3-2・異端審問

 ナイトレイはエデルをなんとか片腕に担いだまま、建物の中へ入っていった。入り口から入ってすぐの左右には一人掛けのソファを二つ、向かい合わせに置いた休憩所と思しきスペースがあり、暇つぶし用の読み物かなにかなのだろう、薄っぺらい本を表紙が見えるように飾った本棚がそれぞれの両脇に据えられていた。正面は分厚い木製のカウンターで、その両端には緑色のガラス製ランプが置かれている。カウンターの中に立っていたのは壮年の男で、スリムな白いシャツを茶色のベストで締め付けた、一見してかしこまった服装をしていた。


「執行官だ」


 戸を開け放ってまっすぐにカウンターへ向かった二人に男が気づくより先に、男の短い髪を丁寧になでつけた頭に向かってエデルが言い放った。胸元から細い鎖に吊られた大ぶりのブローチのようなものを取り出し、彼は顔を上げようとする男に突きつける。ようやく顔を上げて己を見下ろす二人組に気づいた男はブローチを見るなり、柔和な笑顔を作りかけていた表情をさっと引き締めた。


「まさか――いえ、ご案内致します。どちらの部屋かは?」

「案内は必要ない。ただ、騒がせることになるだろう」


 胸に手を当てて腰を折った男の上から低くエデルが言った。


「心得ております。領主様のご威光に感謝します」


 男はさらに深く腰を折るなり、踵を返して帳場があると思われる奥の扉を開けて姿を消した。次いで慌ただしい声が扉の向こうから聞こえる。男女入り交じったそれを一瞥して、エデルはカウンター横の階段を指差した。ナイトレイは頷いてそれに従った。音をたてぬよう階段を上り、その先の廊下でも息すら潜めて歩きながら、どうしたものかと考えていた。


 エデルを片腕に抱えたまま戦う。そんなことができるだろうかと自問していた。昨晩に見たあの枯れ木のような足は思うままにじっとさせていることもできないらしく、ナイトレイが身動きするたびにその脇腹を軽く蹴っていた。今は本人の腕の力でなんとか平衡を保てているし、こちらにも気を遣う余裕があるが、いざ戦いとなれば振り落としかねない。そもそもの体格差という問題もある。ナイトレイの身長は一八七センチメートル、目方はわからないが筋肉質な体格であることに間違いはない。対するエデルは細身とはいえそれなりの重さがあり、身長は目測だが一五〇センチメートルほどだ。言うまでもなく、片腕で支えるにはバランスが悪い。その状態で戦えと言われて――しかも何の防具も武器もない完全なる空手である、不安を抱くなというほうが無理があった。


 一方のエデルは何の心配もない様子だ。落ち着いた眼差しで廊下に並ぶ扉を確認している。それぞれの扉には部屋番号か部屋の名前だと思われる模様が刻まれたプレートが打ち付けてあった。どうやら彼はそれを確認しているらしかった。いくつ目の扉か、廊下のほとんど端まできたところでエデルは犬を呼ぶように指を鳴らした。次いで指差された扉に入れということだろう、ナイトレイは頷いてからまず耳をすました。聞こえる音は建物の外からのざわめきばかりだ。生き物の動く音、あるいは息を潜める気配はなにも感じられない。啜るように息を吸ってからノックをしてみた。ひとつ、ふたつ、自身の息づかいを数えるもなんの応えもない。エデルがドアノブを指差した。引き下げ型のそれに手をかけてみたが、こちらは案の定というべきか、鍵がかかっていた。目の端でドアノブを示したままの指先が上下する。破れと言っているのだろうと思ったが念の為、本人の横顔を見つめてみた。見返してきた眼差しは本気である。どころか早くやれと言わんばかりに顎までしゃくられた。


 息を深く吸ってからナイトレイは片足を振り上げ、振り下ろした。無論、そんな一撃ではドアは軋んだだけである。間髪入れずに二度、三度と繰り返す。馬鹿力を持つ魔の者とやらが使うドアの強度はいかばかりかと思っていたが、木材のほうはそうでもなかったらしい。ドアノブめがけて五度目に足を落としたところ、ノブの前に扉のほうが悲鳴をあげて鍵のある部分がひしゃげてしまった。荒い息をひとつ落としてドアを引き開ける。その段になってようやくひぃっと細い悲鳴が聞こえた。


 室内はひどく狭かった。一人用のベッドがひとつにテーブルと椅子が一組、家具はそれだけである。どうやらこの建物は宿かなにかだったらしい。テーブルの上には明らかに旅行用と思われる大きなバッグがひとつ置いてあった。そのバッグのハンドルを掴んで男が独り、身を縮めて震えていた。頭をかばう仕草をしていたものが、部屋に入りはしたものの動かないナイトレイたちを訝しんだものかそろそろと腕を下ろす。恐れに歪んでいたものの、その男の顔を見てナイトレイはひどく綺麗な男だなと思った。白い肌に金色の巻き毛、鼻はしっかりと角張った造りで、ぱっちりと大きな両目は扇のような金色のまつげに飾られている。体つきは細いが上背はある。ゆったりとした服の上からでもわかる筋肉の隆起が少しアンバランスと言えばアンバランスだろうか。その姿形は、例えるなら大聖堂に飾られている聖者の像の趣に似ている気がした。


「ジョルジー・マッカーソンだな?」

「い、いきなりなんです!」


 エデルに問われて我に返ったものか、男がわめいた。構わずエデルは続けた。


「諜報罪、騒乱準備罪、人身惑乱罪、およびエーテル略取罪の容疑がお前にかかっている。以後、容疑が晴れるまで当局はお前の身柄を所有するとともに、今現在お前が持っている権利の全てを停止するものとする」エデルは再びあのブローチを掲げた。「執行官、エーデルフリーデ・マリア・ルイーゼ・ド・トローネスの名において、投降を要求する」

「私はなにもやっていない!」

「ナイトレイ、捕縛を」


 男の声に耳を貸さず、エデルはナイトレイの鼻先に手錠らしきものをぶら下げた。その銀色の輝きを見た途端だった、男の巻き毛が逆立ったように見えた。そう思った次の瞬間、目の前を木切れや埃に塞がれて思わずナイトレイは下がった。追いかけるように爆音が轟く。大砲でも撃ち込まれたかと思うような衝撃が足元を揺さぶり、ナイトレイはたたらを踏んだが、その騒乱の中で澄んだ声が響いた。


「万民よ、怒れ! 勲は汝らの為にある!」


 晴れていく視界の中に白いものが落ちてきた。それは羽根だった。子供の背丈ほどもありそうな大きく長い羽根だ。


「シャール・ド・トローネス!」


 エデルの声が耳を打ったと思った瞬間、カッと全身が熱を持ったように感じた。その熱は心臓に端を発し、臓腑を駆け巡り、四肢の先端まで一気に貫いて、頭蓋の中央を熱く焼いた。


「跳べ!」


 命令のままに足に力を込める。一歩を踏み出したと思った瞬間、足元で床が悲鳴をあげてひび割れた。次の一歩で体が宙に浮く。自分でも驚きながら、けれども戦いの中で磨き上げてきた本能は健在であるようだった。空いた片腕で顔面をかばいながらナイトレイは建物から飛び出した。そうしてからあの男が壁を突き破って外へ逃げたことが頭に染みた。壁の向こうにそのまま落ちていくはずの長身が、なぜかふわりと空に浮いたこともだ。


 視界を覆うのは真っ白い翼である。その翼をいっぱいに拡げて男は逃亡を図っていた。建物の壁を破壊した勢いのまま、一直線に飛び去ろうとしている。その足へ向かってナイトレイは手を伸ばした。通常なら到底届くはずのない距離である。けれども、指先がかすめた。ナイトレイ自身はそのまま弧を描いて落ちていく。あざ笑うように白翼が大きく宙を掻き、男の身を高みへと運んだ。


