第4話「ノーガードサンドバッグ」

4「ノーガードサンドバッグ」





想司は奥さんに上司との関係を持っていた事を聞いても奥さんから「知らない」としか返ってこない。

会話が成立しない。

人間では無いのだと再認識させられる。

しかし、もう想司の心も度重なる事実に壊滅的な状態だった。

ついに想司は親権は自分にし、後は奥さんが名前を記入するだけの状態で離婚届を渡す。



「これ……書いてくれないかな? もう俺たち無理でしょ」


「は? 私書かないから」



想司は驚いた。

離婚しない理由が分からなかった。



「え? なんで? こんな状態を俺たちずっと続けていくの?」


「知らない。 とにかく私は書かないから」


「いや……書いてよ」


「書かないって言ってるでしょ!!」



そう言って奥さんは離婚届を激しく破り捨てる。

想司はこの時、頭に血が登り、心の底から奥さんを殺してやりたいと思った。

世間では旦那が奥さんを殺すニュースがたまにあり、旦那側が頭がおかしいと良く報道されているが、殺したくなる気持ち、その当事者にしか分からない現状を得て、この時、想司は初めて殺すに至った旦那の気持ちを理解した。

「あぁ……こうやって旦那は奥さんを殺すに至る人もいるのかなぁ……」と思えた。

しかしそんな勇気も、息子の未来も、自分の家族の未来も、ましてや想司のプライドが殺(それ)を許すはずがなかった。



「なに? じゃぁ母親を頑張ってくれるわけ?」


「わかったわよ。 やればいいんでしょ?」


「せめて息子を優先してくれ……頼むから」


「……」



返答はなかった。

想司にも奥さんが口だけなのは理解出来た。

しかし、約束を取り付けた事が想司にとっては大事だった。

そして、その約束を取り付けた事が必要だった訳はすぐに訪れる。


ある日の朝、奥さんの電話が鳴り、話の内容から相手は男なのがわかった。

どうやら今すぐにでも奥さんは駆けつけなきゃ行けない用事らしい。

すぐに想司は取り付けた約束を口にする。


「息子を優先すると言ったよな?  お前が行ったらもう息子に会えないと思え。 それでもお前は行くのか?」


「何馬鹿な事いってんのよ! 友達が大変なの!」


その想司の言葉に耳も傾けず、奥さんは出かけていく。

そしてその日の夜。

最近では想司が息子の迎え担当になっていた為、いつも通り息子を迎えに行き、自宅へ戻る。

やはりそこに奥さんの姿はない。

冷めた怒りと虚無感を抱きつつ、想司は覚悟を決める。

そのまま最低限必要な荷物をまとめ、息子の手を引き家を飛び出し、実家へと向かった。

その後、奥さんがどういう心境だったかは知らない。

ただ、息子には目一杯の負担をかけてしまったのは確かだった。


毎日激務の中、朝食を作り、必要な時はお弁当も作り、夜に息子を迎えに行かせていただき、職場へ戻り、バックルームで息子に食事をさせつつ待たせて、想司は残っている仕事を始める。

