5-4・素顔の欠片

 案の定というべきか、身を寄せるのに最適な岩なぞがみつかるはずもなく、仕方なく一行は川にほど近い倒木の陰で休むことになった。夕食は豆の缶詰をベースに作ったスープに干し肉を入れて煮込んだものに、エデルがビスケットと呼ぶ堅焼きのパンのようなものを添えただけの簡素なものだ。例によってエデルは文句も言わずにそれを平らげ――二日前にはよりどりみどりのご馳走を食べていたというのに――ディグレーもそれは同様だった――もっともこちらは軍属である、野営食なんて慣れているのかもしれない。


 それを平らげてしまうとすることもなく、ナイトレイが鍋を洗って戻ってみるとエデルは早々に毛布へ包まってしまっていた。といっても眠っているわけではなく、地図を広げるディグレーにぼそぼそと話しかけている様子だ。


 焚き火を挟んだ彼らの対面に座り、話し合う二人をぼんやり見つめる。友人と言うだけあって、エデルはずいぶんディグレーに心を許しているようだった。すらりと投げ出したディグレーの足に頬を寄せるようにして横たわっている。


「国境近くにはもう留まっていないだろうな」

「俺が奴さんならそうするがね。さて、追い詰めたってのはどの程度なのか、そこがわからねえんじゃどうしようもねえ。なにしろ、向こうさんは空を飛べるときてる」


 目標の天使の話だろう。今回は探索だと聞かされてはいたが、それ以外のことは知らない。


「華南公御自らが戦ったということだから、それなりに手傷は負わせていると思うが」

「そう願いたいね。ともかく、このサイレムとかいう町に行くしかねえか」

「しかし、目撃者が何人もいるようなら城に報告が上がっているだろう。いくら辺境の町といっても、ちょうどアブルバッツェが活発になっている時期だ、それなりの兵は詰めているはず。それが上がっていないのでは望み薄と言わざるをえない」

「だからといって、ほかに当てもねえだろう?」


 ううん、と唸り声が毛布の中からあがる。ディグレーは大きく伸び上がると、そのまま勢いをつけて立ち上がった。


「そういうこった。ほら、寝た寝た。不寝番は俺とそこの奴隷ちゃんでしてやるから。ただでさえ、お前さんは病身なんだからよ。答えの出ねえことで悩んでないでさっさと寝ろ。じゃ、俺は水浴びしてくるからよ。お坊ちゃんの面倒はしばらく任せたぜ、奴隷ちゃん」


 そう言って川の方へ歩いて行く背中を見送りながら、ナイトレイは焚き火に枯れ枝を放り込んだ。言われなくとも夜番をする心づもりはある。そうしてしばらく手の中で枝を折っては火の中に放っていると、毛布がごろりと寝返りを打った。見る間にもう一度転がる。


「寝づらいのですか?」


 腰を上げて歩み寄ってみると、毛布の中から不機嫌そうな眼差しが覗いた。言葉よりも雄弁に状況を物語っている目だ。おそらく、肩や腰骨が固い地面に当たって痛いのだろう。倒木に寄りかかって眠るのも手だが、ディグレー曰くところのお坊ちゃんがごつごつした木肌に寄りかかって眠りにつけるのかは疑わしかった。


「こちらへ」と言ってナイトレイはエデルのすぐ側に座った。毛布にくるまった体を引き寄せて自身の足で囲うように抱いてやる。胸元に頬をつけるように誘うと赤毛がふわふわと喉に触れてくすぐったかった。


「心臓の音を聞くとよく眠れると言います」

「俺は赤ん坊じゃない」

「娼婦から聞いたことです。まあ、男が女の腕に抱かれて安心するのは、母親の腕の中を思い出すからだという言説は否定しませんがね」

「ほう。抱いたことがあるのか」

「人並みには。それほど派手に遊んではいませんでしたが」


 なんといったって、ナイトレイは少年に恋をしていた。純情が過ぎて唇で触れたことさえなかったくらいだ。もっとも、それゆえに人恋しくなると女の肌を求めに行っていたので、純情の純度のほどを問われるとつらいのであるが。


「女の腕にしてはごついな」

「無い物ねだりしないでください」

「胸はそれなりだ」


 胸筋をわしづかみにされて思わず変な声が出そうになり、しわぶきに混ぜて逃しているとすぐに飽きたエデルがごろごろと頭を揺らし始めた。


「鎖骨が硬い。香水を使え。体臭がする」

「お望みがあるなら尽力はさせて頂きますが。枯れ葉を集める以上のことはできないと思ってください」

「車椅子のクッション」

「眠れるなら運んできますが」


 むう、と言葉にして言ったエデルはさらに何度か頭を揺らしてから、結局心臓の上に落ち着くことに決めたようだった。


「お前の世界には北斗七星ミルクディッパーはあったのか?」

「もちろんありました。それを頼りに北極星を探して行軍したものです」

「火星や金星は?」

「それももちろん。冬にはシリウス、オリオン、春にはスピカ、夏にはベガ、デネブ、アンタレス。俺の知っている星座といえばそのくらいのものですが」

「見てみろ、ひとつもない」


 言われて頭上を見てみると、黒い影と化した木々の隙間に満天の星空が覗いていた。青、赤、金色、明るいものから暗いものまで輝きは密に詰まっており、天の川の様相に似ていると思えばそんなような気もした。が、元の世界では方角を知る以外の目的で星空を観察したことがなかったナイトレイである。エデルが言わんとするところは理解できるにしても、実際問題どこがどう違うのかなどさっぱりわからなかった。


「昔、お祖母様に聞いたことがある。我らが父祖は天から降りたもうた九天使の導きにより祖国を救った。それゆえ我らは死すれば天へ帰り、血をお返しせねばならないのだと」

「血を返す? どういうことです」

「俺の使う力のことだ。その昔、我がフランスが窮地に陥った時に九人の天使が降臨して、我が父祖をはじめとする九人の貴族に力ある血を分けてくださったのだそうだ。その九人は人ならざる力を授かり、それと九天使のお導きによってフランスを救ったのだという。その血を継ぐ九つの家と力それ自体をして九天使の大冠位と呼ぶ。俺の家、トローネス家が受け継いできた力は座天使の戦車シャール・ド・トローネス。味方の人間の身体能力を底上げし、最強の軍隊を構築する能力だ。けれどもその力とは、あくまで九天使からお借りしたものにすぎない。だから、能力を得た人間が死ぬと墓地ではなく天へ埋葬するんだ」


 どうやって空に墓穴を掘るのか、と考えた直後にナイトレイは思いついた。もしかして、火葬をするのだろうか。ナイトレイの知る教義には反するが――火葬される人間とは復活を認められない罪人と決まっている――エデルの生きていた世界ではきっとそこから違うのだろう。


「お祖父様も、お祖父様のお父様も、そのまたお父様も天へ帰られた。お父様はどうだか知れないが――いや、ともかくだ。それゆえ、それらの方々は子々孫々の為すこと全てをつぶさに見ることができるのだそうだ。天と地の間にはなにもないのだから、今を生きる誰に隠せようともそれらの方々には隠しおおすことなどできないという。能力を継いだ俺のことも、そうしてお祖父様たちがご覧になっておられる。だからこそ、俺はトローネスの名に恥じぬ行いを心がけねばならない」


 そう教えられたのだが、という声は呟くようでとても心細そうに聞こえた。


「時折、考えるんだ。お祖父様たちはまだ俺のことをご覧になっているのだろうか。北斗七星も金星もない、このまったく違う空の向こうに俺の父祖はいるのだろうか。この地で俺が死んだとして、帰る先はまだあるのだろうかと」

「あなたならば、元の世界に戻ることもできるのではありませんか?」

「そんな方法、俺は知らないな。いいや、おそらくないのだと思う」

「しかし、ここに来たのでしょう。だったら、戻る方法もあるはずです」

「たしかに魔の者のうちには世界を行き来する者がある。そうして俺やお前の世界のような、天使の世界でも魔の者の世界でもないところへ行った者が、おそらく悪魔だの精霊だの呼ばれていたのだろう。けれども、それはごく限られた者だ。全ての魔の者が向こうへ行けるわけではない。ましてや人間が行けるわけがないんだ」

「あなたはすでに人間ではないのでしょう?」


 ため息のように息を溢して、エデルはナイトレイの胸元に頬をこすりつけた。ゆっくりと瞼を閉ざすにつれて下を向いたまつげが、その頬に薄い灰色の影を落とした。


「俺はすでに死んでいるんだ、ナイトレイ。そしてその時、想像するしかないが、天に帰してはもらえなかった。気づいた時には巨大な影が翼を大きく広げて俺を見下ろしていた。そうして尋ねられたんだ。生きるか死ぬかと。俺は死ぬのは嫌だと答えた。その瞬間に天地がひっくり返ったような気がして、気づいたらこの地にいた。そうだ、俺は死ぬべき時に死を選べなかった。人間であることさえ捨てた。能力はこの通り残っているが、これを継ぐべき先すらわからない。永遠に引き延ばされたピリオドが俺だ。そんなものがはたしてあの連綿と続いてきた流れの中に戻れるのだろうか。疑問だとは思わないか」


 なんと答えればいいものか、迷った末にナイトレイは言った。


「あなたはまだ生きています。こうして私の腕の中で息をしている」

「だが、向こうに戻ったら? どう転んでも死人だろう」


 それ以上は言葉が続かずにナイトレイは口をつぐんだ。細身の体を引き寄せ直し、少しでも寝心地がいいようにしてやる。エデルのほうでも言葉を継がなかった。やがて深い寝息が聞こえだして、その段になってようやくナイトレイは自身が息を詰めていたことに気づいた。


 死人という言葉、それが具体的な想像となって胸の内に凝っていた。あの夜、馬野郎から逃げようと馬の脇腹を蹴った自分は、おそらく直後に崩れ落ちたのだ。一人では馬に乗れない少年はきっと驚愕してナイトレイの体を支えようとしただろう。けれども、非力な腕で体格差は埋められない。体躯は馬上から横様に落ちていく。そして、大の字に地面に横たわった肉体はすでに生命の気配を残していないのだ。


 エデルが見知らぬと語った夜空を見上げてナイトレイは考えた。あの事態では死体を回収することもできなかっただろう。では、己の肉体は打ち捨てられたまま朽ちたのだろうか。ここにちゃんと息をしている肉体があるというのに、あちらへ行けば同じものが今は骨と化して野に転がっているのだろうか。なんだか頭痛がしてきて、それ以上考えることをやめた。否、それ以上のことは考えたくもなかった。

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