「追え!」

「はい!」


 命令されるのが早いか答えたのが早いか、自分でもわからぬ間にナイトレイは再び地面を蹴っていた。着地したのが往来だった為か、誰かの悲鳴が後ろの方で聞こえたが構わない。ひと跳びで目の前にあった商店の屋根に降り立ち、空を行く男めがけて走りだした。


 全身から力があふれていた。膂力、肉体の限界、そういったものを超越した、まさに魔の者しか持たないのではないかと思えるような力だ。抱えたエデルの体が軽い。意識していないと片腕に彼が乗っていることを忘れてしまいそうなほどだった。一歩ごとに瓦だの煉瓦だののひび割れる音がする。その踏み割る足ですら通常では考えられない勢いで回転をしている。登りかけの太陽に男の背が重なる。目を細めながらもナイトレイは足を動かし続けた。翼の大きさのわりにというべきか、それゆえというべきか、男の飛行速度は速くない。彼我の距離は徐々に縮まっていた。焦ったように男が翼を動かすがそれ以上高くも早くも飛べないらしい。再度足に力を込めてナイトレイは跳んだ。


「あっ!」と声をあげて男は身をよじったが、すでに遅かった。ナイトレイの手は男の足首をがっしりと掴んでいる。男は慌てた様子で掴まれていない足でナイトレイを蹴ろうとしてきた。が、それは遅きに失していた。獣のようなうめき声を男があげる。力のかぎりにナイトレイが足首を握りしめたのだ。ぶらりと男のつま先が揺れるのを見て、そうしたナイトレイ自身が驚いていたが、ともかく痛みのあまりか男はバランスを崩した。風を掴み損ねた翼が無闇に顔を叩いてくるのがうっとうしい。思わずもう片手を出しかけて、危ういところでナイトレイは自制した。エデルがそちらの肩につかまっているのを忘れかけていた。


 そうしている間にみるみる高度は下がっていった。ほとんど失墜と言って違いない。地面との距離を目測で測り、ナイトレイはぶつかる寸前に自ら飛び降りて着地したが、男の方は無様に墜落した。大きな翼が揺れ、男の姿を覆い隠す。自らを抱きしめるようにしたように見えたが、構わずナイトレイは大股に歩み寄って男の翼に手をかけた。瞬間、背骨に雷が落ちたような予感が走って飛びすさる。着地しながら前方を伺うと、つい今し方立っていたところを金色の光が通過するところだった。


「いい動きだ」と、エデルが言った。

「ありがとうございます」


 答えてナイトレイは低く構えた。男が地にすがるようにしながらなんとか立ち上がろうとしている。とはいえ、片足は先ほどナイトレイが潰した。彼は果たしきれずに顔から地面に倒れ込み、それでも諦めずに頭をもたげた。空気が震えたと思うと同時に、男が口を開くのが見えた。その口の奥は太陽でも閉じ込めたかのように金色の光を発している。


 滑るように斜め前へ走ったその真横を光の帯が通過していった。その数は一条ではない、何条もの短い光の帯が連続して打ち放たれる。その全てをナイトレイは躱しながら男へ接近していった。接近するとともに帯の密度が増す。ぴりりと頬が痛んだのは切れたからか。短い息づかいとともにエデルが首をすくめたのが目の端に見えた。


 ――今だ!


