ひまわり畑を歩く者

大橋 知誉

ひまわり畑を歩く者

 私はずっとひまわり畑を歩いていた。


 ジリジリと照り付ける太陽が私の体力を奪い、体中汗でベトベトだ。


 しばらく行くと、小さな小屋がある。


 そこは単に “スポット” と呼ばれている場所で、中には水と食料、そして仮眠できるスペースがあり、必要に応じて使うことができるのだ。


 私は限界ギリギリまで歩いて来たので、次のスポットを使うつもりでいた。


 だけれども、いくら歩いても次のスポットは現れなかった。

 これはおかしい。公式のルールでは必ずスポットはあるはずなのだ。


 私は道を間違えたのかと振り返って見た。


 振り返ったところで正しい道など解るはずもなかった。

 ここはひまわりの迷路なのだ。


 ひまわりは私の背丈よりずっと高いので、遠くまで見渡すことはできなかった。


 私は焦っていた。こんなにスポットが出現しないことは今までになかったのだ。


 だんだんと日が傾き夜が近づいていた。

 屋外で夜を明かすなど自殺行為だ。闇に飲まれる。


 早くスポットを見つけなければ。


 私は走りだした。


 刻々と時間は過ぎて、夕日が全てをオレンジ色に染め始めた。

 私の影が地面とひまわりの上に伸びって行った。


 走っても走ってもひまわりだらけだ。


 ダメだ…間に合わない。


 私は走るのをやめると、膝に手をつきあえぐように呼吸をした。

 のどの奥がつまって吸い込んでも吸い込んでも空気が肺に入って来なかった。


 両脇からひまわりが迫って来るようだった。

 猛烈な閉塞感に押しつぶされそうになる。


 そう思うと余計に呼吸ができなくなった。

 いったい今までどうやって呼吸をしていたのだろうか…。


 どうしたら、息ができる?


 私はヒーッ!ヒーッ!と奇妙な音を立てる喉をかきむしりながら、必死に空気を吸おうとした。


「吸うんじゃない、吐くんだよ。ゆっくり」


 急に声がしたのでそちらを見ると、私の影が喋っているのだった。

 もちろん影なので顔などないのだが、影が喋ったことは明白だった。


「はやく、死ぬぞ」


 突然のことにパニックの波は瞬間的に姿を消し、私は冷静になった。

 そして、影が言ったとおりにゆっくりと息を吐いた。


 すると驚くほどに呼吸が楽になった。


 私はもう一度深く息を吐くと体を起こし真っ直ぐに立った。


「これからどこへ行けばいいの?」


 私は影に聞いてみた。


「それは私にはわからない。お前の脳と身体が知っていることしか私にはわからない。何故なら私は影だから」


 …なるほど、それもそうか。と私は思った。


「日が沈めば私は消える。だけど恐れないで。お前は闇には飲まれない」


 日没が迫っていた。

 影はひまわりの中にのびて、もう人の形をしていなかった。


 私は意を決して再びひまわり畑の中を歩き始めた。


 焦ってはいけない。夜の闇を克服した者も大勢いるではないか。


 この道にスポットがないは何かのミスなのかもしれない。

 報告しなければと思った。


 いつのまにか日はすっかり沈んでしまい、もう影は見えなくなっていた。


 灯りを持つことは禁止されているので、夜になれば真っ暗になる。

 私はもうここまでか…と思い、その場にしゃがみこんだ。


 暗闇の中では歩き回るよりじっとしていた方がよいだろう。

 そしてこのまま眠ってしまおう。意識がなければ闇に飲まれることはない。…はず。


 私は目を閉じて眠ろうとした。


 だが当然ながら眠れそうもなかった。


 ザワザワとひまわりが風に揺れる音だけが響いていた。


 目を開けるのが怖かった。

 闇を見てしまったら、絶対に飲まれてしまうと思った。


 そうして目をぎゅっとつむってうずくまっていると、何やらシューっと空気が漏れるような音がしはじめた。

 そして瞼の向こうに揺らめく光を感じた。


 私は恐る恐る目をあけた。


 すると、目の前に、人の形をした青白いものが浮かんでいるではないか。


 私はギョッとして後ずさった。


 まさか、これが闇?!


 一瞬そう思ったが思い直した。


 …違う…。闇ではない。なぜならこれは光っているから。


 それはシューシューと音をたて、まるで水蒸気のように立ち上りながら青白く光っている人であった。


≪いた!≫


 その青白い人が言った。

 あらぬ方を見て行っている。


≪女子。大丈夫そう≫


 私はゆっくりと立ち上がって水蒸気の人を見上げた。

 すると水蒸気の人もこちらを見た。


 目と目があった。


≪ボクの声、聞こえる?≫


 水蒸気の人が言った。


 私は頷いた。


≪よかった。スポットはその先の細い脇道を入ってしばらく行った先にある。来れる?≫


 再び私は頷いた。


≪よかった。そこで待ってる。君、勇気あるね≫


 そう言うと水蒸気の人は消えてしまった。

 私は「待って…」と言ったが間に合わなかった。


 水蒸気の人が消えてしまうと、途端に闇が迫って来た。


 私は走り出した。

 闇に飲まれる前に、教えてもらったスポットに辿りつきたい。


 水蒸気の人が言ったとおりに、少し行くと細い脇道があった。

 教えてもらわなければ見逃すところだった。


 私はその道に入り、走り続けた。


 暗闇の中、ひまわりをかき分けて進んでくと、スポットが見えてきた。

 灯りが付いている。


 助かった…! 私は助かった。


 私は全力で走ると、スポットに飛び込んだ。


 中には四人の人がいた。

 女子が一人、男子が三人だ。


 スポットは基本的には一人で使う設計になっている。

 その中に四人も入っているのは初めて見た。

 そこに私が入ったらぎゅうぎゅうである。


 それでも中の人は私の手を引きスポットに入れてくれた。


「のど乾いてるでしょう?これ」


 手前にいた女の子が水をくれた。

 私は「ありがとう」とお礼を言って受け取ると、それを一気に飲み干した。


 生き返った。


 スポットの中は空調が効いていて涼しかった。


「あぶないところだったね」


 ベッドの上に座っている男の子が言った。

 その声に聞き覚えがあった。


 …さっきの水蒸気の人!?


