二 秘密 -1-
翌日は、予報通りに大粒の雨が降った。先日の一週間雨が降り続いた暴風雨とは違い、風はさほど強くはない。建物の中にいれば、外の様子は気にならなかった。
俺と後藤は、社務所の中で健と家茂の荷物を順にまとめていく。不要なものは島で処分してもらい、必要なものはまとめて後藤が持って帰ることになる。他人の使っていた部屋に入り、荷物を勝手に漁るという行為には申し訳なさを感じたが、持ち主は故人になってしまったので仕方がない。
健の荷物を整理をすることは、彼がもう死んでしまったのだ、という事実に正面から向き合うことだった。荷物の一つひとつをたしかめるたびに、俺にも悲しみの感情が込み上げてきた。作業を続けながら、後藤はまた、しばしば涙を堪えている様子だ。それでも昨日と比べれば、彼の精神はだいぶ安定していた。翌日には島を出られるという先の予定が、心を落ち着かせてくれているのだろう。
「浅野さんはこれから、島でどういった調査をされる予定なんですか?」
作業を進めながら、後藤に問われる。
「俺は新種の植物を探しているのですが、まだ大山近くの調査をしていないので、登山を含めつつその辺りを中心に歩き回ってしらみつぶしに……といったところですかね。あとは、春樹くんの家があった畑のエリアも、もっとしっかり見ていきたいです」
大山付近の調査が済めば、島内での人里離れたところの捜索は終わったことになる。そうなれば、あとは民家に近いところに隠匿されている可能性が高まる。
畑でなにが栽培されていたかは、葬儀のときにだいたいは確認済みだ。しかし、もっと隅々まで探していけば、MADの原料となるものが見つかる可能性があると考えている。
「でしたら、このあたりの道具はお役に立ちそうでしょうか」
健の荷物の中から、後藤は小分けのバッグを一つ差し出した。中を見てみると、大きな懐中電灯やピッケル、予備のロープなどの道具が入っていた。
「ああ。これはたしかに、山へ行くときに重宝しそうです。しかし、これは健くんの道具ですよね、持ち帰らなくてもよろしいのですか?」
「健の家にはもっとたくさん、こういった道具がありますし。健も、浅野さんに使っていただける方が嬉しいと思います」
後藤の言葉に微笑み、俺は、ありがたく健の道具を譲ってもらうことにした。
健の荷物の仕分けと部屋の清掃を終えて廊下に出ると、家茂の部屋へと移動する。
「健に比べたら家茂さんの方が、仕分けは早く終わると思いますよ。家茂さんは、大雑把そうに見えて片付けがうまくて、部屋を綺麗に使う人ですし」
「そうなのですね。後藤さん自身のお荷物は、もうまとまっていますか?」
会話をしながら廊下の床板の一箇所を踏むと、ミシリと大きな音がした。同時に、視界の隅に白いものが映る。
『それ』は、窓の外に立っていた。
雨粒の音に混じり聞こえてくるのは、硬質なものが窓ガラスをノックするような断続的な物音。
——コツ、コツ、コツ、コツ。
俺は足を止めると、意を決して窓へ視線を向ける。正面から見据えても幻覚は消えない。
『それ』は、雨にうたれて表面がテラテラと光るように濡れている。
俺たち大人の人間と変わらぬ大きさの人に近いシルエット。水棲生物のような滑らかな白い肌。顔からはびっしりと枝のようなものが伸び、細長い腕が胴体に幾本もついている。先日見かけたような巨体ではないが、そこに佇んでいるのは間違いなく根っこ様だった。
根っこ様は腕の一本をあげ、手のひらから磯巾着のように無数に生えた細長い指先を用い、一定間隔で薄い窓ガラスを叩いている。
——コツ、コツ、コツ、コツ。
顔面はみっしりと枝で覆われている。目鼻といった人に近いパーツがないため、感情の起伏は読み取れない。
