4-1・人間の村

 明け方は四時に起きだして洗濯と室内の清掃を済ませ、前日に言われたとおりのメニューを揃えておく。終わったらエデルを起こしに行き、身支度を手伝った後に同じ物を食べる。朝食の後片付けをしたら車椅子を押して異端審問局の執務室へ向かい、エデルが仕事をする音を聞きながら簡単な読み書きの本をめくる。昼食は食堂に行ったエデルが残飯やらパンやらを持ってきてくれるのでそれを平らげ、午後は再び読み書きの勉強。十五時にエデルが退勤となるのでその車椅子を押して街へ赴いて食材や日用品を買い込み、十七時までには帰宅して夕食の仕込みをする。最悪でも十九時には夕食の時間、それからあとは水回りや寝室の清掃をして残りは自由時間として好きに過ごす。二十一時頃に入浴の介助、二十二時を過ぎればエデルが就寝するのでそれに併せてやり残した家事を片付けて蝋燭を消してまわり、自身も就寝する。


 最初のうちはあくびをかみ殺してばかりいた生活も四日目を数える頃にはすっかり慣れて、一週間もする頃には朝の時間を持て余すようになって五時起床へと変えた。エデルは読み書きのできないナイトレイの為に料理本の一部を英語に書き起こしてくれたので、数日間はそれを頼りにサンドウィッチだのサラダだの作っていたが、今は読み書きの本と首っ引きではあるが多少の文字は読めるようになっている。与えられた自由時間を料理本の解読に充てていたところ、頻出する単語くらいは判別できるようになったので、街の看板を見て楽しむ余裕もできてきた。


 執行官の仕事に関してはいまだに謎が多い。エデルは最初の一日以外は全て事務仕事をしていたが来客を迎えることも多く、その間は執務室から出て行くよう指示されていた。分厚い木製の扉越しに会話が漏れ聞こえることはなく、また仕事の書類を読めるほど単語力がないので書類を盗み見たところで実体はさっぱりわからない。あの捕縛した男について尋ねると、天使であることや魔の者と敵対する存在であることは教えてもらえた。が、具体的にどうなったのかは言及を避ける様子を見せたので、答えをせがむことはできなかった。もちろん、異端審問という響きからしてなにか諜報的な仕事であることは想像がつくのだが、具体的なところは全くの不明である。


 エデル本人に関しては、わかったようなわからないようなところだった。こちらからお願いしなくとも粛々と英語訳を書いてくれたり、知識がなさそうなところにはフォローを入れてくれたりと親切なところがあるのは間違いない。ナイトレイの扱いにしても奴隷というよりは使用人といったほうが近いのではあるまいか。少なくとも奴隷と同じ食卓を囲む主人というものをナイトレイが見るのは初めてのことだ。けれども、壁のようなものを感じることはあって、それは特に故郷のことを尋ねた時が顕著だった。ナイトレイとしては単なる懐かしい話の延長であったのだが、彼はきゅっと目つきを鋭くすると逆にブリテンの話を聞きたがった。あからさまに話したくないと拒否されたのはあの話題だけではあるがしかし、それ以外でも私的な会話を避けているような節はあった。ほとんどの時間を二人きりで過ごしているにしては打ち解けていないと言えよう。もっとも、奴隷が主人と打ち解ける例があるのかといえば、知識の供与が主とはいえ雑談めいたやりとりをしている自分たちの方がむしろおかしいような気もするが。



 執務室の扉がノックされ、ナイトレイは「はい」と声をあげて座り込んでいたカーペットの床から立ち上がった。エデルは一時間ほど前、人に呼ばれて部屋を出て行ってしまった。それが帰ってきたのだろうと思って扉を開けてみると、はたして車椅子の少年がこちらを見上げていた。


「出るぞ」と、短く彼は言って車椅子の背をナイトレイに向けた。この一週間ですっかり慣れた動作である。ナイトレイは読みさしの本を急いで執務室の隅に置きに戻ってから、小走りに戻ってハンドルに手をかけた。


「どちらへ向かわれますか?」

「とりあえずは転移の門だ」


 転移の門というのは、あの天使狩りに行く際に使ったオブジェのない広場のことである。はいと返してナイトレイは異端審問局のフロアを横切り、階段を数階分降っていった。


「人間が市民権を得られるという話はしたな」


 エデルがそう言ったのは建物を出てしばらくし、周囲に兵士や審問局の職員がいなくなってからのことだった。お屋敷とは逆に黒い壁に赤煉瓦の屋根の審問局には常に誰かの姿がある。彼らに聞かれたくない話題なのだろうかと思えば、自然と答える声は低くなった。


「はい。試験を受ければ魔の者とほとんど同等の権利を得られるのでしたね?」

「市民権を得た人間たちはその多くが各街や村に根付く。アガルマで拾われた人間はアガルマで、他の村で拾われた人間はその村で生きる選択をする者が多い」

「住環境を変えるのは面倒だからでしょうか」

「さあな、知りたければ本人たちに聞け。ともかくだ、普通はそうするんだが、中にはかつての世界を忘れられない人間もいるんだ。彼らは町や村を出て、人間の集落に住み着くことを選ぶ。もっとも、アガルマや主要都市の近辺にそうした集落を作ることは許されていない。大抵は田舎で細々とその日暮らしをすることになるんだがな」

「それは」ナイトレイは少し考えてから返した。「人によってはつらいでしょうね。エデル様よりあとの時代の者には、この世界ですら遅れていると感じる者がいるんでしたよね? たしか、機械まみれの時代に生きた人間たちでしたか」

「かもしれないな。彼らは排他的だ。基本的に魔の者と関わることを好まない。どころか、新しく入ってくる人間に対しても試験を課することがあると聞く」

「それでエデル様が赴くことになった、というわけですか?」


 エデルは無言で頷いた。人間しかいない田舎の集落と聞くと長閑なものを想像してしまいそうだが、その気の進まない様子を見るにそうではないのだろう。むしろ、面倒ごとの気配すらする。


「ああ、忘れていた」


 そう言ってエデルが胸元をごそごそとあさった。取り出したのは革の鞘がついた短剣である。細い革のベルトがついていて、腰からぶら下げる造りのようだ。


「前の天使狩りのあと、武器が欲しいと言っていただろう」

「はあ。たしかにそう言いましたが」


 続けたかったナイトレイの言葉をもちろんエデルはわかっているはずだった。前回は命じられるまま戦いに行って、成り行き上というべきか徒手空拳で戦う羽目になったのだが、あんな空を飛んで光の球を打ってくるような相手にそれだけでは心許なく、剣か槍を使わせて欲しいと願い出ていたのだ。


「我慢しろ。それしか許可が下りなかった」

「ありがとうございます」


 刀身はあとで確認することにして、ナイトレイはともかく受け取った短剣をズボンのポケットにねじ込んだ。その寸詰まりな趣は短剣と言うよりナイフと言ったほうが近いのではないか、と思ったがもちろんそれは胸の内にとどめておく。


「正直なところ、彼らがどう反応するのかはわからない」エデルが言った。「俺は元は人間というだけで魔の者だ。彼らにしてみたら裏切り者のように映るかもしれない。お前は人間だが、その腕輪を見れば知識のある者なら奴隷と見抜けるだろう。これが歓迎されるわけはないと思わないか」

「しかし、彼らは領主様の許可を得て市民権を得たのですよね? 思想的にも試験の結果、問題ないと認められたはずです。表立って反抗してくるほど愚かではないと思うのですが」

「そう願いたいな。そもそも、彼らが領主様のご威光を理解しているかも怪しいものだが」


 それで行くとナイトレイも領主様とやらの役割を理解しているとは言いがたかったので、曖昧な相槌を打っておいた。なんとなく、おそらくは土地の名前を爵位に冠する貴族のようなものだろうとは思っている。内紛を未然に防いだり外敵を排除したり、治水を行ったり法を制定したりといった役割を持った貴族だ。少なくとも代々受け継いだ家名を掲げて放蕩するような類ではないはずである。


「いや、しかし」とナイトレイは思いついて呟いた。「領主様のご威光を理解している人間しかいないのであれば、こうしてエデル様が赴くこともないわけですか」

「そういうことだ。妙な動きがあると報告があったそうだ」


 ため息交じりに頭を転がして、エデルは左手に見える庭園を眺めやった。温かな光を浴びる緑を今日も穏やかな風が揺らしている。点々と緑の中に埋もれる花は色ごとにわけて植えられたらしく、画家のパレットのように美しいグラデーションを描いていた。こちらの姿に気づいた庭師が丁寧に頭を下げているのが見える。


「執行官のお立場とは、私の時代でいえばどのくらいになるのでしょうか」


 ぽつりとそんな疑問が口をついて出た。エデルは「さあ」と唇だけで答えた。


「二五〇年前の制度について深く学んでいないからな。それでもおそらく、あちらほどには俺たちは恐れられていない」

「それは見ていてわかります。異端審問といえば拷問と思うくらい、俺にとっては恐ろしいものでした。もし睨まれれば少なくとも身の破滅、悪ければ処刑されるイメージといいますか。もっとも、詳しい制度は知らなかったのですがね」

「俺もそう変わらない。けれども、ここでは敬慕の対象だ。異端審問すなわち領主様のご威光と考える者も少なくない。それはひとえに天使を排除する役目を持っているからだ」

「あれはそんなに恐ろしいものですか」


 つい先日の足首を握りつぶした感触を思い出しながらナイトレイは尋ねた。


「お前はそのくらいに思っておけばいい。いざという時に恐怖で身がすくんで動けないでは困るからな」


 やはり言及を避けたいようで、エデルはそんな風に返してきた。敵のことも教えずに戦えとはひどい話だなとちらりと思ったが、言い立てたところで返事はひとつだろう。じゃあ、奴隷小屋に戻るかと尋ねられてしまえば、ここ一週間近くぬくぬくと暮らしてしまった身ではめっそうもないと答えるしかない。


「問題の集落だが、もしかすると人間狩りをしているかもしれないということだ」

「人間の集落なんですよね?」驚いてナイトレイは尋ねた。

「そんなに驚く話でもないだろう。それとも、お前の時代には違ったのか? 人間が人間を商品にすることぐらい向こうでもあったんだ。こちらの世界の人間が、死んで生き返ったからそれほど清い存在になるかと考えれば答えは明らかだろう」

「い、いえ。俺の時代にはそんなことは。もちろんかつて、そんな民族がいたとは聞いたことはありますが」

「だとしたら、ずいぶん恵まれた時代だったんだな」


 というよりも、とナイトレイは考えた。それどころではなかっただけだったように思う。人類がまだロンドンに暮らせていた頃は王家の命令で新世界を目指して出航する船もあったと聞く。けれども、が現れてからは外憂が世界を一変させてしまった。人類はみるみるうちに住処を奪われ、数を減らし、武器をもまた失っていった。ナイトレイが成人する頃に残されていたのは、荒れ果てた大地と困窮する民と粗悪な質の武器ばかりだ。国同士の恨み辛みや因縁は失われたわけではなかったが、そんな中でする戦争といえば相手しかありえなかった。ましてやどこかから人間を連れてきて人間の下に隷属させるなど、それほどの食料を調達することを考えればとんでもない話でしかなかったはずだ。


「人間狩りはまだ疑いの段階だがな。奴隷を相当数買っていることまでは調べがついている」

「人間を解放して仲間にする為ですか?」

「お前、のんきな頭をしているんだな。そもそも、人間の集落でいくら働いたところで市民権は得られない。あれは魔の者の推薦が要るんだ。よほど働きがいいとか心がけがいいとか、そういう者が魔の者に目をかけられた結果、ようやく得られるのが市民権だ。それだって使役期間が確認されて、少なくとも満二年間の実績がなければ門前払いだ」

「試験に通ると魔の者になれるんですね?」

「違う。人間は人間のままだ。当たり前だろう。あくまで魔の者とほとんど同等の権利を得て暮らせるようになるというだけだ」


 では、エデルは格別の扱いをされているということだろうか。そんな扱いを受けるほどの働きとはと考えてみたが、そもそも市民権を得た人間というものにお目にかかったことがない。いくら頭を捻ったところで答えが見つかるはずもなかった。


「人間が消えているんだ」


 エデルが言ったことに、思わずナイトレイは息を呑んだ。


「殺しているということですか?」

「さあ、どうしているかは不明だ。けれど、面白いだろう。連中が買った人間は消える。一人が消えると新しい一人が補充される。その一人とは奴隷だ。当然、手に入れるには金がかかる。魔の者が買うならともかく、人間が買うのでは当然足元を見られるだろうな。それがごく短期間に繰り返されている。では、連中はどこからそんな金をひねり出している? 次から次に奴隷が消える事態とはどんな事態だ?」


 嫌な想像が頭をよぎった。つい一週間ほど前に想像したことだ。人間をバリバリと頭から食べて腹をくちくする生き物のイメージ、それがあの天使のような翼を持った男と重なった。尋ねれば答えてもらえるだろうか、エデルの後頭部を見ながらナイトレイは考えて首を振った。どのみち、その集落とやらへ行くことになるのだ。答えはそこで得ればいい。なにしろ、エデルは異端審問局の執行官なのだ。その意味を考えれば当然の始末が見られるはずだった。

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