第6話「忘れられない日」
6「忘れられない日」
次の日、職場に出勤して顔を合わせた瞬間、2人とも赤面し、目を逸らす。
「お、おはよう……」
「お、おはようございます……」
想司も璃々さんもお互いがよそよそしく、普通ではいられなかった。
それでも2人してマスクの下ではにやけが止まらない。
仕事中お互いがお互いを意識してしまい、少し距離が近くだけで胸が張り裂けそうになった。
でも2人はその新鮮な感覚と感情が楽しくて、その思いが嬉しくて、今がとても幸せに感じたのは確かだった。
璃々さんもこの時に至る昨年まで、交際していた相手が2人ほどいた。
好きという感情がないまま交際に至り、交際過程で好きが育まれたそうだ。
しかし、璃々さんは1人目の相手に裏切られ別れ、次に付き合うことになった2人目にも裏切られ別れる事となった。
その荒み切った心に今の想司の思いはとても心地よく、更に璃々さん自身が想司に抱く好きから始まった感情はとても久しく懐かしいもので喜びを感じていた。
それは、想司も同じだった。
過去4年間に渡り、壮絶な今までがまるで嘘だったかの様に楽しい事が目の前にある。
2人は確かに幸せを実感してしまっていた。
だからこそ、会話ができる事が楽しくて、嬉しくて、仕事が終わってからも連絡を毎日取り合ってしまう。
「ごめんね……付き合うことも出来ないのに好きって言って」
「いいえ、その気持ちが続く限り好きって言って欲しいです!」
「本当にいいの?」
「はい!」
「それは俺も嬉しい。 俺は璃々さんに彼氏としての資格はないけど、璃々さんを思う気持ち、伝えたい言葉だけは沢山あるからそう言ってくれるなら、この気持ちが続く限り好きって伝えさせてもらうね」
「はい!」
「ちゃんと迷惑なら言ってね?」
「迷惑なんてとんでもないですよ! むしろ一回ハグして欲しいぐらいです! えへへ」
「……!?」
あまりの言葉に想司は赤面し、慌てて止める。
「ちょっ!? それはダメだって!!」
「あ! 想司さん照れてます?」
「照れてるというか……緊張とドキドキが止まらない……嬉し過ぎて胸が張り裂けそう……」
「想司さんそういうの平気そうですけど?」
「俺自身も平気だと思ってたんだけどね。 まぁ、昔は平気だったのかもしれないけど……もう今はこの感情が久しぶり過ぎて中学生に戻った感じもする……でも多分、璃々さんだからだと思うんだよね」
「想司さん可愛い!」
「だからハグとかちょっと俺の心が保たないって」
「えぇ……ダメなんですか?」
「それは! ずるい!」
「想司さんなら私は全然大丈夫ですよ?」
「か、考えときます……」
しかし、想司はその時点で理解してしまった。
「いや……もう考えた時点でダメなのか……はぁ……」
「そうなりますね」
「本当に付き合いたかったって思うよ……」
「はい! 私も本当に付き合いたかったって思います!でも私は今のままでも十分幸せを感じてますよ?」
「そう言わせて本当にごめんね……本当はもっとこの思いを目一杯伝えたい……今だけで言えば璃々さんへの思いは誰にも負けないんだけどな……」
「本当に嬉しい言葉を言ってくれますね。 でも想司さんの思いはちゃんと伝わってますよ」
「これで喜んでくれるなら、俺はいくらでも伝えるよ」
「本当に嬉しいです。 私も目一杯伝えますね」
「ありがとう。 俺は璃々さんが本当に好きだよ」
「私も想司さん大好きです」
お互いが一回だけ好きと伝えてしまった事でずっと押さえ込んでいた感情が溢れ出てしまう。
好きと伝えれば好きと返ってくる喜び、そのただの当たり前が、たったのそれだけの事が、とても嬉しかったのだ。
一度その喜びを知ってしまったが為に、何度も思いを伝え、お互い荒んでいた心がどんどんと満たされていく。
気づけば、常にお互いを必要としてしまう。
日々の仕事中でお互いを意識し、目で追いかけてみたり、会話を聞いてみたり。
そして、思いが増し、互いが互いを足りないと感じ、ついにはお互いを求めて会いたいが加速し、予定を合わせ、休日に2人でまた会う事を決める。
「絶対にその一線だけは越えてはいけない」
僕は想司に強くそう言った。
「わ、わかってる……俺自身もそのつもりなんだけど……」
「絶対にダメだよ。 璃々さんの幸せを願ってるんじゃないの?」
「願ってる……璃々さんには絶対幸せになってもらいたい」
「なら想司が今の状況で幸せにしてあげられるの? 責任をとってあげられるの? 1番中途半端な事は璃々さんに余計失礼だよ」
僕は必死に想司に訴える。
「わかってる……俺だってわかってるはずなんだよ……でも……好きなんだ……璃々さんの事がどうしようもなく大好きなんだよ」
想司は溢れ出る璃々さんへの思いと戦っていた。
理性はちゃんと状況をわかり、何が正しいか、今の最善はなんなのかを理解しているのに対し、璃々さんを思う感情は溢れ出し、止まる事を知らなかった。
「何度でも言うけど、好きなら我慢しな? 大好きなら想司は身を引くべきだよ。 一線を超えたその先で1番辛くなるのは君じゃなくて璃々さんだよ。 その事を良く考えな? これは想司の為にも言ってるんだ」
「うん……わかってる」
「会うだけならいい。 今はこの状況が璃々さんの心の支えになってるのは事実。 その楽しい時間を、今の幸せな日々を、想司が中途半端な事したら全て壊れるんだよ? 想司はそれでもいいの?」