 私は驚いて言葉にならず、口をパクパクさせながら外を指さした。

 男の子はあははと笑って頷いた。


「そう、さっきのあれ、ボクだよ」


 状況を理解できずにいると、男の子が話を続けてくれた。


「ボクたちもいまいち状況が把握できていないんだけど…あ、ボクは J-525、ジェイって呼んで」


「あたしはL-336、エルだよ」


「僕はU-948、ユウだ」


 スポット内にいる人たちが次々と自己紹介をしてくれた。

 私は一人ひとりの手を握り挨拶をした。


 残りの一人、一番奥で机の上に座ってずっと窓の外を見ている不愛想な男子だけはこちらをチラリとも見なかった。


 水蒸気人間…もといジェイが「あらら…」と言いながらその人の番号を教えてくれた。


 K-448。


「どうしてみなさん、ここに集まっているんですか?」


 私の質問に、窓際の彼以外が顔を見合わせた。


「スポットがないんだよね」


 ジェイがベッドから降りて私をそこに座らせてくれた。


「スポットがない?」


「うん、そうなんだよ」


 言いながらジェイはスポット内にひとつだけある椅子に座った。


 ジェイは、さっき私が見たような姿になって一定の範囲内の状況が把握できるらしい。

 何かの特殊能力のようだが、急にできるようになっていて、ジェイ本人も仕組みはよくわかっていないそうだ。


「とりあえず、規則にこういうことについて何も書いてないから、使ってもいいのかなって」


 まあ、とにかく、その特殊な能力を使って周囲を調べた結果、日があるうちに辿りつけるような位置に他のスポットがないということだった。

 以前は絶対にあったはずなので、突然なくなったとしか言えないような状況らしい。


「ダメ押しで、もう一度だけ見て来ていい?」


 ジェイがそう言うと、始めて窓際の彼が反応してこちらを見た。


「おい、お前、これ以上はここに入らねぇだろ?」


「でもケイ、ボクはできるだけ助けたいんだよ、みんなはいい?」


 やっぱり窓際の彼の呼び方は “ケイ” でよいのか、と私は心にメモした。


 ジェイ、エル、ユウ、それにケイ…。


 ここで他の人とこんなに交流するとは考えていなかったので、気持ちが追いついていなかった。

 粗相がないように必死にみんなの名前を覚え、タイプを観察する必要があった。対応を間違えて失礼がないように。


 ジェイは野心の感じられない純粋無垢な笑顔でみんなを見渡した。

 こんな顔を見せられたら反対なんてできないじゃない。


 ケイ以外はジェイに同意した。

 ケイは「勝手にしろ」と言ってまた窓の外を向いてしまった。


 私は状況がまだ掴めていないけれど、私のように困っている人を探してここに誘導するということだと理解した。


 それに、ジェイがどうやってあの姿になるのか興味があった。

 まるで本当に水蒸気のような姿。


 ジェイは備え付けのコップを取り出すと、そこになみなみと水を汲んだ。

 そしてそれを一気に飲んだ。


 飲んだと思ったら、その水をダバーーっと吐き出してしまった。

 私がぎょっとして見ていると、ジェイが吐き出した水がみるみる蒸発して人の形となった。


 それはまさに私がひまわり畑の中で見た姿だった。


 水蒸気化したジェイは、サーっと飛んでスポットから出て行った。


 残されたジェイを見るとどこか遠くを見るような目でその場に立ち尽くしていた。

 さっき出て行った水蒸気の目で見ているのだろうか。


「ダメだ…暗くてもうよく見えないな」


 ジェイがボソッと言った。それからフッと息を吐くと、たぶん戻って来た。

 彼は私たちを振り返ると、肩をすくめて、既に三人が座っているベッドの上に割り込んで来た。


「いなかった?」


 エルがジェイに声をかけた。

 ジェイはため息をついて首を振った。


「ま、明日もやってみようよ」


 エルはジェイの肩をたたいて、彼にクラッカーを渡した。

 彼女は私にもクラッカーをくれた。


 私たちは無言でクラッカーを食べた。


 スポットがないならどうしたらいい?

 私は全くわからなかった。


 みんなこの状況で眠るようだった。

 この人たちはいったい何日ここにいるのだろうか。


 確かにスポットにいれば水や食料は自動的に支給さるのだが…。


 このままではゲームを進めることができないではないか。

 ゲームを進められない私たちに待っているものは何?


 死?


 いや…そんな設定はなかったはずだ。

 ゲームを終わらせられない者は脱落者となる。それ以外のことは私は知らなかった。


 狭いベッドの上に四人で丸くなっているために、体が痛くなってきた。

 私は伸びをするためにベッドから降りた。


 窓際の机に上には、相変わらずケイがいた。彼は座った姿勢のまま目を閉じていた。

 眠っているようだった。


 あんな奴でもここから出て行っていないということは、事態は思った以上に深刻なのかもしれなかった。

 嫌でもここに留まざるを得ないのだ。


「眠れないの?」


 ベッドの方から声がしたので見ると、ジェイが体を起こしていた。


「ごめんなさい。起しちゃった?」


 ジェイは首を振ると立ち上がり、私の横に立って伸びをした。


「ケイの言う通り、ここにこれ以上人を入れるのは無理かな…」


 ベッドの上でスヤスヤと眠るエルとユウを見下ろしながらジェイは言った。


「このゲームはおかしいよ。ボクはできるだけ多くの人を見つけて一緒に、全員でここから脱出するつもりなんだ。君も来るでしょう?」


 屈託のない笑顔だった。

 この人はさらっとすごいことを言ってしまう人なのだ。


 私は彼の問いかけに頷きながら、もしかしたら私はこの人を好きになるかもしれない…と思った。


 ジェイは水を一杯飲むと、エルとユウの間に潜り込んで眠ってしまった。


 私も眠らなくちゃと思ってふと窓際を見ると、ケイが起きていて、こちらを見ていた。

 その表情からは何も読み取れなかった。


 私は気まずく思い、そそくさと三人が眠るベッドにもぐりこんで目を閉じた。


 私が邪魔だと思っているのだろうか。さすがにスポットに五人は窮屈すぎる。

 もしかして、あの人の寝場所を私が奪ってしまったのかも…。


 それでも私はケイに声をかける勇気はなかった。

 そうして目を閉じていたらいつのまにか眠っていた。


 目を覚ますと、朝になっていた。

 そして他の面々はもう既に起きた後だった。


 起き上がってぼーっとしていると、エルがチャージ系のゼリーを持ってきてくれた。

 私は「ありがとう」と言ってそれを受け取り食べた。


 ゼリーを食べたらとりあえず元気になったような気がしてきた。


 ジェイはベッドの横に立って、どうやら水蒸気化中のようだった。


 ユウとケイの姿が見えなかった。


「あいつらは周りの偵察。あたしたちも行こう」


 エルに手を引かれて外に出た。


 すっかり日が登って外は熱かった。


 どこまでも続くひまわり畑が風になびいてる。


「あの…エル、私なんかケイを怒らせちゃったみたいなんだけど…」


 私は勇気を出して聞いてみた。

 エルはきょとんとした顔をして、それからあははと笑った。


「ああ、あいつのことは気にしないで。いっつもああなんだよ。協調性ないってゆうか。いるじゃんそう言う奴。別に怒ってるわけじゃないと思うよ」


「…それならいいんだけど…」


 若干モヤモヤが残るものの、本人から直接何かされるまでは放っておこうと思った。


「エルたちはいつからここにいるんですか?」


 この質問にエルは少し考えてから答えてくれた。


「うーんとね、私は三日目かな。ここに最初に来たのがジェイで、その次がたぶんケイ、そんでユウが来て、私…って感じ。ジェイは一週間くらいいるんじゃないかな」


「一週間??」


 何かが変だと思った。計算が合わない?

 そもそも私はいつからこれを始めたのだっけ?


 考えれば考えるほど、自分の記憶が曖昧であることが解り、恐ろしくなってきた。

 私は一時的に考えるのをやめることにした。


「おーい! みんなー!ちょっと来て」


 向こうからユウの声がした。


 声のした方へエルと言ってみると、ケイとユウが、何やら不可解な穴を覗き込んでいるところだった。


 その穴は人ひとり入れるくらいの大きさで地面にぽっかり空いていた。

 穴の中では真っ黒い物質がグネグネ動いている。

 私は今までこんなものを見たことがなかった。


 ほどなくしてジェイも加わった。ジェイはずっと水蒸気化して周辺の捜索をしてくれていたのだが、その間、こっち側の意識も同時にあるようで、何かあればすぐ戻って来るのだった。


