第二話 「祭囃子」 chapter 1
町の外れには人通りの少ない工業地帯がある。そこでかつては大量の労働者が、汗と油に塗れてタイムテーブルを循環させていた。
機械を動かす人間がその作業を効率的に進行するよう綿密に組まれたスケジュール管理で無駄なく働く。一人一人の負担を均等に分けるように相互扶助して、仕事を永遠に続けられる歯車的思考による休息を必要とする人間由来のやり方。それらは時代錯誤な過去の遺物として、時間の流れに取り残されてしまった。
人間が主役であれた前時代においては、広大な敷地で作業を分担する必要があった。飲食業が機械化による自動装置の完成で労働者を削減したように、工業はより多くの無駄を切り捨てて今に至る。
かつて労働者達が工場を賑わせていた喧騒は、機械化によって騒音公害すらなくなった。効率化により必要な敷地面積も限定的になると、途端に廃工場だけが取り残される。
有効利用される事もなく廃れていく工場の数々は、居場所を持たない人間や悪事を企む不穏な者達にとっては楽園にさえ感じられた。社会に置き去りにされた廃墟は、科学技術が進んだ世界において相も変わらず存在する。
白猫の位置情報が記された場所も、そんな現代の遺構の一つである。後ろ暗い人間は黴臭い埃塗れの荒涼にも惹かれるらしく、縄張りのような物が数多く点在しているようだ。
広大な敷地の外に無人タクシーを停めた黒猫は、徐々に深まる闇に紛れて工業地帯へ潜入する。かつての名残りである多くのスクラップに埋め尽くされた敷地内は澱んだ空気で満ちていた。
倒壊の激しい建物には当然人気もなく、あと数年もすれば崩れ落ちる事は想像に容易い。比較的綺麗な状態で残された建物に近付くと地図が示すピン留めもその周辺にあった。
「エル、通知全部切っとけ。近くに監視カメラがあるか検索してクラッキングや。必要に応じてバイブで知らせろ」
黒猫はコルト・シングルを懐から抜いて本格的に潜入を始める。恐らく電気すら通っていないが何処に何が仕込まれていても不思議はない。
ひび割れが目立つ外観の工場に身を寄せ、閉じられたシャッターが朽ちている箇所から中を覗く。工場内に光は殆ど届かず、しぶとく余韻を残す夕闇に荒れ果てた光景が僅かばかりに浮かぶ。暫く周辺を観察した後、黒猫は脆くなったシャッターを蹴破って工場内に入る。
コルト・シングルの撃鉄を起こして、ウィーバースタンスに構えると暗闇に目を凝らして白猫を探した。足音を立てず感覚器官全てに集中力を研ぎ澄ませる。
科学技術の進歩で人間の多くが野生動物の本能を退化させてきた。黒猫は機械任せにされる数々の眠れる本能を最大限に利用する事で戦う術を身に付けた。
勘に近いそういった能力は対人戦闘に大きく貢献して、か弱い少年はいくつもの修羅場を乗り越えてきた。
暗闇に適応していく目が次第に工場内を浮かび上がらせる。酷く荒らされた室内の様子に黒猫は細心の注意を払う。
人間が過ごす環境として最悪の場所は、足元に散乱する捲れた床や何かしらの機械部品で散らかっていた。
山田組の人間が自身を待ち伏せている可能性が最も高かったが、人間の気配はまるでしなかった。白猫の位置情報がこの建物の内部に表示された以上、斉藤もそこにいる可能性がある。刹那の油断も許されない中で、何より重要な事は敵より早く相手を見つける事である。
たった数分の侵攻も、暗闇の中意識を集中していると体感時間は数倍になる。呼吸一つに気を配るような動きで、開けた空間に辿り着く。
誰に狙われているか分からない状況で遮蔽物のない場所に身を晒す事は悪手でもあったが、尚も黒猫は思い切って一歩を踏み出す。
薔薇の香りがふと黒猫の鼻を付く。寂れた廃工場で漂う不自然な香りに、相川から呼び出されて向かったホテルでの事を思い出す。連絡の取れない白猫、セーフハウスで安全を確保している筈の彼女がこの廃工場にいる事、ホテルの一室に満ちた薔薇の香りとパステルカラーの錠剤の使い道。
鼻腔を擽る強烈な香りが徐々に黒猫の集中力さえ乱している事も知らず、黒猫は仕事を全うするべく歩みを止めなかった。
白猫が何故下手を打ったのかを理解した黒猫は、相川よろしく面倒な症状に陥ってはいないかと辟易する。パステルカラーの錠剤を無理矢理摂取させられているとすれば、どうなるか分かったものではない。
風を切る音が聞こえて、黒猫は目の前の存在に遅れて勘付く。油断はなかった。それも黒猫と同じく音も気配も消して、ほんの少し先に黒猫に攻撃を仕掛けてきた。
一か八かの行動、人生とは取捨選択である。先手を取られた事を悔いても遅い。何かを振り回す音と断定した黒猫は上体を屈めて顔を腕で防御しつつ前に飛び付く。
両腕に柔らかな感触と左肩に鈍い痛みを受けた。刃物ではなく鈍器の類、振り切った先端部に当たっていれば破壊力は段違いであった筈。痛む肩の周囲へ直感的に伸ばした腕が棒状の鈍器に触れる。
黒猫は目の前の存在に組み付き、体格をなぞる様にして相手の左腕を抑え込む。そこまでして柔らかな肉付きの感覚からふと闘争心が萎えた。
「ーー離して、この、変態」
暗闇を手持ちのライトで照らして、浮かび上がった先にいたのは白猫であった。
「……先にお前が襲ってきたんやろ」
こちらを見ずに白い肌を少し紅潮させた彼女を離して、黒猫は不可抗力を主張する。この状況にあって、何に置いても彼の過失は認められない。
「怪しい薬を飲まされたんだと思う。気付いたらここにいた。斉藤さんも隠れさせてる……悪かった」
顔を背けながら乱れた衣服を整えて白猫は状況説明した。素直とは言えないものの、非を詫びる誠実さはあるようだった。
「相川に嵌められた事か? 襲い掛かっといて変態扱いした事か?」
黒猫は即座に白猫の反省すべき問題点を羅列する。言葉での謝罪に意味を見い出さない彼にとってはどうでもいいことである。敢えて釘を刺すのであれば後者のみになる。
「もう謝ったから終わり、ここから出る。あんたも手伝いなさい」
自分勝手の極みを発揮する白猫が今後の作戦を提案した。腑に落ちない部分はあれど無駄口を叩く時間も惜しく黒猫は素直に従った。
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