 視界を光が埋め尽くすギリギリまで近づいてから、ナイトレイは斜め前方へ飛び込んだ。さすがにこの動きにはついて来られなかったと見えてエデルが地面へ転げるのが見えたが、同時にナイトレイは男の首根っこを掴んでいた。


「殺すな!」


 エデルの声が飛んでこなければそのまま締め上げていたかもしれない。果たせなかった代わりにばさばさとうるさい翼の片方を引いてやった。ぎゃっと短い悲鳴をあげて男が震える。その様は股間を蹴り上げられた男さながらであった。細かく痙攣しながら丸まろうとする動きを許さず、膝を男の背骨の上に置いてナイトレイは尋ねた。


「どうしますか?」

「これを」


 投げてよこされたのはあの銀色の枷だった。


「つなぎ目があるだろう。それを手にかけろ」


 枷には手首を通すと思われる輪がふたつついており、それぞれのかみ合わせは獣の牙のように尖っていた。ここか、と納得してナイトレイはそのかみ合わせを男の手首に押しつけた。かしゃんと微かな音がしてそれは簡単に男の手首を食んだ。もう片方もつけ終えてから、男の肩を掴んで引きずるように立たせる。


「忘れるな! いずれ神の怒りがお前たちを焼き尽くすぞ!」


 乱れた髪の間からナイトレイを睨みつけて男は叫んだ。


「神?」とナイトレイは首を傾げた。

一神教の神ヤハウェだ。そいつはいいから、俺を起こせ」


 エデルの声が聞こえてそちらを見ると、転げ落ちた際に額を擦ったらしい、両眉の間を真っ赤にした顔が怒ったようにナイトレイを見ていた。慌ててナイトレイは男を突き放し、エデルに駆け寄った。


「すみません」

「主人を落とす奴があるか。そこは減点だ。が、初めてにしてはよくやった」


 助け起こして再び片腕に抱き上げると、エデルは額を赤くしたまま偉そうに腕を組んだ。なんだか可笑しくなってしまって、ナイトレイは吹き出した。


「ありがとうございます。以後、気をつけます」


 そうして上体を起こした時だった。わあっと周囲で歓声があがり、驚いて見渡してみると様子を伺っていたものと思われる住人たちが拳を突き上げたり手を叩いたりして喜びを表していた。中の幾人かがこちらへ走り寄ってくる。と思うと、ナイトレイたちではなく男の方へ駆け寄ってその頭と言わず翼と言わず蹴り始めた。


「待て」エデルが声を張った。「その男はすでに異端審問局のものだ。気持ちはわかるが手出しはしないでくれ」


 男に暴力を加えた者たちはあからさまな不満をその顔に表した。しかし、駆けつけてきたと思われる兵士の姿を見ると不承不承ながら人垣に戻っていった。


「異端審問局まで頼む」


 エデルは兵士たちにそう言うとナイトレイの肩を叩いた。


「宿に戻れ。車椅子を回収する」


 言われて来た道を振り返ってみると、あのオレンジの柱の建物は何処にも見えなかった。かわりに自身が踏み荒らしたあとだろう、薄い噴煙が目印のように屋根の上に並んでいる。あの力は、とふと思い出して手のひらを握りしめてみたが、それは常の通りだった。足元を確かめてみても、あの幼き頃にあったような全能感、万能感はどこにもない。今ここで跳ねてみても体は数十センチ浮くだけだろう実感があった。エデルの体重もずしりと重い。


「初仕事の感想は?」


 エデルに問われて、ナイトレイは少し考えた。けれども答えは見つからず、肩をすくめようとしてエデルがそこに乗っていることを思い出し、別のことを言うことにした。


「あの男はどうなるんですか?」

「異端審問にかけられる」

「異端、ですか」

「ここの住人は魔の者だからな」


 振り返って確かめてみると、天使のような翼を持った男は兵士たちに引きずられていた。街の住人たちは口々に歓声をあげ、あるいは男に向かってだろう、はやし立てるような声をあげている。再び宿の方へ目をやって、それからナイトレイは歩き始めた。


「そうだ」とエデルが手を打った。「車椅子を回収したら本屋へ行こう。料理本が必要だろう。ほかには掃除と洗濯の本も必要だな?」


 言われていろいろと思い出し、ナイトレイは呻いた。そういえば、そうであった。

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