「何なのこれ?」


 エルが穴を覗き込みながら言った。


「そんなに近寄らいない方がいいじゃない? 危ないかも…」


 ユウが警戒しながら言った。


「今まであった? こんなの?」


「ないと思う」


 ひとまず、この穴が何なのか解らないので、私たちは不用意に触れないことにした。

 誤って誰かが落ちないように、穴の周辺のひまわり編み込んで即席のフェンスを作っておいた。


「ちょっとスポットに戻って状況を整理しよう。今回の調査で少しわかったことがある」


 ジェイが言いながらスポットへ戻って行った。

 私たちもそれに続いた。


 ジェイは今朝から調べていたことの結果を教えてくれた。


「結構細かく見たんだけど、ボクが観測できる範囲にもう人はいないみたいだ残念ながら。それからスポットなんだけど、ここから随分行った先に、ひとつだけあった」


「あったの!?」


 エルが嬉しそうな声を出した。


「あ…、でもすごく遠い。ここを早朝に出発したとして、休憩なしのぶっ通しで歩いても、到着は深夜になるくらい」


 これには全員が黙ってしまった。ここから移動するためには確実に夜の中を進まなければならない。


 ここで私は矛盾に気が付いた。


「ちょっと待って。私、昨日朝からずっと歩いてここに着いたんですけど…。そっちのスポットより私が元いた方が近いんじゃないですか?」


 ジェイが、悲しい顔で私の方を見た。


「それがさ、スポットが消えているんだよ。これまで、みんなが来た方向のスポットを探したんだけど、どれもなくなっている。君が来た方向にもスポットは一つもなかったから消えたんだと思う」


 …そんな…。そんなことってある??


 私はますます世界が狂ってきていること感じてゾッとした。


「で、どうするかそろそろ決めないとな。ずっとここにいるわけにもいかないじゃん、やっぱり。ボクたち進んだ方がいいと思うんだ。どうする? 行く?」


「それは夜間の移動に挑むかどうかってことだよね」


 みんなはしばらく考え込んでいた。

 誰もすぐには答えを出せないのだ。


 夜は闇が支配する時間だ。

 闇に心を捕らえられると飲まれてしまう。そうなったら終わり。ゲームオーバーだ。


 でもここにずっといてもゲームを終わらせることができない。

 そしたらやっぱりゲームオーバーではないのだろうか。


「ずっとここにいたらどうなるんでしょうか?」


 私は恐る恐るみんなに聞いてみた。

 その答えを知っている者は誰もいなかった。


 聞かされていないのだ。

 私たちはとにかく先に進んで、ここから出ることを最終目的とされている。


 その間、禁止されてること以外であれば何をしてもいい。

 もちろん、こうやって協力しあってもよいのだ。


 だけれど、先に進まない…という概念はこのゲームには存在しないのであった。

 施設の問題で足止めされている場合、それでも続行すべきなのかどうか、私たちには正解がわからなかった。


 これが想定された事象なのか、それとも何かの不具合なのかどうかも知る術がなかった。


「行くしかないだろう」


 沈黙をやぶったのはケイだった。


「夜を進むってこと?」


「そうだ、それ以外ないだろう」


「それはそうなんだけど…」


「みんなで行けば大丈夫じゃない?」


 慎重なのはユウで、楽観的なのがエルだった。


「おまえはどう思うんだよ、新入り」


 急にケイから話しを振られて私は慌てた。

 私は何となくみんなの意見に従えばいいやと思っていたのだ。


「あ、私は…行きたいです…」


 何となく行く方向に話が進んでいたので私はこう答えた。

 それでいいのかどうかはわからなかった。


「ジェイは?」


 ジェイはしばらく考えていた。こういう時にリーダになるような人なのかと思っていたが、意外と大きな決断が必要な時はケイが出てくるようであった。

 何となくこのメンバーの役割分担がわかってきた。


 ジェイは冷静な判断と正確な情報…エルは前向きな思考、ユウは慎重さ、ケイは最終的な決断力。

 そして私は…私は何なんだろうか。昨日このメンバーに加わったばかりで、私は自分で自分の立ち位置がわからなかった。


 ジェイはまだ考えていた。


「すぐ出発するのは危険かな。あそこに無事辿りつくにはちょっと体力付けないといけないかも。早朝から夜まで、一気に走って行くことができれば闇の中を行く危険を少なくできる」


