一回生の律にとって、これまで大学図書館は縁のない施設だった。文系でない上、一回生は基本的には語学や基本的な科目をとる教養部に所属するからだ。文系の学生であっても、レポートを作成するため、その時期だけちょっとお世話になる。そういう施設にすぎなかった。
構内案内図を見て探し当てた図書館は、大学の敷地の真ん中あたりに存在していた。入口はあまり目立たない感じだったが、中はそれなりに明るくて設備も行き届いているように見えた。
しかし、とにかく広い。はじめての利用のため、ちょっと戸惑ってしまう。学生証さえあれば本を借りることはできるはずだが、まず求める本をどこにいけば探し当てられるのか皆目わからない。
カウンター奥にいた司書らしき人が受付のほうに近づいてきたタイミングを見計らって、律は思い切ってそちらに声をかけた。
「あの……すみません。本を探しているんですけど」
「はい。どのような本ですか」
眼鏡をかけた、おっとりした雰囲気の中年の女性だった。
「本のタイトルが分かっているなら、蔵書検索システムで調べられますよ」
「いえ、あの……。タイトルはわからなくて。か、
女性は一瞬、わずかに目を見開いてじっと律を見つめた。急にいたたまれない気持ちになって、律はまごまごした。もしかするとうちの母や妹のように、例のドラマで急に興味がわいたにわかファンのように思われているのかもしれない。
が、それは本当にほんの一瞬のことだった。
「ああ、源実朝ですね。歴史的な本を探したいということでしょうか」
「え、えっと。はい、たぶん……」
だいぶ奇妙なことを言っている自覚はあったけれど、どうしようもない。
女性はにこやかな表情を崩さないまま、手元の端末をすばやく操作した。やがて、小さなプリンターからスーパーのレシートよりも少し大判の紙が吐き出されてきて、それを手渡された。
「こちらの図書館では、このような蔵書があるようです。場所はこの番号ですが、こちらの地図を見てもらえば……」
館内案内図を示して教えられ、礼を言ってそこを離れる。
それだけのことだったのに、服の下はすでに汗でいっぱいになっていた。
ハンカチで吹きだす汗をぬぐいつつ、もらったレシートを片手に案内図にそって求める書架に向かう。歴史は「2 地理・歴史・伝記」と大きく書かれているところにあるようだった。
入口付近にはまだ人がいたのだったが、このあたりまでくるとほとんど学生の姿はない。早い時間でもあるし、それは当然かもしれなかった。奥へと歩くにつれて、古い本に特有の枯れたような匂いが強くなってくるような気がした。
「あ……あった。このへんかな」
書架にみっちりと並べられた新旧さまざまな本の背を読んでいくうちに、とうとう「鎌倉幕府」とか「源頼朝」とか「執権政治」とかいう文言のならんだ本が見つかった。もう少し先へいくと、今度は伝記のコーナーになる。伝記のところに実朝と、泰時の本があればもっといい……。
「さねとも……さねとも。やすとき……」
口の中だけでぶつぶつ言いながら、本の背表紙にばかり集中して書架の前をうろうろしていたから、人が近づいてきていることに気づかなかった。
だから、その本の背に手をかけたとき、すぐそばからにゅっと出てきた大きな手にびっくりしてしまったのだ。
「ひいっ!?」
「あ。す、すみません……」
(えっ)
その瞬間。
胸の鼓動がとまったと思った。
その瞳。涼やかで人を裏切らない、まっすぐなその瞳。
その瞳には覚えがあった。
「やす、とき……?」
月影の それかあらぬか かげろふの ほのかに見えて
『金槐和歌集』377
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます