第一章 実らん木

一 勾島 -1-

 漁船から見上げると、その島はまるで海に聳える要塞のようだ。

 名は勾島まがしま。海の上に突き出る円柱状をしている。島面積は四・七九平方キロメートル。本州から約三八〇キロメートルも離れた、太平洋上にある絶海の孤島である。

 海岸線長は六・五キロメートルあるものの砂浜は存在せず、島の周囲すべてが切り立った断崖絶壁になっている。有人島であるが、島の形状からして人の上陸を拒んでいるようだ。

 俺が船の甲板に座って島を見上げていると、船室から後藤ごとうが出てきた。彼は船縁近くに立つと、首にかけた無骨な一眼レフカメラを構えて、パシャパシャと小気味よいシャッター音を響かせる。揺れる船上で長らく立っているのは辛かったのか、しばらくするとよろめきながら俺の横に座った。

「船酔いはどうですか」

 尋ねると、彼は情けなさそうに、形の良い眉を下げる。

「だいぶマシになりました、ありがとう。みっともない姿をお見せしましたね。元々はそんなに酔うタチでもないんですが」

 そう話す後藤は写真家だ。彼の髪は垢抜ける程度の焦茶で、緩やかなパーマが当てられ、襟足だけを刈り上げるツーブロックにしている。同性の俺から見ても、お洒落で見目よい男だ。

「仕方がないですよ、この揺れ方ですから」

 三時間前に、この小型漁船は八丈島から出港した。今日は春のうららかな日和だ。波も風も穏やかで絶好なコンディションであったにもかかわらず、出港から一時間もすると、高波に煽られて船は大きく揺れた。

 海が荒れはじめたのかと俺は思ったが、船の持ち主であり漁師の立川たちかわ曰く、

「この程度の揺れは穏やかな方ですよ」

 とのこと。目的地である勾島は黒潮のど真ん中に存在し、常に激しい海流にさらされている。

「わぁー! だいぶ近づきましたね。もう到着ですかね、長かったー!」

 賑やかな声を上げながら、操舵室から走ってやってきたのは眞栄田まえだだ。身長は一六七センチと比較的小柄で、俺よりも三歳下の二四歳。ワックスを使ってツンツンと立てられた明るい茶髪とベビーフェイスが、彼の幼さを引き立てている。そのせいか、下の名前で「たける」と皆から呼ばれており、俺もそれに倣っていた。

 船の縁を掴んで健はぴょんぴょんと跳ねる。船の揺れもあって、なにかの拍子にそのまま海へ転落しそうだ。見ているだけでヒヤヒヤする。

「おい健、落ちるんじゃねぇぞ。拾ってやんねぇからな」

 そんな俺の気持ちを代弁するかのように、船室から出てきた家茂いえもちが低い声で言った。彼は五〇歳間近であるにもかかわらず、身長一八五センチの長身で、がっしりとした鍛えた肉体を持つ。顎と鼻下に無精髭を生やし、無造作に前髪をかき上げている風貌には威圧感があった。

 しかし、どやされた健本人は慣れているのか、萎縮する様子すら見せない。

「はーい」

 と元気いっぱい応えるが、跳ねる動きは止まっていなかった。

 家茂は、口元を隠すでもなく一つ大きくあくびをすると、胸ポケットから取り出したタバコを口に咥える。

正治しょうじ、体調はどうだ。島は撮ったか?」

 彼は後藤に問いかけると、島のほうへと顎をしゃくってみせた。

「はい、写真も体調も問題ありません」

 後藤が手にしたカメラを軽く持ち上げて示すと、家茂は頷き一つで返す。タバコに火をつけ、満足げに煙を吐いた。

 彼は、風貌と仕草のガラの悪さから裏稼業にでも従事していそうに見えるが、その職業は探検家であり、俺たち三人のリーダーである。すなわち、俺たちは総勢四名の探検隊となるわけだ。実際は、島の調査をするために来ているので、調査隊と称すべきか。

