5-5・素顔の欠片
次の日も木々の間を馬車は行き、ようやく草原と呼べる平野が見えたのは三日目の午後だった。人家が見えたのはさらにその翌日のことだ。細々と畑を作る一方でなにか生き物を飼っているらしく、ディグレーが見に行ったところによると家畜小屋で一家全員が立ち働いていて、天使を見なかったかとの問いには誰もが首を横に振ったという。
「驚いたな」とはエデルの言だった。「町へ待避していない民がいたとは」
「そんなに危険な天使なんですか?」
ナイトレイが尋ねると、エデルはいやと言いながら幌の外を睨んだ。
「アブルバッツェのほうだ。その季節とあって現在、町への退避命令が出されている。町は周囲を壁で囲んであるからな」
「家畜がいるとそうもいかねぇんだよ、お坊ちゃん」御者台へ戻ったディグレーが手綱を扱いながら言った。「飼われた獣は餌をもらえなければ飢えちまう。家畜が飢えれば次は家族だ。だから、いやでも動けねぇのさ」
「だが、もし襲われたら?」
ディグレーは肩をすくめて背中で言った。
「ご愁傷様だ。一家の誰かが法外な力を持っていれば話は別だが。まあ、待避壕のひとつやふたつ掘ってるだろうよ。無事にそこまで走れることを願うしかないな」
そこから先はまた草原が続き、さらに半日ほど進んだところでようやく耕作地とひとかたまりに建てられた民家の群れが見えてきた。相変わらず堀もなければ柵もない安穏とした作りの村のようにナイトレイの目には映ったが、退避命令が出ているのは真実なのだろう、住民らしき人影はひとつも見えなかった。幌馬車はようやく誰かの踏み固めた道に出て軽快に進み、そして五日目の昼に襲撃を受けた。
人っ子一人見えない村の中を通過して、どこまでも続くように見える畑へ出た時だ。
ティータイム代わりに干しイチジクを頬張っていたエデルがぶるりと身震いしたかと思うとそれを取り落とし、次いでディグレーの声が鋭く響いた。
「七時方向! 出やがったぜ!」
素早く片膝を立ててナイトレイは幌の合間から外を覗いた。がたん、と馬車が大きく揺れたかと思うと加速する。青々と水平線までを埋める麦畑の向こうにそれは見えた。
最初は黒い雲のようだった。空の彼方、白雲の中にぽつんと取り残された雨雲だと思えばそのようだったが、そうでない証拠に雲とは思えない速度で蠢いていた。小さな胴に長い足を備えた蜘蛛のように見えたかと思えば、見る間に各部が伸び縮みして七本の指を持つ手のひらのようになる。強風でぼろ布がたなびくように尾を引きながら、それは急速に近づいてくる証拠にみるみるうちにその巨体をさらした。
じゃああっと鎖を擦り合わせるような音が頭上から振ってくるとともに視界が陰った。幌の上を横切ったそれは、見間違えでなければ一個の肉体を持っているのではなかった。無数の黒い甲虫だ。何千何万という拳大の甲虫が羽を広げて群れをなし、ひとつの巨体を形作っているのだった。
幌の隙間から外を覗くナイトレイめがけてそのうちの一匹が飛び込んできて、慌てて身を引いたところ、ばしんと馬車の床が鳴った。振り返ればエデルが掌を痛そうに振っている。木製の床の上には角のないカブトムシのような虫が一匹、黒い煙を細く噴き上げながら文字通り消えていこうとしていた。エデルに叩かれて平べったくなったその体からはみ出るものはその黒い煙だけだ。例えば羽虫を潰した時のように、白くやわらかな体液がにじみ出てくることもない。まるで体は煙でできていると言わんばかりだった。
ばちばちばちっと幌が悲鳴をあげ、続いてびぃっと布の引き裂ける悲鳴が聞こえた。
「変われ!」
ディグレーの声が耳を打ち、ナイトレイは機敏に御者台へとりついた。
「手綱は持っているだけだ。連中の好きに走らせればいい。いいな?」
彼は早口でナイトレイに説明すると後部に手を伸ばした。即座にその手へ槍が渡る。
「しまったな。一頭立てにするんだった」
「奴隷ちゃんに御者をさせて、俺に前を走らせるってか? お坊ちゃんが望むならそれでも良かったが、その場合、旅程は倍に伸びてたぜ」
後部に手を伸ばしてエデルの体を引っ張り上げながらディグレーは笑った。片手で手綱を握ったナイトレイが手を伸ばすとその細身を膝の間に座らせてくる。
「んじゃあ、行ってくら。お坊ちゃんのことは頼んだぜ、奴隷ちゃん」