「マジで!? 頭おかしいよ」


「…でも、そうでもしないと辿りつけないよ」


 エルはゲェーと言ってやる気を失ってしまった。


「ずっと走って行くのは現実的ではないかもだけど、体力は付けた方がいいかも。少しその時間を作ろうよ」


 ユウがジェイの極端な意見を中和してくれた。

 とりあえず、我々はここにもうしばらく滞在して持久力を上げることに専念することにした。


 早速、軽食を取ってから運動を始めた。

 と言ってもスポットの周辺の道を行ったり来たりして走るくらいしかできなかった。


 ただ、日中は気温がだいぶ高くなるので、この中を走ることがどれほど過酷なことかを思い知ることとなった。


 それから、スポットがない間は水分補給や食事ができないので、みんなの知識を寄せ集めて、ひまわりを使った応急処置をいくつか確認した。


 スポットから水や食料を持ち出すことが禁止事項なのだ。

 その代わり、ひまわりや土など外にあるものは何でも活用してよい。


 ひまわりの茎を切ってチューチュー吸うと、多少の水分を摂取できる。

 のどを潤すほどまではいかないけれど、みんなこの方法でこれまで移動距離を伸ばして来た。


 スポットへはかかっても丸一日。食事は最悪なしでもいける。水分だけ気を付けないといけない。

 何しろ暑い。


 エルは一番暑い時間帯はひまわりで小さなテントを作って休憩したりしてたそうだ。

 彼女はとても器用にひまわりを編み込むことができた。


「誰か怪我したり動けなくなったりしたら運べる道具が作れるかもな。みんなこの技を取得しておこう」


 私たちはエルにひまわりの編み方を習った。


 そうして、みんな一生懸命訓練に励んでいたのだが、私の中には諦めの気持ちが膨らんできていた。


 みんながんばっている……でも、これ無理なんじゃないか…。

 それより、夜を克服する方法を考えた方がいいのでは…。


 とはいうものの、その方法はまるで解らなかったので、私はみんなにあわせて体力づくりや生活の知恵の取得に勤しんだ。


 そうして数日が過ぎた。

 みんなが教えてくれた技術を全て取得すると、私はひたすら走り込みを続けた。


 ジェイは毎日周辺の探索を続けていた。

 だけれどもこの辺一帯にはもう人影はないようだった。


 みんな先に進んでしまったのか、それとも…。


 私たちは焦りだした。自分たちが著しく置いて行かれているのでは…と思い始めたのだ。


 全員がぶっ通しで走れるようになるまで待っているような時間はなかった。


 私がこのスポットに合流してから六日後。

 ついに私たちは次のスポットへの移動を決意した。


 出発前の食事と水分補給の量は、それぞれこの何日間で自分の感覚を掴んでいた。

 それぞれ自分にあった量の栄養と水分を摂取した。


 これが最後の食事になるのかも…とか思うと感慨深かった。

 みんな無言で食事をしていたので、同じ気持ちだったのかもしれない。


 なお、スポットがないということはトイレもないので、もよおしたらひまわり畑の中でするしかない。

 だけれども、それはもうここにいるメンバーは全員経験済だった。抵抗はない。


 問題は夜なのだ。みんな昼間の暑さ対策に気を取られがちだけれども、問題はそう、夜なのだ。


 食事を終えると、日の出前の薄暗い中、私たちはいよいよ出発した。

 日の出前と言っても夜は終わり、闇はもう消えていた。


 私たちは一定のペースを保ちながら、まずは歩いた。

 最初から飛ばし過ぎるとスポットに辿りつくまえに体力がなくなるのが目に見えている。


 ジェイを先頭に、体力にやや不安のあるユウが真ん中、その両脇を私とエル、ケイがしんがりをつとめた。

 気温が上がる前にできるだけ進みたかった。


 太陽が顔を出すと、どんどん気温が上がって来た。

 私たちはなるべくひまわりの影に入り歩いた。


 ひたすら歩いた。


 全員がジェイの指導で、次のスポットの位置を把握していた。

 ジェイに何かあった時でも進めるように。


 ここにいる者は、全員、太陽と影、夜には星の位置で方向を知る術を知っていた。


 まとまった水分を摂取できない状態ではジェイの水蒸気化は使えない。

 自分たちの方向感覚だけが頼りなのだ。


 太陽が真上にくるころ、私たちは一度休憩をはさんだ。

 まだ四分の一も来ていないので、立ち止まってはいられないのだが、ひどい暑さだった。灼熱地獄の炎天下だ。


 みんなひまわりの茎を折り、染み出て来る水分を貪った。


 少し休憩すると一行は再び歩き出した。


 ユウの消耗が激しく、辛そうだった。


 私とエルで、彼に肩を貸して歩いた。

 ユウの前を私たちが並んで歩き、肩に手を置いてもらう方法だ。

 まるで電車ごっこをしているようだが、支えなしで歩くよりはマシになる。


 それでもユウの歩調は徐々に遅れ気味になってきた。


「みんな…ごめん。もっと日ごろから体力をつけておくべきだった」


 ユウは泣きそうな声を出していた。


「大丈夫、みんなで行こう」


 私たちはユウを励ましながら歩いた。


 それからほどなくして二回目の休憩をせざるを得ない状況となった。

 エルの足がつってしまったのだ。


 足の筋肉が悲鳴を上げ始めていた。


 せめて冷やせるものがあればよいのだが、ひまわりや土しかない環境では難しかった。

 穴を掘って少しだけ温度の低い土にふくらはぎをつけてみたがあまり効果はなかった。

 それより、穴を掘るのに体力を消耗してしまった。


 お互いを慰めあっている私たちに背を向けて、ケイだけが、これから進む先に視線を睨みつけていた。

 そして振り返るとこう言った。


「足の遅いやつと、そうでない奴で、二手に分かれないか?」


 これには、全員が反対の意を示した。

 せっかくみんなで乗り越えようという時に非常なことを言う。


「このままでは遅い奴はついて来れなくなる。体力に余裕がある奴は逆にペースを上げられず辿りつけない。それぞれ適切なペースで進んだ方が成功の確率が上がるんじゃないか。どっちにしても暗くなる前には到着できない。闇に飲まれるのは全員でいても独りでいても同じだろう?」


 もっともな意見だった。

 しばらくみんなは考え込んでいた。

 私はどうしたらいいのかわからなかった。とりあえず、先に進みたいという気持ちと、みんなと離れたくないという気持ちだけが確かだった。


「いや、やっぱりみんなで行こう」


 最初に答えを出したのはジェイだった。


「どうせ夜になるなら人数は多い方がいいんじゃないかな?」


 ジェイは…たぶん彼もヘトヘトなのだろうけど爽やかな笑顔を見せながら言った。

 その顔を見ていると、どこまでもついて行こうという気持ちになった。


 エルやユウも同じ気持ちのようだった。

 二人はジェイに賛同した。なので私もそうした。


 ケイは不服そうだったが「じゃあ、いいよ」と言ってみんなで一緒に行くことを納得した。


 私たちは再び歩き始めた。

 一日で一番熱い時間帯。辛かった。熱せられた空気が重くのしかかるようだった。


 それでも私たちは歩いた。歩くほかなかった。


 そんな中、ユウの足取りは心なしか軽くなってきたように見えた。

 疲労のピークが過ぎると急に楽になる地点がある。全員の肉体がその地点へと向かっていた。


 私たちは無言で歩いた。お喋りは余計な体力を消耗する。


 影の消える地獄の時間が過ぎ、徐々にひまわりの影が伸び始めていた。

 日影に入るとだいぶ楽に思った。


 私たちは影の中を無言で歩いた。


 やがて辺りはすっかり夕方になり、影がずっと伸びてきた。

 そしてジェイがひとつの提案をしてきた。


「そろそろ走ろうか…」


 このメンバーの鬼軍曹はケイだけでなかったことを私たちは思い出した。

 ジェイも時々狂ったことを言う。


「俺は走れるぞ」


 ケイがすかさず言った。


 私も走ろうと思えば走れる気がした。

 だけれども、私がここで走れると言ってしまったら、無理な人が言いずらいのでは…と考えてしまった。


 ちなみに、この会話は歩きながらされている。


「あたし、意外と行けそう」


 エルが言った。横でユウが「えぇー…」と声を上げた。

 やっぱりユウは無理なのかも…。私はもう少し様子を見ることにした。


「エルのは、たぶんランナーズ・ハイ的なやつだと思うよ」


 ジェイが説明してくれた。


「体を酷使してアドレナリン出まくってる。疲労とか痛みとかの前に幸福感を感じてしまう状態」


 なるほど、私も今、その状態かもしれない。


「ここで飛ばし過ぎも危ないけど、これを利用してもいいかもってボクは思ってる。どうかなユウ」


 ユウはしぶしぶ合意した。ジェイが私のほうを見たので、私は慌てて頷いた。


「じゃあ、走るよ」


 そういうとジェイは徐々に歩みのペースを速めて行き、やがて走りだった。

 他の面々もそれに続いた。


 ジェイはユウに話しかけ、ちょうどよいスピードを探っていた。

 それで決定したペースが以外と早くて私は驚いてしまった。だが何とかついていけるペースではあった。


 私たちは走った。ひまわりの揺れる中。夕日が辺り一面をオレンジ色に染める中をひた走った。


 走り始めると、トイレのために立ち止まることはできなくなるので、垂れ流しとなる。

 だけれども、ほとんど何も接種していない私たちからはもうほぼ何も出て来なかった。


 ふと横を見ると、私の影が私と並走していた。

 久々に自分の影を認識したと思った。


 そう思っていたら影が話しかけてきた。


「よそ見しないで、走ることだけに集中しろ。前の人を見て。ペースを一定に。吐く息を意識して」


 まるでコーチのように影は言った。

 他の人が何も気が付いてない様子なので、影の声は私だけに聞こえているようだった。


 私は影の言うとおりにして走った。


 どれくらい走っただろう。自分がこれほど連続して走れるとは思っていなかったので、驚いていた。


 走りながらひまわりを折って水分補給する方法も練習を重ねてきたので転ばずにうまくできた。


 やがて日没が近づき周りが薄暗くなってきた。


 ここ一旦、ジェイがペースを緩め、歩き始めた。

 息を整えるとジェイが話始めた。


 立ち止まったら二度と動けなさそうなので、みんな足は止めなかった。


「もうすぐ日没だよ。走るの続ける?」


「走ってた方が “無” になれていいかも」


 エルが言った。私もそう思った。

 全員が同意だった。


 私たちは足を止めずにひまわりを折って取ると水分補給をした。


「よし、じゃあ、少しペースは落としていくよ」


 ジェイが走り始めた。

 するとケイが前に出てこう言った。


「こっから俺が前を行く。お前はしんがり頼む。疲労がたまっているだろう。交代だ」


 感情がこもっていないような、いや、むしろちょっとムッとしたような口調だったが、彼なりにジェイを気遣っているのかもしれなかった。


 もしかしたら、思ったより嫌な奴ではないのかもしれない。


 ジェイは「助かる」と一言いうと、後ろに下がった。


「ペースが速すぎたら言ってくれ」


 ケイは振り替えずに言った。


 私とエルとユウは頷くと、彼の後を追った。


「ユウ、走れる? 大丈夫?」


 エルがユウに声をかけた。ユウは昼間よりずっと調子が良さそうだった。


「うん、何か突き抜けた感じ。今ならどこまでも走れそう」


 私も全く同じ感じだった。たぶん、いますごくハイになっている。

 この状態が切れたら急激に体が動かなくなるだろう。

 集中力を高めなくては…。


 日没を過ぎると一気に暗くなってきた。

 闇が迫って来ると、静けさが強調されて感じられた。


 ひまわりの騒めきと、一定のリズムで走り続ける足音と息づかい。

 それがこの世の全ての音だった。


 完全に夜となっても、思ったほど真っ暗にはならなかった。

 満天の星が夜空一面に広がっていた。


 それは空が明るく思えるほどだった。


 周りの状況やみんなの顔などは見える程度の明度は確保されていた。


 足元はよく見えないけれど、進むべき道はわかった。

 私は前を行くケイの背中を見ながら走った。


 順調だった。


 大丈夫、私たちは辿りつける。


 漠然とそう思った。

 なぜか私は成功を確信していた。


 そう思った矢先…、エルの一言でその自信は吹き飛んでしまった。


「ジェイがいない」


 この言葉に全員が思わず立ち止まって振り返った。

 