「嫌に決まってるだろ。 そんな事俺にだってわかってる! でももし付き合ったとして、その先も幸せがあるかもしれないじゃんかよ!」
「想司……それ本気で言ってるの?」
「本気で言ってる。 俺はそれぐらい璃々さんが大好きだ」
「ダメだよ。 絶対ダメ。 その一線を超えたらもう戻れないよ?」
「正直……俺はそれでもいいと思ってる」
「息子はどうするの?」
「……」
想司は何も言い返せなくなる。
「話になってないよ想司。 息子はどうすんのって聞いてる」
「どっちも……同じぐらい愛したいと思ってる……俺にはどっちも大切なんだ……」
「そんな事が可能だと思ってるの?」
「やってみなきゃわからないだろ?」
「やらなくてもわかるでしょ?」
「どうしてそう言えるんだよ?」
「例えば、璃々さんと息子両方同時に熱が出たとする……君はどっちに行くの?」
「……」
「決められないよね? 決められるわけがないよね? あの苦痛だった4年間を乗り越えられたのは子供のおかげだもんね!? 想司の心の支えになってたのは息子だよね!? その息子を元嫁に任せて璃々さんの所に行くの?」
「……」
「決められないならやめろ。 責任を取れないなら根拠のない未来なんて語るな。 璃々さんが一番可哀想だ」
僕に何も言い返す事ができず、想司は璃々さんと約束した7月26日を迎えてしまった。
「お待たせしました!」
「大丈夫! 俺も今来たとこ! 今日はとことん歌おうか」
「はい!」
「……なんか……好きって伝え合ってから2人っきりで会うのが初めてだから……すごい緊張する」
「はい……私もめちゃめちゃ緊張してます」
この日、2人はまたカラオケに来ていた。
案内された部屋は2人掛けの小さい部屋で、お酒も入れ、数曲歌い合った後、2人とも会話がしたくて歌うことをやめる。
「想司さんの香水って何使ってるんですか?」
「ん? これだよ!」
想司はバッグから自分の愛用する香水を取り出し見せる。
「どうしたの? 急に?」
「いや……凄くいい香りなので何使ってるのかなって思って」
「嬉しい事言ってくれるね! よかったらあげるよ!」
「え? いいんですか?」
「うん。 むしろもらって!」
「どうしてですか?」
「璃々さんの人生の中で俺って者が確かに存在したって証を少しでも残したいって感じかな?」
「もう十分人生に残る人だと思ってるのですが……でも、嬉しいです! ありがとうございます」
「こちらこそありがとう」
そんな何気ないやりとりですら、想司は感慨深く思い、言う。
「なんかさ……今、璃々さんに向ける思いがさ、まるで初恋の時みたいに緊張と興奮がずっと止まらないなって思ったんだけど……もしかしたら当時のそれを越えてる感じがしてる」
「わかります……私も凄くそんな感じです」
「何度でも言うけど、本当に璃々さんには感謝してるんだ」
「どうしてですか?」
「璃々さんに出会えなかったらこんな思い久しく感じる事が出来なかった……今までずっと本当に苦しかったから、まるで毎日が灰色の世界で生きてたみたいなそんな感覚……」
想司はどこか遠くを見てそう呟き、言葉を続ける。
「……でも、璃々さんが色鮮やかにしてくれたって本当にそう思う……だから本当にありがとう」
璃々さんを好きになった事で、璃々さんに好きである事を許された事で、虚無感を抱いていた色の無い日々が気づけば色鮮やかになっていた。
想司は璃々さんが居たから心から救われたとそう感じることが出来た。
「私が想司さんの役に立ててるなら、それは私にとっても嬉しいです」
「本当に璃々さんは優しいね」
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「その優しさにまた一層好きが増すんだよな」
「どんどん増してくれていいんですよ?」
「いやいや、これ以上増したら思いが強過ぎて本当に止められなくなる気する」
「正直、止めてほしくないって思っちゃいます」
「……そ、その言葉は! と、とてもずるい!!」
「想司さん可愛い」
「いや……自分でも本当に恥ずかしいぐらいに無邪気だと思う……すごい弄ばれてる気分」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。 やり返してやりたいだけ」
「どうやり返すつもりなんですか?」
「……」
そう聞かれて、改めて想司の頭に浮かぶのは全て一線を超えてしまう行動しか思いつかない。
それを考えて想司はまた赤面する。
「いやいや! ダメだ! どれも一線を越えちゃう!」
しかし。
「あ……でもこれなら……」
想司は隣に座る璃々さんの手の甲を上から自分の手を覆い被せ握る。
それが想司の精一杯のやり返しだった。
きっと璃々さんはこの程度など何とも思わないはずで、想司自身もこの程度なんて事ないはずだった。
「……こ、これは……凄く……て、照れますね……」
「う、うん……」
手を重ねて2人は赤面し、異常なまでに恥ずかしくなった。
それと同時に想司は恥ずかしがる璃々さんを見て可愛いと思ったが、しかしそれを越え、その光景を凄く綺麗だと実感した。
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