言うが早いか、ディグレーの姿は煙のように消えた。追うように遠雷のような音が轟き、今や真っ暗となった空の一端から光が差した。さっと目を走らせてみれば、虫の群れに円柱状の空隙ができていた。その先にちらりと槍が光るのが見え、再び消える。雷鳴が続けざまに聞こえるたび、バラバラと周囲に虫の死骸が落ちてきた。そのいずれもが黒い煙を噴き上げて、中のいくつかはまだ半死半生なのかピクピクと足を痙攣させている。腿の上に落ちてきた一匹を気味悪く払いのけ、ナイトレイは再びエデルの体を抱き込んだ。
一瞬、宙空にディグレーの姿が現れる。それに向かって黒雲が形を変え、恐ろしげな男の顔を作った。いや、化け物だ。鼻から上の至る所に目玉があり、口の代わりに引き裂けた布のようなあごひげがたなびいている。高く笑い声を響かせたと思うと、ディグレーの姿がまた消えた。同時に醜い異相のど真ん中に空隙ができる。悲鳴のような雄叫びをあげたのはおそらくアブルバッツェなのだろうが、その声は銅鑼鐘を鳴らす音のように奇妙にひずんでいた。
「退けっ!」
叫んだエデルが身を乗り出す。とはいえ踏みしめることができないので上体が大きく揺らぎ、慌ててナイトレイはその体を腕の中に取り戻した。
「じっとしててください!」
「言っている場合か!」
叫び返すなりエデルは手を伸ばした。その掌から赤い色の光弾が打ち放たれ、四つに裂け、八つに裂け、そして炸裂した。が、見るまでもなく豆鉄砲である。炸裂した光弾は何匹かの甲虫を弾き飛ばして落としたが、魔獣本人にしてみればかすり傷にも満たないだろう。
甲虫を弾き飛ばしながら鉄騎馬が鋭いカーブを描いた。御者台から放り出されそうになってナイトレイは思わず踏ん張る。いっぱいに手綱を引いてしまったが、二頭の鉄騎馬は構いもせずに駆け続けた。
ひゅっと風が切れ、重みのある音が背後から聞こえて振り返ると幌の上にディグレーが着地していた。
「核ってな、どこにあるんだ? お坊ちゃん知らねえか?」
「本には載っていなかった。それを破壊しないかぎり倒せないのはたしかだが」
「ああ、面倒くせえ野郎だ。仕方ねえ、撒くしかねえか」
「信号機は持っているな?」
「もち」という言葉を残して再びディグレーはその姿を消した。見上げる頭上に山羊の蹄のような形になった黒雲が迫った。蹄と一口に言っても、それは差し渡しで幌馬車より三回りは大きい。じゃあじゃあと耳障りな羽音が近づいてくる。思わず頭を下げたナイトレイの腕の中から半身を乗り出したエデルが再び光弾を放った。が、やはり豆鉄砲には違いない。何匹かの甲虫が頭の上から降ってくるのみで、落ちてくる蹄の勢いは変わらなかった。大きさゆえか、ひどくゆっくりと落ちてくるように見えていた蹄が、瞬間、弾かれたようにその場を飛び退く。追うように雷鳴が轟き、宙空で槍を構えたディグレーの姿が現れた。
馬車は必死に黒雲の支配下から逃れようとする。蹄が真ん中からぐにゃりと割れたかと思うと四方八方に足を伸ばしてきた。それはまるで檻だ。一本が一抱えもある鉄柵のようなものが次々に馬車の左右に突き刺さる。かろうじて馬車へ直撃しないよう逸らしてくれているのだろう、雷鳴が続けざまに炸裂し、そのたびに丸い空隙が黒雲を貫いた。
金属同士が擦れ合うような声が風を震わせた。それは聞き間違えでなければ「おのれ」と叫んだように思ったがどうだろう。
鉄柵がすさまじい勢いで空中へ収納されていく。振り返ってみると、それは空に浮かぶ巨大な球体に変化していた。球体の表面はぼこぼこと波打ち、一本がランスを数本束ねたような棘をせわしなく吐き出している。その真正面にディグレーが姿を現したかと思うと一瞬で姿を消し、そのかわりのように数条の白い稲妻が丸くなった黒雲の表面を削った。
黒雲はそれでも倒れないようだった。寸の間、その表面に生まれては消えていた棘が硬直する。直後にせき止められた水があふれ出すように棘の一本一本が巨大な触手となって空の上でのたくった。まるで稲妻を捕らえようとするかのようだったが、稲妻は押し寄せる触手の群れを真正面から削り穿った。力強い一閃が何度も地上に光の柱を立て、瞬きの間に影が地上を覆う。もはや黒雲は稲妻にしか興味がないようだった。せわしなく形を変えながら稲妻を掴もうと、あるいは貫こうとする。その全てを稲妻は打ち払い、何度でも光の筋を地上に落とした。
