第三章 枯れたる砂

一 消失 -1-

 家茂の身投げという衝撃的な光景を目の当たりにして、誰もが放心状態で経過したのは五分程度だった。俺たちを正気に戻したのは、背後から聞こえた大きな物音。爆音の衝撃に、周囲の森から鳥が飛び立っていく。

「今度はいったいなんだ?」

 俺は、放心状態で泣きじゃくっている後藤の体を抱き留めたまま視線を向け、身動きを止めた。

 森の木々を超越して、あの雨の日に見た、白く巨大な異形が佇んでいた。今日は快晴だ。けぶる雨の中に見たものよりもはっきりと目に映るそれは、とても幻覚とは思えぬほどの明瞭さだった。「根っこ様のことを、じっと見つめない方がいいですよ」と囁いた冬夜の声を思い出し、咄嗟に顔を伏せる。

 そして、先ほど口に出した、自分の問いかけの答えに思い至る。あの異形がいるのは、大穴のあたりではないだろうか。大穴にかけられた足場には、いま、健の死体が残されている。先程の物音には、金属が擦れ合うようなものが混ざっていなかったか。

「まさか……」

 嫌な考えが浮かんだ。

 暑さによるものではない嫌な汗が、こめかみを伝って流れていく。

「冬夜くん、後藤さんを頼む」

 同じくそばで放心していた冬夜に後藤を託して走り出すと、来た道を戻っていく。顔を上げれば、異形の姿はいなくなっていた。

 森を抜け、再度視界が開ける。大穴が見えた。そこに、足場の存在は跡形もなく無くなっていた。当然、足場に乗っていた健の死体も一緒に消えている。

「おいおいおいおい、嘘だろ」

 畳みかけるように起こる信じられないできごとに、頭がついていかない。だが、大穴に架けられた足場が忽然と姿を消したということは、紛れもない事実だった。先ほど響いた物音と符合させれば、健の死体もろとも、足場が穴の中に落ちたのだ。

 大穴に近寄って中を覗き込んだが、足場の残骸らしきものは何も見えなかった。あったものが無くなっているのだから、足場が大穴の中に落ちたのだと断定すれば良い。だが俺は、先ほどまでなんら不安を覚えることなくその足場に乗っていたのだ。あれは、鳶職の技術を持った健と家茂によって組まれた非常に頑丈なものだった。特になにがあったわけでもなく落下するほど、柔だったとは思えない。

 こちらに近寄ってくる足音に顔を上げると、神社のほうから瀬戸が小走りでやってくるところだった。彼の眼差しは、一人で穴の横に佇む俺に向けられる。

「すごい物音が聞こえましたが、大丈夫ですか」

 問いかけられ、答えに詰まる。なに一つ大丈夫ではない。健が穴の中で常軌を逸した死に方をし、それを見て錯乱した家茂が崖から海へ身投げして、先ほどまであった頑丈な足場と、健の異常な死体も消えてしまった。

「信じてもらえないかもしれませんが……」

 俺は乾く唇を舐めてから、瀬戸にいままでの事情を説明しはじめた。


 説明を聞いた瀬戸は、ただちに警察へと通報した。また、地元の漁師にも連絡が行き、すぐさま海に落ちた家茂の捜索が開始された。しかし、それから二日が経過した現在にいたっても、いまだに家茂は発見されていない。生きていることを信じたいが、いかに下が水面だとはいえ、五〇〇メートル近い高さから落下して、生存していることはまずあり得ない。いまは、彼の死体を探しているに過ぎないのだ。

 そして、健の死体もまた見つかっていない。足場と共に穴の中に落ちたのだろうということは予測できる。ただ、一〇〇〇メートル以上は深さがあるとわかっている穴の中へ、彼の死体を探しに行ける者などこの島にはいなかった。そもそも、その深い穴の中を調査するために島外から呼ばれたのが、俺たち調査隊なのだ。穴の中への下降技術を持つ家茂と健の両名が失われた現状では、もはやなす術はない。

 健も家茂も、俺の目の前で死んだ。だが、両者とも遺体すら残っていない。二人とも、まるで突如として消失してしまったようだ。

 士郎による聞き取りは、春樹のときと同様に、現場にいた全員に対し行われた。だが、それで何がわかるわけでもない。皆が寝静まった夜間に死んだ春樹に対し、健の死についてはその場にいた全員が、同じ状況で同じものを見ているのだ。健は単身で穴の中に入っていき、引き上げられたときには全身から白い花を噴き出させるようにして死んでいた。それは春樹の死に姿同様に、人がどうこうできる所業ではないように思われる。

 一連のできごとで俺にとってもっとも痛手だったことは、健の死体が失われてしまったことだった。混乱の中の僅かな時間しか見られていないが、健の体を覆っていたエーデルワイスに似た白い花は、枯れていない根贈だったのではないかという気がしているのだ。あのとき、せめて一輪であっても引き抜いて、手元に確保しておけていたらと後悔しても、時は戻らない。健の死体が失われることなど、誰も予期しなかったのだから。


「浅野さん、大丈夫ですか?」

 気遣わしげな声で冬夜に呼びかけられ、俺はハッとして顔を上げた。いまは瀬戸・冬夜・俺の三人だけで夕食をとっている最中だ。あらかた食事を済ませた俺は、空になった器を手に、事件について考え込んだまま箸を握りしめていた。

「ああ、すまない。少し考え事をしていた」

「浅野さんが謝られることは、なにもないのですが。後藤さんは、大丈夫でしょうか」

 隣の部屋にいても木戸越しに泣き声が聞こえてくるほどだった後藤は、ずっと部屋に引きこもっている。春樹が死んだ直後の家茂のようだ。

「俺も心配している。俺と違って、後藤さんは家茂さんとも健くんとも長年の付き合いのようだから。二人を同時に失って、よほどショックだったのだろう」

 冬夜はゆっくりと俯く。春樹を失った自分のことを顧みたのだろう。

 代わりに声をかけてきたのは瀬戸だ。

「後藤さんの分のお夕飯も用意してありますから。よろしければ、浅野さんから届けていただけませんか。私が声をかけるよりは、心も休まるかと」

「ありがとうございます、そうさせていただきます。それから、あの……度々お聞きしてすみませんが、本州からの警察や救助隊は来ないのでしょうか」

「そうですね。士郎さんからも連絡をしてくださったそうなのですが、相変わらずで。島の中でのことは、島で解決してくれと言われてしまったようです」

「しかし、家茂さんも健くんも島の人間ではありません。それに大穴の中へ彼の遺体を探しに行ける者が、島にはいないのですよ」

 瀬戸は眉を寄せて、申し訳なさそうに表情を曇らせた。

「正直、証拠がなにもない状態では、浅野さんたちの証言は本州の警察に信じられていないのだと思います。ただの失踪と捉えられているのではないでしょうか」

 瀬戸の言葉に、俺はため息を噛み殺す。

 瀬戸・士郎・立川・宮松。島の人間に対する正体の分からない不信感が、俺の中でここ数日、無視できなくなるほどに膨れ上がっている。その大元は、家茂が俺に伝えてきた「島の人間には、気を許すな」という言葉だ。あの言葉が、彼の死と、死ぬ間際に述べていた「逃げろ」というメッセージと共にいっそう重みを増している。

「ごちそうさまでした。後藤さんに夕飯持っていきますね」

 自らのお膳を台所に下げ、代わりに用意されていた後藤の分のお膳を持って、俺は廊下を歩いていった。

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