 ジェイがいるはずのところにはただ闇が広がっていた。


「いつからだ?」


 ケイが怒ったように言った。


「わからない。時々後ろを見て確認はしてた。たぶん数分前にはいたと思う」


「あ、あれを見て!」


 ユウが怯えた声を出し空を指さした。


 そちらの方向には空に向かって一筋の真っ黒な闇が立ち上っていた。


 それを意味することを私たちはよく知っていた。

 闇に飲まれた者から放出される物質である。


 ジェイが闇に飲まれている!!!


 私は恐怖でその場に立ちすくんだ。


「たすけなきゃっ!!! ジェイが飲まれちゃう!!」


 エルが闇と私たちの顔を交互に見ながら言った。

 その顔は恐怖にひきつっていた。


「まて、落ち着け」


 ケイがエルの肩を掴んで脅すように言った。


「よく見ろ、ああなったら助からない。道連れになるぞ」


「じゃあ、見捨てろっていうのっ??!!」


 エルはケイの手を弾き飛ばして怒鳴った。

 私はどうしたらいいのか解らず、ただ恐怖に震えて成り行きを見ていた。


 私もジェイがいなくなるのは嫌だった。

 だけれども、助けに行く勇気もなかった。


「あたしは行く! ジェイを助ける! あいつ、全員で行くって言ってたじゃん!」


 叫びながらエルは行ってしまった。


「ぼ、僕も行く」


 ユウもその後を追って行ってしまった。


 私はどうしたらいいのか解らず、その場に立っていた。

 そしてケイに視線を向けると、ケイが怒ったような目でこちらを見ていた。


「わ、私もジェイには一緒に来てほしいです」


 それを聞くとケイはますます怒ったような顔になってしまった。

 私は逃げるようにケイの元から走り去り、ジェイの方へと向かった。


 ジェイはそれほど離れていない場所に立っていた。


 恐怖に怯えた表情で立ち、彼の周りからは真っ黒な気体が立ち上っていた。


 エルとユウはジェイから少し離れた場所に立ち、彼に声をかけているところだった。


「ジェイ!!! 助けに来たよ! こっち見て!」


 あの黒いものに触れてしまうと、道連れになる可能性があった。

 だから安易に近づくことはできなかった。


「一緒に行くんだろう? 行こうよ、戻ってきてよ!」


 ユウも泣きながら叫んでいた。


 私は二人の声がもうジェイには届いていないことを知っていた。

 ダメだ、これではジェイを救えない。


 私は考えるより先に動いていた。


 ジェイの方へと走り寄り、思い切り彼の頬をひっぱたいた。


「しっかりしてください! 一緒に行きましょう」


 ジェイはこの一撃で私の方を見た。彼の視線が私を捉えた。

 私は彼に頷いてみせた。


 だけれどもジェイは恐怖に怯えた表情で首を横に振った。


「いやだ…行かない。ボクはもう行かない…」


 ジェイの周りの闇が濃くなった。

 それはモヤモヤと黒い煙のように湧き出していた。

 そして私にも絡みついてきた。


 私は焦って闇を手のひらで払いのけた。


「もうボクはダメだ。最初から嫌だったんだよ…」


 消えそうな小さな声でジェイはブツブツ言った。

 濃くなった闇の背後から真っ黒な手がいくつも伸びてきた。

 黒い手はジェイの顔の周りや体を這いまわってどんどん彼を覆い隠して行こうとしていた。


 私は咄嗟にジェイの腕を掴もうとしたのだが、急に後ろに引っ張られて尻餅をついてしまった。


 見上げると、ケイが鬼の形相でそこに立っていた。


「バカなのか、お前たち」


 そう言うとケイは私にも一瞥を投げてから再びジェイに向き合った。

 その間にもジェイは黒い手に覆われつつあった。


「それがお前の答えなのか」


 震える声でケイが言った。

 それに答えるかのようにジェイが泣き始めた。

 もう彼の顔はほとんど見えなかったけれど、私は見てしまった。


 ジェイの瞳に移る絶望を…。


 ケイは無言で私の腕を引いて立たせると、エルたちのいる場所まで下がった。


 そうして私たちは無言でジェイが闇に飲まれるのを見守った。


 人が闇に飲まれるところをこんなにじっくり見るのは始めてだった。

 ジェイはじわじわと、おびただしい黒い手に覆われて黒いモヤモヤの中に引きずり込まれるようにして消えて行った。


 ジェイがすっかり消えてしまうと、闇のモヤも消えた。

 残された私たちはただ茫然とその場に立っていた。


 完全にショック状態となっていた。

 だから、ユウが叫びながら走っていってしまったのに対応が遅れてしまった。


 一番早く反応したのがエルだった。

 エルはユウの名を呼びながらひまわりの中に消えて行ってしまった。


「この状況で逸れるのはまずい」


 言いながらケイは私の手を取り二人が消えて行った方へと歩き出した。


 私たちはしばらくそうやって二人を探したが、二人の気配が消えてしまって見つけることができなかった。


「や、闇に飲まれたんでしょうか…」


 私が恐る恐る言うと、ケイはそれを否定した。


「いいや、あの黒い柱が出ていない」


 私たちは二人の名を呼びながら、長い間ひまわり畑の中を探し回った。


 夜の中、この心情で歩き回るのはとても危険だった。

 さきほどのジェイの様子が生々しく脳裏に残っていた。


 二人はみつからなかった。

 私たちの呼びかけに返事をするのは、ひまわりが夜風になびくザワザワという音だけだった。


 私はひまわりの中で閉塞感を感じ始めていた。

 緊張感も限界。今にもぷっつり糸が切れそうだった。


 それを察したのか否か、ケイが足を止めて私の方を見た。


「そろそろ限界か?」


 私は頷いた。


 ケイはその後は無言で私の手を引き、もといた道へと戻って行った。

 そして、我々が目指すべき次のスポットに向かって歩き始めた。


「この状況でまだ闇に飲まれていないなら、あいつらは朝まで無事だろう。助かったなら自力で来るはずだ。俺たちも進むべきだ」


 それは、ケイが自分自身に言い聞かせているようであった。

 私は彼の手をぎゅっと握ることで返事の代わりとした。


 私たちはずっとお互いの手を握ったままで歩き続きた。

 お互いに掴まっていることで、現実に掴まっている…という感覚だった。


 しばらくそうやって歩いていると、辺りが明るくなってきた。

 夜明けだった。


 私たちは夜を克服したのだった。


 すっかり明るくなると、ケイは私の手を放した。

 もう大丈夫。