そんな日々を繰り返し、保育園が預けられない日曜日などは朝から息子は職場で一日を過ごす。

仕事が終わる頃には21時を毎回過ぎていた。

更に想司は役職ある立場の為、会議も多く、そこにも息子を連れ仕事をする。


想司も意地とプライドがあった。

しかし、良く聞く「プライドなんか捨てろ」「意地などはいらない」など言うが、想司は自分の持つ意地とプライドを大事にして来た事で崩壊寸前の精神をなんとか保ってきた。

だが、そのプライドは大事ではあるが、そのプライド故に子育てをやりきった想司の父や母の助けを求めなかった。


そして、そんな日が1ヶ月ほどが過ぎた頃に奥さんから連絡が来た。


「息子に会いたい」


想司ももう流石に限界が来ていた。

自分の人生の中でここまで絶望を味わったのも、人生でここまで必死になったのも、初めてだった。

その中で自分の選択が正しいと、そう思わないと精神を保ってられなかった。


しかしその時、想司は気づいてしまった。


「想司は息子を守っている」その感情は間違いないはずだった。

だが、想司は本当に気付かぬうちに自分を守っていたのだと気づいてしまった。

そして、次第に職場の周りから上がる不満の声、この状況を黙認する会社、世間、身の回りの人間。

少なからず、気にかけてくれたり、手伝ってくれるスタッフや友人、仲間は沢山いた。

でも、本当の意味でこの地獄から救ってくれる者、手を差し伸べてくれる者は誰一人として現れなかった。

さすがの想司ももう誰かに寄りかかりたかったのだ。



「ちゃんと母親をやってくれるのであれば」



そう奥さんに返信をした。

そして、その日の夜に近くの公園へ息子と2人で向かい、ベンチに座る奥さんがいた。

息子が来た事に気づき、奥さんは膝を地面につけ息子に「おいで」と腕を広げる。

その時、息子は振り返り想司の顔を見てきた。


その瞬間、想司の中で戦慄が駆け巡る。

いや、それだけでは足りない。

驚きでは片付けられない衝撃。

計り知れない物で全てを打ち砕かられたと言える。


まだ3歳の子供が親の顔を伺ってきたのだ。


想司はその瞬間に涙が溢れ返った。

1番辛かったのは想司ではなく息子で間違いなかったのだ。

今までの自分の選択が、決断が、感情が、理性が、抗って悩んで、抵抗して来た思いが、全て間違いだったのではないかと息子の表情を見て疑った。

本当は我慢するべきだったのか。

いや、我慢できるものだったのか。

何が正解か。

何が正しかったのか。

自分は正しかったのか。

いや、全てが間違いだったのか。

そんな思いの重圧を重く感じつつ想司は息子に言った。



「待たせてごめんね……行っていいよ」



その瞬間に息子は走って母親の胸に飛び込み、顔を埋める。

公園の街灯に照らされた親子のその景色を見て自分は間違えていたのかと、そう思い知らされるほどの光景を目の当たりにして、思った。

息子の為にも最後にもう一度だけ奥さんを信じてみようと思い至った瞬間だった。


そして、想司は荷物から封筒を取り出し、奥さんへ向け渡す。

それは想司が貯めた、たかだか15万円が入っていた。

しかし、それは想司にとってただの15万ではない。

想司の給料は本当に高くない。

日々ギリギリで生活をしていた中で奥さんに口座を空にされ、キャッシュでお金を借り、マイナスから必死でやりくりしてなんとか貯めた15万だった。

想司はそれを渡し言う。



「息子の為にも最後にもう一度信じてみようと思う。 だからこれをお前に渡す。 子供の為に貯金を頑張っていこうよ」


「わかった……」



息子に諭(さと)され、息子に最後の機会を渡されたのだとそう思えた日だった。

もう想司自身もこの長い苦悩から抜け出し、幸せじゃなくても辛さからは逃れたかった。

この日を最後にして欲しいと心から願っていた。



しかし、まだ想司の悲劇は終わっていなかった。



その数ヶ月後に想司は奥さんの日々の行動にまた怪しいと思ってしまった。

そして、気づいた時には奥さんがいつも持ち歩くハンドバッグに手をかけ中を探り、そして見つけてしまった。


それは、中絶手術の領収書だった。


金額は15万と記載されており、一瞬で頭に血が登った。

しかし、確信はない。

それとなく後日に想司は聞いてみる事にした。



「渡した15万ってちゃんと取ってあるの?」


「は? なにそれ?」



衝撃の言葉だった。

想司にとってそれが嘘か本当かはどちらでも良かった。

いや、考えることもやめたと言った方が正しい。



「……もう……何も話さないくていい」


なぜ、こんなにも裏切られる。

なぜ、こんなにも辛い思いをしなきゃいけない。

