二 大豊災 -2-

 額に触れる、冷たく柔らかい感触に目が覚める。

「う……」

 口から漏れた声が自分の耳に届いて、いっそう現実が近くなる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ぼんやりとした視界の中、丸型蛍光灯のはまったレトロなペンダントライトが見えた。この天井は、社務所の俺の部屋だ。

「浅野さん? 気がつきましたか」

 隣から声がかかり、ぼんやりとしたままそちらへと視線を向ける。はじめは視界がぼやけていたが、数回瞬くと彼の姿がはっきりと見えた。

 俺は部屋の布団の上に横になっていて、冬夜が隣に正座をして座っている。葬儀の時の白い着物から普段着に着替えており、彼はいつもの少年らしいティーシャツと半ズボン姿だ。

「冬夜くん。どうして……無事だったのか」

 掠れた声で問いかけると、冬夜は眉を下げた。

「埋葬が済んだら、浅野さんが急に僕の手を取って走り出して……そのあと、激しく咳き込みながら意識を失ってしまったんですよ。ひどく熱も出ていて、本当に心配しました。川中先生に見ていただいたら、疲労が溜まっていんだろうってことだったんですけど。父さんと、立川さんが手伝ってくださって、ここまで運んできました。いまはもう夜の八時です」

 冬夜は手を伸ばし、冷たいタオルを俺の額の上に乗せ直す。しばし混乱して言葉の出ない俺の様子に、冬夜は、

「今日の雨に加えて、昨日も枯沢で濡れたままにしていたから、体が冷えてしまったんですかね」

 などと呟いている。彼の言うことを噛み砕くように理解してから、俺は深く息を吐き出した。

「あれは、幻覚だったのか……」

 いったいどこから幻覚だったのか。幻覚を見ていた本人である俺には、その判断が難しい。しかし、立川も倒れた俺をここまで運んできてくれたというのだから、立川も無事なのだろう。

「幻覚?」

 俺の漏らした言葉に、冬夜が反応する。

「あ。いや……きっと熱で変なものを見たんだろうな」

 取り繕って下手な笑いを浮かべたが、冬夜のすべてを見通すような黒曜石の瞳は、俺に向けられたままだ。俺はもう一度溜息を漏らすと、

「荒唐無稽なことだが」

 と前置きをした上で、自分が見た幻覚の一部始終の内容を話した。冬夜は、一度も俺の言葉を遮ることなく、真剣な表情で最後まで静かに聞いていた。

「本当に、わけがわからないだろう?」

 次第に曇っていく冬夜の表情に、軽く茶化すようにそう付け加える。だが、冬夜は変わらずシリアスな表情で首を振った。そして、ためらう様子を見せながら口を開く。

「俺も、見たことがあります。どうして、浅野さんがその光景を見たのかはわかりませんが」

「同じ幻覚を?」

 驚く俺に、冬夜は頷く。

「実は勾島には公にはされていない、古い言い伝えがあるんです。それが、浅野さんが幻覚で見た内容と一致します。言い伝えを聞いたから、内容の強烈さに、幻覚を見ているのかもしれませんが」

「言い伝えの内容を、聞かせてもらうことはできないだろうか」

 問いかけると、自身の唇を舐めて湿らせてから、冬夜はゆっくりと話しはじめた。

「勾島は、その昔、本州で罪を犯した人の流刑場だったと言われています。これは古い文献に勾島の名前が登場するのがそれからなので、事実です。まったくの無人島に流されてくるわけですが、普通はそのような過酷な環境では生きていくことができないので、実質死罪のようなものですね。昔は今のように航行技術も進んではいないので、そもそも長い船旅の間に死んでしまうことも多かったようです。しかし、何人かは島でも生き残り、徐々に開拓をはじめることになります。流刑になる者は当時、異端の宗教を信仰していたために罪に問われたものが多かったそうで、勾島では次第にさまざまな儀式が行われるようになりました」

 内容が細かいが、ここまでは村役場の島の歴史コーナーで見かけた内容と一致する。

「そして、度重なる儀式の中で、多種多様な異界の神が島にやってきたそうです。彼らは互いに争いながら、呼び出されたこの地を我がものにしようとしていました。当時の勾島には実りが少なく、地下水もなかったため、人が安定して住むことは難しい島でした。しかし、呼び出された一柱の神は、そんな勾島に豊かな植物と実りと水を与えてくれました。当時の島民たちは慈悲に感謝し、その神を正式に島の守り神として迎え入れることにしました」

「それが、根っこ様か?」

 俺の言葉に、冬夜はそうだとも違うとも言わずに曖昧に微笑み、言葉を続けた。

「島民は、豊かになった暮らしにより順調に人口を増やしていきましたが、神を迎え入れてから一〇〇年後のある日、事件が起きたそうです。その事件は、大いなる豊かな災いと書いて、大豊災たいほうさいと呼ばれています」

「いったい、何があった?」

「浅野さんが見たものですよ。人々の体から枝や根が生え、体が宙に浮かぶ。彼らは口から胞子を放ち、よりいっそう島の緑は深まったといいます。大豊災により、当時の島民の大半が亡くなりました。農夫が畑に種をやり、水を撒き、肥料を与えて実らせてから収穫するように、神もまた、己の実りを収穫したのだろうと言われています」

 冬夜の淡々とした口調にゾッとする。話に聞いているだけではあまり実感が湧かなかったかもしれないが、俺は、その光景の禍々しさを実際に目の当たりにしてしまっている。

 ここで、改めて浮かんできた疑問がある。噴火口に生えている木の樹齢を考えた時に浮かんだ疑問だ。一〇〇年前にあったという大噴火は、本当に噴火だったのか。

 俺の考え込む表情を見て、不意に冬夜が笑い出した。

「ただの言い伝えですよ、浅野さん。そんなに怖い顔をなさらないでください。今では、大豊災があったと言われている日に毎年、災いの字を祭りに変えた大豊祭たいほうさいが行われるんです。そうしてお祈りをして、たくさんの収穫物をお供えすることで、神様にご満足いただいているのです」

「大豊祭はいつ行われるのだろう」

 問いかけると、冬夜は浮かべた笑顔のまま、

「五日後です」

 と答える。

 彼の声に、俺は妙に冷たいものを感じた気がした。

「急だな。どうしていままで、そのように大切な祭りのことを教えてくれなかったのだ? 前に、ほら。島のさまざまな独特の風習とか、新年の祝い方とかも、教えてくれたときがあっただろう」

「大豊祭が、僕たちにはあまりにも当然なことだったので、失念していました……そういえば、お腹空いていますか? 僕と父さんはもう済ませてしまったのですが、浅野さんのお夕飯もとってあるんですよ。こちらに持ってきましょうか」

 話を変えるように両手を合わせてパンと音を鳴らし、冬夜は明るい口調で問うてくる。体の奥でさざめく不快感を押し殺しながら、俺は彼に合わせるように微笑み頷いた。

「ああ、そういえば腹が減った気がする。よかったら持ってきてくれるか」

「もちろんです。温めてきますから、少々お待ちくださいね」

 彼は面倒そうな様子もなく、むしろ嬉しそうに部屋を出ていく。

 『農夫が畑に種をやり、水を撒き、肥料を与えて実らせてから収穫するように』と、そう言った彼の言葉が、いつまでも耳に残っていた。

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