 そうこうしているうちに島が近づいてきて、港の存在を確認できるようになった。港といっても、海中に突き出した岩に渡す形で、島から海へコンクリート造の桟橋が伸びているだけのものだ。

「あれ、港に人がいますよ。オレたちを歓迎してくれてるんですかね。おーい!」

 桟橋の上に立つ人の姿を目ざとく見つけると、健は両手を上げて大きく振ってみせる。すると、桟橋の上の人たちも同じように手を振り返してくれる。

 島民からの歓迎の意を感じられるようで、無意識にこわばっていた俺の顔が僅かに緩む。表情の変化を隠すため、俺は中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。


 桟橋にいたのは、中学生ほどの四人の少年と、一人の老人。

「夏久!」

 着岸すると、少年のうち一人の名前を呼びながら立川がロープを投げる。声に反応し動きはじめたのは、少年の中ではもっとも背の高い、精悍な印象の子だ。彼は投げられたロープを引きながら、ビットにかけて船を係留する。俺たちはそれぞれに荷物を抱えると、桟橋へと降り立つ。

「ようこそ勾島へ」

 船から降りる俺たち各々へ、歓迎の言葉を告げながら老人が手を貸してくれる。彼は、少年たちと身長がほぼ変わらない小柄な好々爺といった印象の老人だ。しかし、俺の手首を掴んで体を引いてくれた力は想像以上に強かった。

「ありがとうございます。おっと、と……」

 桟橋に足をつけた瞬間、体のバランスが取れずによろめいてしまう。桟橋はコンクリート造なので揺れるわけがないのだが、三時間も船に乗っていたため、俺の体の感覚のほうがおかしくなっている。

 そんな俺を支えてくれたのは、また別の少年だった。

「大丈夫ですか?」

 直撃する太陽の光の下でも、彼の黒髪は濡れたように深い色をしている。健康的な小麦色の肌だが、柔和な印象の顔立ちをしていて、妙な透明感がある。触れた指先はひんやりとしていた。

「すまない、ありがとう」

 感謝の言葉を述べると、彼はふわりと微笑んだ。

「歓迎痛み入ります、私が家茂です」

 全員が船から降りたところで、家茂は老人に向かって話しはじめた。

「近影どおりの、実に精悍なお方ですね。儂が村長の宮松節司みやまつせつじです」

「あなたが宮松さんでしたか。このたびはお招きいただき、ありがとうございました」

 このたびの勾島への上陸は、島民である宮松からの招き入れがなければ、成し得ないものであった。家茂は姿勢を正すと宮松に頭を下げる。

「いえいえ、儂らこそ。高名な探検家の先生にこんな辺鄙なところまで来ていただけて、感無量ですわ」

「探検家だからこそ、辺鄙な場所に行くのですよ」

「ははあ、その通りですな」

 短いやりとりの後、元から皺の深い顔をいっそうしわくちゃにして宮松は笑う。

 事前に聞いていた話によると、この島の村長である宮松が家茂の存在を知ることになったのは、家茂の著書がきっかけだそうだ。後藤が撮影した写真を掲載し、国内外各地の秘境と冒険の様子を赤裸々に綴った本はそこそこの売れ行きを見せており、家茂はその印税を主な収入源として活動を続けている。しかし家茂は、固定のスポンサーがついているわけではなく、「高名」というほど名が知れているわけでもない。

 勾島は、上陸困難な港の形状を理由に島民以外の島への立ち入りを基本的に禁止している。波を防ぐものが周囲になにもない勾島の港は、船をただつけるだけでも至難の業が要求されるのだ。定期船などはなく、船をチャーターしようにも、着岸困難な勾島へ行ってくれる島外の船乗りはそうそう見つからない。まさに、島外からの上陸を拒む秘境の島だ。そんな閉鎖的な勾島からの招待は、探検家である家茂にとって、降って湧いた千載一遇のチャンスだった。