 予定より大幅に遅れているので、スポットに到着するのは昼過ぎになりそうだった。

 これから気温がぐんぐん上がっていくだろう。


 この疲労の状態で灼熱地獄はやばい。

 できれば昼になる前には到着したかった。

 だからと言ってもう走るのは無理そうだった。


 ひたすら歩くしかない。


 私はひまわりを一本折ると、茎の中に残る水分を吸い飲んだ。


 気温が上がってからは本当に辛かった。

 体力は既に限界を超え、私を動かしているのはもう気力だけだった。


 もう前に進むしかないのだ。


「見えたぞ」


 太陽を真上に、白昼夢のような中を亡霊のように歩いていた私を振り返りケイが言った。

 顔を上げると、前方にスポットが見えた。


 私は思わず安堵の溜め息を漏らしてしまった。

 それをケイは聞き逃さなかった。


「気を緩めるな、最後まで歩け」


 言いながらケイが私の手を取った。現実に戻してくれる手だった。


 私は気を引き締めて再び歩いた。


 私たちは無言で炎天下の中を歩いた。

 ひたすら前を見て。


 こうして私とケイは、限界ギリギリのところでスポットに辿りつくことができた。


 ドアを開けて中に入ると、スポットに先客はいなかった。


 空調の効いた涼しい室内がまるで天国のように感じられた。

 私はスポットに入ると床に倒れ込んでそのまま眠りそうになった。


「おい、そこで寝るな。這ってでも体を洗って来い」


 私はケイに引きずられるようにしてシャワー室へ入った。

 眠かった。足もガクガクだった。今すぐ寝たかったが、シャワーは絶対に浴びた方がいいことは解っていた。

 汗と泥と排泄物で身体中ドロドロだし、まるで焼けた石のように体が熱かった。


 清潔な衣類がちゃんと補充されていることを確認すると、私は汚れた服を脱いでゴミ箱に捨てた。

 冷たいシャワーを浴びると、生き返った気持ちだった。

 そのままシャワーの水を少し飲んだ。一気に飲んではいけないことを知っていたので、少しだけ飲んだ。

 それでも身体中に水分が行きわたり、私は潤った。


 このままずっと冷水を浴びていたかったが、ケイを待たせていることを思い出し、私はすぐにシャワーから上がった。

 部屋に戻ると、ケイは床にあぐらをかいたままの姿勢で眠っていた。


 このまま寝かせてはいけないと思って、彼を揺り起こした。

 目を開けると、ケイは無言で立ち上がりシャワー室へと消えて行った。


 私はベッドに倒れ込んで泥のような眠りに落ちて行った。


 目を覚ますと夜になっていた。

 どれくらい寝ていたかわからない。


 隣を見ると、ケイも一緒にベッドで眠っていた。

 さすがに今日は机の上では寝なかったようだ。


 彼を起こさないようにベッドから降りると、食料を確認した。

 規定どおりの食料がきちんと補充されていた。


 スポットの機能は問題なく動作しているようだ。

 少しほっとした。


 食料の状況を見ると、ケイもまだ何も食べていないようだった。

 私はエナジー系のクッキーを何枚か食べた。


 食べているとケイが起きてきた。


「夜か…」


 言いながら彼は部屋に電気を点けた。


 ケイも私と同じものを取り出して食べ始めた。

 彼と二人になってしまったと急に思って気まずい気持ちになった。


 お腹が満たされると足が痛くなってきた。


 筋肉の痛みもひどかったが、それよりも足の裏が痛かった。

 見ると大きな豆ができて潰れていた。


「それ、ひどいな。処置の方法知ってるか?」


 私は首を横に振った。

 するとケイは戸棚から救急セットを持って来た。


 彼がベッドを指さしたので私はそこに横たわった。

 ケイは手際よく私の足の豆を処置してくれた。


「俺のせいだ。俺には引き返す勇気がなかったんだ…」


 手を動かしながらケイが言った。ジェイのことを言っているのかな…と私は思った。


 ケイは「クソッ」と言って、すぐ横の壁に頭を打ち付けた。

 私は驚いて体を起こすと、ケイの肩に手を置いた。


 ケイの肩はブルブル震えていた。


「本当はわかっていたんだ。出発してから昼すぎくらいには。あそこで引き返していれば…」


 こんなにケイが感情を出して喋るのを始めて見たので私は驚いていた。

 何事にも動じないタイプだと勝手に決めつけていたのだ。


 この人は、自分のせいでジェイが闇に飲まれ、エルとユウが行方不明になったのだと思っているのだった。

 私の足の治療は終わったのに、ケイはずっと私の足に触れていた。


 どんな言葉をかけても、慰みにはならないと思った。

 私はそっと彼の髪を撫でた。そしてそのまま彼の肩を抱いた。


 拒まれるかなと思ったが、ケイは私の抱擁を受け入れてくれた。


 そしてゆっくりベッドに登ってくると私の上へ覆いかぶさった。

 いまこの人が人肌を求めるのであれば受け入れてあげようと思った。


 私は部屋の電気を消し、ケイに抱かれた。


 彼は意外と優しかったし、甘えん坊だった。


 そこに愛はないのかもしれないけれど、お互いに必要な行為なのだと私は自分に言い聞かせた。


 目を覚ますと朝になっていた。

 ケイはもう起きていて窓の外を見ていた。


 私が起きたのを確認すると、意外なことを言った。


「エルとユウが来たぞ。服着ろ」


 私は飛び起きると窓の外を確認し、慌てて服を着た。


 まるでいつもと変わらないケイに私は少し戸惑いを覚えた。

 昨晩のことは夢だったのかと思えるほどに彼はいつもどおりだった。


 私には昨夜の余熱がまだ残っているというのに。

 少しは馴れ馴れしくしてくれもいいのではないか…と私は思った。


 何もなかったかのように振る舞われて私は少し傷ついていた。

 男ってそんなものだろうか。


 私たちがスポットにいるのを確認すると、エルとユウは歓声を上げて走って来た。


 私も彼らに向かって走った。


 足の早いエルが先に来て私に飛びついた。

 私は思いきり彼女を抱きしめた。


 続いてユウも飛んできて私とエルを抱きしめた。


 三人で連れ立ってスポットに戻ると、ケイが玄関に立っていた。

 無表情だった。


 何を考えてるのか解らないケイがそこにいた。


「何が起きた?」


 ケイが二人に訊ねた。

 ケイはエルとユウに対してもこれまでどおりの態度だった。

 再会できた奇跡を喜んでいる素振りはまるでない。


 当たり前のように話をしている。


 この人、何なの? 感情がないの?