しかし、なぜだろうか。俺は、それに真っ直ぐ見つめられていることだけは理解できた。呼ばれていると、そう、直感が告げている。恐怖のあまり、思わず半開きになっていた口の中が急速に乾いていく。粘ついた唾液を嚥下して、こくりと喉が鳴った。
そうしてただ見つめていたのは、どれくらいの時間だったのだろうか。永遠のようにも感じられたが、実のところは、とても短かったのかもしれない。
俺は、根っこ様が指先以外を動かさないことを確認すると、ゆっくりと近寄ってみた。幻覚はまだ消えない。存在を確かめるべく腕を伸ばし、根っこ様によって叩かれている窓を開けていく。薄く開いた隙間から、生暖かく湿った空気が流れ込む。
緊張が最高潮に達した、その瞬間。
「……!」
俺が薄く開けた窓を、横からやってきた後藤が渾身の力で閉め直した。後藤は一言も声を発さずに全身を震わせている。彼にも、俺と同様になにかが見えているのか。
後藤はそのまま俺の腕を掴み、すぐ近くの家茂の部屋へと入った。
後ろ手に木戸を閉め、根っこ様の姿が見えなくなると、全身を支配していた緊張感が僅かにほぐれる。
「浅野さん、あなた、なに考えてるんですか」
体の震えが止まらぬ様子で、後藤は自らの体を両腕で抱くと、畳の上にしゃがみ込んだ。言葉自体は責めるような内容だが声に怒気はなく、震える吐息に篭っているのは、ひたすらに恐怖の感情のみだった。
「なにが見えているのですか?」
そんな後藤の様子を見つめながら、謝罪するより前に、俺はそう問いかけていた。これは重要な問いだった。
「なにがって、浅野さんも見たんでしょう。見たから、意味もなく急に窓を開けようとしたんでしょう? あれを招き入れるような行為、俺からしたら、それも意味がわかりませんが」
「はい、見ました。ただ、後藤さんがどんなものを見たのかを教えて欲しいのです。俺と後藤さんの見ているものが一緒なのか、違うのか」
俺の真剣な表情を見て、後藤は形の良い眉を寄せた。ちらりと部屋の木戸を見て、それが閉じられていることを確認してから、彼は家茂の荷物に手をつける。鞄から取り出したのはノートとペン。後藤は膝の上でノートを開くと、罫線を気にすることなく、ページ全体にペンを走らせはじめる。書いているのは、文字ではなく絵だった。線を重ねて素早く描かれるそれは、彼の画力の高さを感じさせる。
後藤はしばらく無心で描き続けると、今度は目にもしたくないといった様子で俺にノートを押し付けた。受け取ったノートを正面から眺めた瞬間、底知れぬ恐怖が遅れてやってくる。
写実的に描かれた、窓の外に佇む異形。
なにも知らずにこの絵を見たら、ファンタジックな空想上のスケッチだと感じるに違いない。だが実際は、目撃したものをそのまま忠実に描いた『記録』だ。俺にはそのことがわかる。なぜならば、俺が見たものと寸分違わぬ異形がそこに描かれているからだ。自分が見ているものは、ただの幻覚ではないのではないか。以前も感じた疑念がいっそう大きくなって、また頭を擡げだしてくる。
「見た目からして、あれが根っこ様と呼ばれているものだと思うんです」
その名前を呼ぶことを恐れるように、後藤は声を抑えて囁いた。
「この島で崇拝されている神様ですよね」
「神様なんて、綺麗なものじゃないとは思いますけどね……春樹くんが死んだときは、もしかしたら、家茂さんが殺したのかもしれないなんて、考えましたよ。でも、春樹くんも健も、あの化け物が殺したんだって、いまでは断言できます。この島は、あの化け物に取り憑かれてるんです。やっぱり、一刻も早く島を出ないと……」
改めて意志を固め直したように、後藤は急いで家茂の荷物を仕分けはじめる。
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