「うちの隊員をご紹介いたします。写真家の後藤正治、元鳶職でなんでも屋の眞栄田健、植物学者の浅野みのるです」

 家茂からの紹介を受け、俺たちはそれぞれに頭を下げる。

「皆様、どうぞよろしくお願いいたします。この子は儂の孫で千秋ちあきといいます。それから、この子が春樹はるき、この子が冬夜とうやです」

 宮松が少年たちの紹介をはじめる。肩に手を置いて彼が孫と紹介した少年の髪は明るい。ファッションのために髪を脱色したというわけではなく、強い日光と海水の影響で自然に色が抜けているのだろう。溌剌とした笑顔が明るい。

 春樹は少年たちの中でも一際小柄だ。長めの前髪を銀色のヘアピンで留めていて肌が白く、ぱっと見は少女のように見える。名前を呼ばれて彼は一度お辞儀をすると、恥ずかしそうに顔をすぐ俯かせてしまった。

 冬夜は、先ほど俺に手を貸してくれた子だ。

「最後に……あの子が立川の息子で、夏久なつひさです」

 宮松が指し示すのは、船からのロープを受け取っていた子だ。いまも彼だけ少し離れた場所に立ち、立川の手伝いをしている。

 宮松は話を続ける。

「島は、深い森や切り立った崖などの危険な場所が多いうえ、通信機器の類が使えません。移動の際は安全のため、どこへ行くにもこの子らをお連れください。この子らは中学三年生ですが、高校に進学する予定はないものですから、学校のほうにも話はついております」

「なるほど、この子たちが島での我々のガイドをしてくれるわけですか、それは大変ありがたい。しかし、通信機器が使えないというのは、どういうことですか?」

 宮松の説明には、家茂が受け答えをする。

「この島はどうも磁場が強いらしく、電気製品一般も壊れやすいんですが、通信機器は特に使えんものが多いんですわ。そもそも基地局が近くにありませんので、普通の携帯電話はすべて圏外になります」

 俺は言葉を聞くと、ポケットに入れていたスマートフォンを出して、液晶画面を確認した。はっきりと圏外の表示がある。乗船中に圏外になっていたのは気にしていなかったが、まさか、人が普通に暮らしている島でも使えないとは思わなかった。

「通信手段がないと、色々と支障が出そうですな。なんとかなりませんか」

 宮松と事前に色々とやりとりをしていた家茂も、この件については初耳だったようだ。渋い表情を浮かべている。

「我々はそういった中で生きておりますので、なんとも。しかし海中にケーブルが通っておりますので、固定電話は使用できます。なにぶん狭い島ですからね、通信手段がないとは言え、そこまでの不便はないと思いますよ。島のことはこの子らが熟知しておりますから、なにか困りごとがありましたら、なんなりとお申し付けください」

「よろしくお願いします!」

 宮松にポンポンと軽く肩を叩かれると、瞳を輝かせながら千秋が言った。たったいま顔を合わせただけだが、島で生きているという頼もしさと、最近では稀有な程の純朴さとを少年たちから感じた。きっと良い子たちなのだろう。都心部で見かける同年代の子たちとは、纏う雰囲気がまったく違う。

 そうして話していると、港の先端につけられたクレーンが機械音をたてて動き出した。降りてきたクレーンのフックを、慣れた様子で夏久が船につける。船は水を吹き出しながら海から宙へと持ち上げられ、クレーンにつけられたケーブルのレーンを伝って移動していく。最終的には、港の奥にあるフェンスの向こう側へ下ろされた。

 船が宙を移動していくという見慣れない光景を前に、構えたカメラから後藤は何度もシャッターの音を響かせる。

「あれは、なんなのですか?」

 問うたのは家茂だ。

「この港は外海にそのまま突き出しておるもんで、船を長く係留させておくことができんのです。ですんで、船は使ったら、ああしてクレーンで陸にあげておきます」

「なるほど。島の暮らしとは大変なものですね」

 船の姿が見えなくなってしばらくすると、夏久が戻ってきた。横に並ぶと、夏久は健よりも僅かばかり背が高かった。

 全員が揃ったところで、港の入り口に停めてあった白のミニバスを宮松が示す。

「では早速、皆様に滞在いただく神社までご案内いたします。こちらへどうぞ」

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