 私はケイに対して苛立ちの気持ちを覚えていた。


 そんな私の様子にはお構いなしに話は続いていた。


 エルとユウは興奮した様子で自分たちに起こったことを話してくれた。


「あの穴だよ、ケイ」


 ジェイが闇に飲まれてしまった後、錯乱したユウが走って行った先に、あの穴があった。

 得体の知れない真っ黒い物質がグネグネ動いているあの穴だ。


 あろうことはユウはそこに落っこちてしまったそうだ。

 それを見ていたエルも咄嗟にその穴に入ってしまった。


 そして気が付いたら、もといたスポットの近くの穴から出ていた…ということだった。


「いや、まじで、最初何が起きたのかわからなかったんだけど、出た先のひまわりが編まれていて見覚えがあったから…自分たちがどこに出たのかわかったんだよね」


「そうそう、それで、もといたスポットに戻って安心してあたしたち寝ちゃって、起きたら夜だったから日が昇るのを待ってまた穴に入ってみたってわけ」


 私とケイは少しあきれ顔でその話を聞いていた。


「穴に入って今度は全然別の場所に出たらどうするつもりだったんだ?」


 それを聞いて二人は今更ゾッとしたようだった。

 まあ、結果オーライというところか…。


「僕たちが出てきた穴の周りのひまわりも編んでおいたから次出たらどこかわかるはず」


 私は穴に入るのは嫌だな…と思った。


「ところで、こっからどうする? ジェイがいないと何もわからないし」


 全員がジェイの闇に飲まれる瞬間を思い出していた。

 暗い雰囲気をやぶったのはエルだった。


「ねえ、ねえ、あれ何?」


 エルが壁の上の方を指さした。

 そこには唐突に棚があり、一冊の本が表紙をこちらに向けて置いてあった。


「あんなの今まであった?」


「ないな」


 ケイが机の上に乗って本を取った。


 古そうな本だった。

 表紙に書いてある文字は読めなかった。


 ケイは手にとった本を見下ろし、そしてみんなを見た。


「開いてみて」


 エルが言った。

 ケイはみんなに見えるようにゆっくり本を開いた。


 本を開くと眩い閃光がほとばしり私たちは気を失った。


・・・


 気が付くと、私は学校の教室のようなところにいた。

 学校などに通った記憶はなかったが、私はここが学校の教室だと何故だかわかった。


 まわりを見ると、みんなも意識を取り戻したところだった。


「やば…なにこの本」


 エルが言った。


「遊びで開くもんじゃなかったね」


 ジェイが床に落ちている本を拾いながら言った。


 …ジェイ?!


「だから嫌だっていったんだよ僕は」


 ぶつくさ言っているユウ。


 私はしばらく状況が把握できなかった。


 …ここはどこ?


 学校の教室…。


 遠くでジョワジョワジョワという奇妙な音がしていた。

 前にも聞いたような音だったかが何の音なのか思い出せなかった。


 それより、何をどうしていたのだっけ?


 掃除当番で残っていた面々で、見慣れない本を見つけて開いたら…奇妙な夢を見て、そして…。


 正面を見るとケイがあぐらをかいて鬼の形相でジェイを見ていた。


 それで私は思い出した。


 違う。夢じゃない。どちらかというと、こちらが非現実だ。

 ケイの顔を見ていると段々と自分を取り戻したような気持ちになってきた。


 私に見られているのに気が付くと、ケイは立ち上がり手招きをしてみんなと離れたところに私を呼んだ。


「おまえ、今どういう状況だ?」


「混乱しています」


「俺もだ。あのジェイは本物か?」


 私は、当たり前のようにそこにいるジェイを横目で観察した。

 ニコニコと屈託のない笑顔を見せているジェイ。あんなことがなければジェイそのものに見えただろう。

 だけれども、私はジェイの絶望の眼差しを見てしまったのだ。


「本物…じゃないと思います」


 それを聞くとケイは頷いた。


 教室を見渡すと、私たちの反対側にも何人か人がいた。

 ちょうど向こうも私たちに気がつき、こちらにやってきた。


「これはすごい。他にもいましたね」


 その中の一人が言った。

 ケイが警戒して私の前に立った。


「誰だ?」


「ボクはJ-850、ジェイとお呼びください」


 それを聞いて私とケイはギョッとした。ナンバー違い。まあよくあることだが、よりによってジェイとは。

 そのジェイが私たちのジェイを見て、何かに気が付いたようだった。


「君たち変わったの連れていますね。あれは?」


「あれはうちのジェイだ。J-525」


 それを聞いて、新手のジェイは何か納得したようだった。

 うちのジェイの方へと近づくとそっと本を取り上げてこう言った。


「これは貸出禁止の本ですよ」


「ああ、ごめん知らなくて」


 ヘラヘラ笑いながらうちのジェイが言った。

 気味が悪かった。


 もう一人のジェイは、取り上げた本と自分が持っていた本を二つ並べて教室の後ろの棚に置いた。

 二つとも似たような古い本で表紙や背表紙に書いてある文字は読めなかった。


「この本、何なんですか?」


 私が向こうのジェイに尋ねると、彼は「実はボクも知りません。何となくもう開いちゃいけない気がして」と言った。


「ところで、君たちの方のあのジェイ…闇に飲まれたんですね?」


 ジェイがジェイを観察しながら言った。


「なぜわかる?」


 ケイがますます警戒したような声で言った。


「うちら Jナンバーはちょっと特殊でしてね。いろいろ解ってしまう体質なんです。あれは残像ですね。本体はもうない。そっちのジェイも変な能力持ってませんでした?」


 私たちが思い当たることがありすぎな表情をすると、向こうのジェイは全てを理解したように頷いた。


「彼に会えなかったこと無念です」


「何かややこしいな、お前のことジェイ・ツーって呼んでいい?」


 相変わらずな調子でケイが言った。

 向こうからすればこちらがジェイ・ツーなのかもしれないが、それでもジェイは快く承諾してくれた。


 私も彼のことはジェイ・ツーと呼ぶことにした。


 彼らの話しを聞いていると、私の袖をひっぱる者がいた。

 見ると小柄な男子が私の袖を引いているのだった。


「つらいの? かなしいの?」


 その人物は言った。喋り方からして知的障がいがある様子だった。


「ん? 私? 大丈夫ですよ」


 そんなにひどい顔をしていただろうか。心配させてしまったようだ。

 私は彼を不安にさせないように無理矢理笑顔を作って返事をした。


「むりしない。むりしない」


 彼はまるで幼い子供あやすように言いながら私を抱きしめてくれた。

 びっくりして思わずケイの方を見てしまった。


 ケイは真顔でこの光景を見ていた。

 何を考えているのかはまるでわからなかった。


 私はなぜだか急に胸がいっぱいになって泣いてしまった。


「よしよし、泣かないで」


 子供みたいに泣きじゃくる私を彼は優しく慰めてくれた。


「わあ、ごめんなさい。この子はD-86、ディと呼ばれています」


 横からひょこっと顔を出したのは、とっても美人な女性だった。

 彼女は私に抱きついているディの手を優しく取って引き戻してくれた。


 まあ、もう少し彼にだっこされててもいい気持ちではあったのだが。


「申し遅れました。わたくしはC-763、シイでございます」


 シイが深々と頭を下げたので私もあわてて頭を下げた。


「この三人、これが俺たちの仲間でござーい」


 ジェイ・ツーがまるで座長のような雰囲気で言った。


 私はどうリアクションしていいのか解らず、あははと作り笑いをした。

 ケイは無言でそれを見ているだけだった。


 そんな座長の挨拶を無視するようにディがタタタとケイの方へと小走りに近寄った。

 そして言った。


「きみも大丈夫?」


 ケイはびっくりして、「え?」と言ったが次の瞬間にはディに抱きしめられていた。


「いや、俺は大丈夫だ」


 ケイは真顔で言っていたが、まんざらでもない雰囲気だった。

 ケイはディの背中に腕を回すと、ポンポンと軽く叩いて「サンキューな」と小さい声で言っていた。


「あれ何してるの?」


 いつのまにかエルが近くに来てこの光景を眺めていた。


「ディさんに癒され中です」


 と私が答えると、「私も癒されたい!」とエルが言った。


 ディはエルの方を見ると、「君は大丈夫!」と言って親指を立てて見せた。


 それを見て私は思わず笑ってしまった。


「ところで、君たち気が付いてるかわかりませんが、ここには一種の記憶操作みたいなことが働いています」


 ジェイ・ツーが言った。

 確かにそのとおりだ。だけれどもそれは自力で解除できた。

 エルの様子を見ると彼女も戻ってきているようだ。


 どういうことだろうか。


「ボクもそこまで詳しくわからないのですが、闇への抵抗力が強いほどここの暗示にはかかりにくいみたですね。何か選定してるような。念には念いを入れて、ねちっこさを感じます。ここに辿りつくまでに君たちも恐らく夜を克服しないといけなかったのでは?」