その光景が徐々に遠ざかっていき、やがて周囲が陽光に満たされ、道を外れた車輪が何度目かに石を噛んで跳ね飛ばしたところでようやく鉄騎馬たちは落ち着くことにしたようだった。せわしなく回転していた足がのどかに円を描くようになり、やがて立ち止まる。
エデルを抱いたまま御者台に立って振り返ってみたが、あの黒雲も稲妻もどこにも見えなかった。大地には馬車が挽き潰してきた麦が二条の線となって刻まれているきりで、地平線の果てまで目を凝らしても甲虫の一匹たりとも見えない。と思ってほっと息をついたナイトレイの腕の中で、エデルがひっと声を絞った。見下ろせばあの甲虫が一匹、幌に噛みついたままぶらぶら揺れている。ナイトレイは無言でナイフを抜いてその背を貫いた。思ったよりも手応えなくナイフの刃は甲虫に吸い込まれていく。ぽふん、と間抜けな音をたてて甲虫はひと筋の黒い霧を吐き出してのち動かなくなった。
「怪我は? どこか噛まれたりとか?」
「いや……たぶん、大丈夫だが」
自信なさそうにいいながら、エデルはぱたぱたと上着の袖や襟元をはたいた。
「あんなのが死んだ子供の嘆きですか」
「と伝わっている」
エデルは猫目を大きく開いて来たほうを振り返っている。
「嘆きというより、あれはもはや癇癪を超えたなにかでしょう」
「うん。まさかあれほどとは思わなかった。本の挿絵ではもっとこう、黒い獣のようだったんだが、本物はあんなふうに形を変えるんだな」
「ディグレーは大丈夫でしょうか」
「あいつなら平気だ。見ただろう。アブルバッツェを相手に一歩も引いていなかった。もっとも、あいつが戦う姿も初めて見るんだが……なるほど、雷帝の一閃とはよく言ったものだ」
エデルを抱いたまま、ナイトレイは御者台から飛び降りて馬車を見まわしてみた。ぱっと見た感じでは特段の不具合もなさそうだが、幌はぼろぼろに引き裂けてしまっている。先ほどのように甲虫がまだどこかにひっついていることもなさそうだ。
ひとつ息を吐いてエデルを荷台に座らせてから、ナイトレイはその隣に腰を預けた。
「それで信号機という奴は。どうするんです?」
「もう少し待った方がいいんじゃないか。さすがにまだ撒けていないだろう」
胸元から、人間の村で見せたのと同じコンパクトを取り出してその蓋を弾いて開けながらエデルが首を傾げた。
「すさまじかったですね」
「ああ。本と実際とでは違うものだ」
「いえ、あの魔獣もそうでしたがディグレーですよ」
「……一応、言っておくが。お前の立場としては様をつけたほうがいいぞ」
「ごほん、ディグレー様の戦いぶりですよ。あれはなにをしていたんですか? 雷のような音が聞こえたと思ったら、魔獣の体がえぐれていましたが」
「タネはよく知らない。ただ視界に入っている範囲ならどこへでも瞬時に移動できるのだそうだ。道中にある全てをえぐり穿ち、跳ね飛ばしながらな。本来はそこの――鉄騎馬と一緒に、人馬一体になって戦うのだと聞く」
「なるほど。騎兵だと仰っていましたね」
はあと息をついて額に手をやってみると、そこは汗でびっしょりと濡れていた。奴らとどちらが強いだろうという考えがちらと湧いたが、ナイトレイはすぐに首を振った。化け物は化け物、デーモンはデーモンだ。すなわち敵であるということさえ押さえておけば、なにも違いはないだろう。
肩を並べて真っ青な空を見上げながらナイトレイとエデルはしばらくをそのまま過ごし、それから相談し合って十分な時間をおいてから信号機を操作することにした。向こうがまだ戦っている最中に操作をして、それで敗北などということになってはたまらない。信号機を操作してすぐにそれは軽快な笛のような音色をたてた。コンパクトの本来鏡が収まっているべきところには透明な板がはめ込んであり、そこには緑色の光点がひとつ点滅していた。それがディグレー側が発信している信号だという。
元の道に戻って合流を目指すのも危険だということになり、二人はそのままディグレーを待った。小一時間もしないうちに緑色の麦穂の向こうに槍を掲げる人影が見え、揃ってほっと息をついたのは言うまでもない。
ずいぶん道を逸れてしまったが目指す町まではあと少しだ、かなり働いたから今日はベッドで休みたいというディグレーの主張に従って、一行はしばしの休憩の後出立した。あの黒い雲とは、それから町へ着くまで一度もお目にかかることはなかった。
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