波に抱かれて

冬場蚕〈とうば かいこ〉

波に抱かれて

 潮風が攫ってきた海の臭いに男は顔を顰めた。

 男にとって地元はもっとも忌むべき場所だった。どこまで行っても海しかなく、それに囲われた町には磯の臭いが常に、背後霊のごとく纏わり付いている。防波堤にぶつかった波のはぜる音、餌にありついたカモメの嬌声、漁港を去って行く船の雄叫び。幽霊はときにそんな幻聴も聞かせてくる。町には幽霊の見えない年寄りばかり溢れていた。若者はそんな先代に唾を吐きかけながら高台に建てられた古い学校に通い、同じような年寄りになるまでの余暇を食い潰した。

 この町の若者は二分される。反骨精神から端を発した未来展望を肥大化させては潰される者と、早々にこの町に順応し地元愛を叫びながら歳だけを無為に重ねていく者。

 男は前者だった。今でも男の中心には感傷が膝を立てて座り、思い出がふてぶてしい顔で横になっている。上京して手に入れた慎ましい自信は、今日も間借りした一隅で肩を縮めている。

 埠頭へ向かって歩いていると、恐らく後者であろう学生服の集団とすれ違った。中心人物の青年が無理やり尖らせた視線を突き刺し、男のこの町の出にしては生白い肌を見ると鼻を鳴らした。

「オカマやろう」

 ぼそっとやや舌っ足らずな声だった。

 彼らは無条件に大人を嫌っている。男はそれを知っていた。それ以上に同年代を嫌っていることも。校則や法律に一挙手一投足を縛られるのが嫌いな彼らはしかし、当人同士で互いを見張り縛り合うことは厭わなかった。

 男は横になっていた思い出が起き出すのを意識しながら歩調を速めた。後ろでどっと笑い声が起こったのを聞いて感傷が爪をかみ始める。自信はもう家出していた。


    *


 記憶に残っているのは母の泣き声だった。

 彼との写真や文通、お揃いで買ったブレスレット、一緒に食べに行ったそば屋のレシートまで僕の部屋から引っ張り出してきて母は金切り声を上げた。

「あんたこんなの、お父さんに恥ずかしいとは思わんのっ!」

 事あるごとに父を引き合いに出すのは母の悪癖だった。彼――イツキとお揃いにするため伸ばしていた髪を引っ張られ仏壇の前に正座させらされた。

「反省しなさい、お父さんに謝んなさい!」

 僕が生まれるより前に他界した父は黒い額縁に囲われてもなお、この家の大黒柱として存在していた。喧嘩っ早く豪胆で、男気に溢れる人だったと母はいつも語った。

「あんたも父ちゃんのような立派な男になるんだよ」

 話の最後には必ず僕の白い肌を指さしそう言った。

 息苦しかった。仏壇の父とそれを盲愛する母の間はまるで水底だ。でも同じ息苦しさを感じる彼といる間だけは呼吸が楽になる。動機も理由もそれで充分だった。

 母は隣で嗚咽を漏らしながら、「どこで育て方を間違えたのかしら……」などと呟き、遺影に深々と頭を下げた。

「あなたごめんなさい。でもミズキの躾はちゃんとしますから」

 僕も無理やり頭を下げさせられ、彼と縁を切ることを誓わされた。履行するつもりは欠片もなかった。イツキとはいつまでもこの関係を続け、いつかこの町を出るのだと信じて疑わなかった。

 だが僕はこのとき母の躾を、そしてこの町を甘く見ていた。


    *


 そば屋で一番安いかけそばを頼んだ。男が中学生の頃は二百八十円だったが、今は三百二十円に値上げされていた。店内も様変わりし、カウンターに直で置かれていたブラウン管のテレビはなくなっていた。昔はよく彼と野球の中継を見たものだった。

「あんた帰って来たのかい」

 ねっとりと絡みつくような声が聞こえて顔を上げた。丼を持った店主の老婆が、記憶よりも小さな瞳で男の顔を舐めていた。

「よく帰ってこれたもんだよ。食ったらさっさと出てきな。人殺しの分際で……」

 皺だらけの手が丼を叩き付けた。男はそれには一切口をつけず金を置くと逃げるように店を出た。

 人殺し。老婆の言うとおりだ。

 男は昔恋人を殺し、今日ここに自分を殺しに来たのだった。


    *


 伝統的で排他的な町だった。そこに根ざす人々も当然みなと同じものを愛し、違うものを嫌った。その感覚だけは若者と年寄りの間に垣根がなく、彼らにとって同性を愛する人間は未知で、宇宙人にでも見えていたのかもしれない。

 母が躾と称して行ったのは、僕を批判の矢面に立たせることだった。海沿いの小さな町だ。潮風は磯の臭いと共に人の噂も勝手に運んで行ってしまう。

 三日で僕とイツキの居場所はなくなった。学校では「オカマやろう」「ホモやろう」とさんざはやし立てられ、それでも母を決して僕を許さず、毎日何時間も仏壇の前に正座させた。町を歩けば奇異の目に晒され、彼もまた同じ苦しみを味わっていた。

 次第に二人の間に会話はなくなり、昏い横目で互いを伺う日々が過ぎた。

「もう死のう」

 どちらが先に行った言葉だったか、ただそれしか残された道はないように思えた。

 そうして僕らは互いを抱きながら海に身投げした。

 だが二人の手首を繋いでいた紐は切れ、僕だけを置き去りにしてイツキは日の当たる方へと浮かんで行ってしまった。不安はなかった。彼はきっと僕を追ってきてくれると信じているから。だからそれまで少し眠った。

 次に目を覚ましたとき、水底には彼がいた。彼の体躯を抱きしめて僕はまた眠る。


    *


 男――イツキは防波堤から海を眺め、手首に巻いたブレスレットを弄っていた。

 数年前、彼はここから恋人のミズキと共に身投げをした。しかし二人を繋いでいた紐は千切れイツキだけが海面へと放り出された。救助隊に見つかりすぐに引き上げられたが、ミズキだけは何年経っても行方知れずのままだった。

 ミズキの母親はイツキを責め立てた。

「あんたがあの子を誑かしたせいで! あの子を返して……返しなさいよぉ!」

 その縋り付くような声と鬼火の灯った瞳に追われ、イツキは中学の卒業を待たず故郷を離れた。だが死に損なったという事実、恋人だけを死なせたという事実は感傷となり思い出となり、イツキの心に君臨し続けた。

「本当はもっと早く死ねたら良かったんだけど」

 上京してからは日々に追われていた。着の身着のままに家を飛び出したせいで生活はままならず、故郷に帰るためにも金がいった。

ようやく帰るだけの金を得る頃には数年の月日が流れていた。

「随分待たせだけど……ミズキはまだ愛してくれるかな」

 波が一際大きく防波堤にはぜた。イツキは立ち上がり水平線を眺めた。

 夕陽が沈もうとしている。波が暮色を乱反射し、ブレスレットを輝かせる。

 イツキは波に――ミズキに抱かれるため暗い水底に足を踏み出した。

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