なぜ、こんなにも苦しい毎日を過ごさなきゃいけない。

なぜ、こんなにも頑張っているのに報われない。

なぜ、こんなにも救われる事が何一つない。

俺が何をしたって言うのだ。

信じて、信頼を寄せて、全て裏切られてきた。

今までの真実に、この現実にもう耐えられない。

想司はあまりの辛さに自殺も考えた。

風呂場にお湯まで溜めた。

何回踏切で一歩踏み出そうとした。

目の前の車になぜブレーキを踏んだと思ったことか。

朝目覚めてから絶望から始まる毎日。

もう世界が灰色にしか見えなかった。



そして、離婚届を書いてもらった。

理由は、息子の通う小学校を指定したいからと伝えてはいたが、内心どうにかして離れられないかと1番に願っていた。



しかし、更に追い討ちが想司を蝕む。



激務を終え、疲れきったまま息子を迎えに行き、帰宅したが奥さんの姿は無い。

もう虚無感から何も思わなくなっていた。

息子を風呂へ入れ、夕食を作り、息子のやりたい遊びに付き合ってあげ、寝かしつける。

そして、次の日の朝になっても奥さんの姿は無い。

その時、想司の携帯が鳴った。


「はい」


「朝早くからすいません。○○警察署です」ーー


その瞬間、事件、事故、殺害、自殺、色んな事が脳裏を駆け巡った。


ーー「奥様が万引きをされ、受け取り保証人として署まで来ていただけませんか?」



その言葉に想司は死んでいてくれてた方がまだましだったと、願わずにはいられなかった。



「もう、関係ない人なのでこの番号には電話をかけてこないでください」



そう言って想司は強制的に電話を切る。

もう想司には怒りを思う気持ちすら無く、それは最早「無」だった。

その後日、どうやら奥さんの母親が受け取り保証人として出向き、その足で想司の所まで訪れ、目の前で土下座をし謝罪する。

その2人に想司は淡々と言った。


「もうどうでもいい……勝手にしてくれ」


しかし、想司自身はどうでも良くても、息子は違うとその時に思った。


「ただ……子供だけには……もう恥をかかせないでくれ……あの子に親の罪を背負わせないでくれ」


その後は、息子も小さいこともあり、母親としては家に置いた。

もう想司の中で元嫁とも言いたくなく、息子の母親と称して「母体」と詠んだ。

最低限の母親として、想司は父親として、息子が関わる以外の会話は何一つとしてない。


その後、たまたま聞いた話だが、どうやら上司は売春をしていたらしい。

お金欲しさにそれを承諾していたスタッフが想司に教えてくれた。

そしてそのスタッフの証言から、そこに想司の嫁がいた事が発覚した。



この人生の何が幸せなのか。

何が楽しいのか。

なぜこんな状況なのか。

なんで生きているのか。

生きる必要性があるのか。

なんでこんな思いまでしなきゃいけないのか。


想司はそんな自分に比べて、周りで離婚した友人は新しい彼女を作り、とても幸せそうな日々をSNSに上げる。

それを見て隣の芝生はとても青いと感じる。

あの憎い上司ですら新しい嫁と結婚をし幸せそうな顔でSNSに映る始末。

生きることの辛さ、生きている意味、頑張る必要性、必死にならなければならない現実。

いくら考えた所で何も出ない答えに想司は考える事をやめた。



そして、何度も思い出し、身に染みて確信に変わり、想司は太宰治の人間失格に出てくる一説、「信頼は罪なりや?」の問に答える。



「勝手な信頼は罪たりる」



そんな時、想司は初めて大殺界を知る。

どうやら、耐えられず改善に努めれば努めるほど事態は悪化するらしく、まさに想司はそれを経験し、度重なる今までの出来事が全てを物語っていた。

正直、信じたくはなかった。

そんなもの自分の気持ち次第だと思っていた。

しかし、今までの現実が、今までの真実が、想司に信じさせるには足り、そう思わないと怒りの矛先が自分に向いてしまうそんな恐怖が想司を襲う。

そして、調べれば調べるほど、母体が狂い始めた期間から想司の今までの期間が全て重なり、更に残り半分もの期間を残していた。


だが、想司の心はこの時、ほんの少しだけ晴れたのは確かだった。

信じるか、信じないかは別として、この事を原因にすることで終わりが見え、自分自身が納得のいく行動を取ることができる可能性に安堵した。

そして、同時にこれは精算なのかもしれないと思った。

その日から今までの現実を、今までの真実を全て受け入れ理解する。



身に降りかかる火の粉を自ら無防備を選択し、受け切るしかないのだと。


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