 確かにそうかもしれない。ジェイ・ツーの発言は核心をついている気がした。


「ちなみに、君のところのあの彼はまだ解けてないみたいですよ」


 ジェイ・ツーが指さす先を見ると、ユウが偽物のジェイと親し気に会話をしてるところだった。


「わぁ、確かにユウは夜を克服できたのか微妙…」


 言いながらエルはユウの方へと向かって行った。

 そして、彼に何か言うと、ユウはハッとした表情になりエルと一緒にこちらへやってきた。


 エルがユウに何を言ったのかは聞かない方がよさそうだった。

 ひとり残された偽物のジェイはニコニコしながらこちらを見ていたが、会話に入る気はない様子だった。

 それでますます私はあれがジェイではないと思い知るのであった。


「それで? これからどうしたらいいの?」


 エルが能天気な感じで質問した。


「そうですね…見てのとおり、この部屋にはボクたち以外の人間はいません。で、部屋の出入口はあかない」


 私はそれの意味することを考えた。教室に閉じ込められている?

 なぜ教室?


「えーここから出れないの? お腹すいたんだけど…」


 エルが言った。


「それどころかおトイレもないんですのよ」


 シイがソワソワしながら言った。


「ここに辿りついたってことは、ボクたちはゲームで結果を出したってことだよね。そのうち招集かかるんじゃないかな」


 ジェイ・ツーがだいぶ冷静な判断で物事を進めていくタイプらしく、私は頼もしく思った。

 ひとまず私たちはひたすら次のアクションが起こるまで待つことにした。


 私はやることがないので、窓の外を眺めた。

 窓の外は見たこともないような景色だった。


 ここは建物のわりと高いところにあるようで、視界の下にいくつか木が生えていた。

 その向こうは、ずっと続いている草原だった。


 ひまわり以外の植物を見たのが久しぶりすぎて、私はこの風景に魅入ってしまった。

 ジャワジャワジャワと変な音が外からしていた。

 何の音なのかとても気になった。


「蝉の声ですよ」


 ジェイ・ツーだった。私の心を読んだかのような会話の始まりだった。


「蝉?」


「そうです。もう絶滅した昆虫なんですけどね。ああやってうるさく鳴いて、かつては夏の象徴だったみたいですよ」


 何故この人はそんなことを知っているのだろう…と私は少し恐ろしく思った。


「ボクね、あなたと少し話したかったんですよ。ちょっといいです?」


 私は頷いた。


「あなた、すごく特殊ですよね。ボクたち Jナンバーよりもっと特殊だ。自分で気が付いてます?」


 私は首を横に振った。

 ジェイ・ツーは構わず続けた。


「これはあくまでも噂ですけどね。特別枠としてナンバーレスってのが存在するらしいんですよ」


「聞いたことないです」


「そうでしょうね。何でも、ナンバーレスはこのゲームの主催で、ルールを自由に操作できるって話しです。今回、おかしかったですよね。聞いてた話とだいぶ違ってた。それってナンバーレスが関わってるんでしょうかね…」


「私は何も知りません…よ…」


「わかってますって。でも、あなたは一体何者です? あなたは誰なんです? そちらのジェイは解っててあなたを招き入れたんでしょうかね?」


 私はとてつもなく怖くなった。私は誰? 実は私もよくわかっていないのだった。


「うちの者になんか用か?」


 ここでケイが割り込んで来た。

 ジェイ・ツーは慌てたふりをした。本当は全く慌ててもいないはずだった。


「あ、これは、すみません。別に、世間話してただけですよ。あれ、もしかてお二人は恋人どうしでしたか?」


 私はハッとしてケイの方を見たが、ケイは何も言わすに得意の鬼の形相でジェイ・ツーを見ているだけだった。


 ジェイ・ツーはあははと笑って誤魔化しながら行ってしまった。

 残された私とケイの間には気まずい沈黙が流れた。


「何を言われてたんだ?」


 ケイは本気で気にしているようだった。


「お前は誰なのか…と問われていました」


 私は正直に言った。

 ケイはしばらく黙っていた。そして言った。


「それは俺もずっと聞こうと思っていたことだ」


 私はショックを受けてケイを見返した。


「お前は誰なんだ。ずっと一緒にここまで来たけど俺はお前のナンバーを知らない。いや、誰もお前のナンバーを知らない。いつも一番後ろから俺たちを観察して同調し、流れに身を任せてゆらゆら漂っているような奴だ。それでいて、ジェイが飲まれる時みたいに突発的な行動もする。弱そうに見えるのに、飄々と最後まで辿りついた」


「そんな…私は…」


「俺はずっとお前の本心がわからない。どうしたいんだ。何がしたいんだ。なぜここにいる? 昨夜、少しはお前の心が見えると思った。けれど、俺に抱かれている間もお前は心を閉ざしていた。俺は…なんだかむなしい気持ちになった」


 何を考えているのか解らないのはそっちじゃないか…と私は思った。

 ケイが私のことをそんなふうに思っていたとは夢にも思わなかった。


 私はこの場から今すぐ抜け出したくなった。

 みんなに溶け込めるように最大の努力を続けてきたのに、この仕打ちはなんだ…と怒りにも似た気持ちになった。


 むなしい気持ちになったのは私の方なのに。


 拒絶する気持ちが最大になった時、カチッと音がして視界がモノクロになった。

 目の前のケイは時が止まったように動かなくなった。


 いや、実際に時が止まったようだ。

 見渡すと、この部屋にいる者たちの動きが全て止まっていた。


≪リリスお嬢さま。お時間です。一度お戻りください≫


 耳元で声がした。それは脳内に直接聞こえて来る声だった。


 目の前に突然ドアが出現した。

 私と向き合っているケイとの間に急に出た、という感じだ。


 私はドアノブを握ると扉をあけて中に入った。


 それと同時にフィルターが外れて、私は全てを思い出した。


 私にはやることが山ほどあった。


 長い廊下を歩いて進むと、再び扉が現われた。

 そこを入ると、私の仕事場に出る。正確には私たち・・・の…だ。


 私が部屋に入ると、別の出入口からモイラが入って来た。

 私の妹だ。


「リリス姉さま。お戻りですか。どうでしたか?」


「どうもこうもないわ」


 私は自分の席に座りながらタブレットを手に取ると言った。


「と、言いますと?」


「しらばっくれないで。今回の大幅な仕様変更はあなたの仕業でしょう、モイラ?」


「ばれました?」


 モイラは可愛らしい笑みを浮かべながら自分の席にすわり言った。

 まったくこの子は…。


「ばれました?…じゃないのよ。どれほど貴重な人材が闇に飲まれたと思っているの? 命は使い捨てじゃないのよ」


 私は怒っていた。


「あなたはフィールドに出ないから知らないだろうけど、想像以上に過酷な環境なのよ。それをまる一日以上歩かせるなんて」


「リリス姉さまは変態なのよ。わざわざフィールドに出ることないのに。上からの圧力が強まっているのを知っているでしょう?」


 私はタブレットに表示されたリストをざっと眺めた。

 それは今回の生存者リストだった。351人。少ない。前代未聞の少なさだ。


 エルやユウ、ケイの情報もそこにあった。


 私はジェイの情報を見に行った。

 今回参加したJナンバーは全部で927人。そのうちクリアしたのはたったの5人。


「全 Jナンバーの行動を解析してその傾向を教えて」


 私は専属AIに指令を出した。ほどなくして結果が出た。


≪リリスお嬢さま、解析の結果、ほとんどの Jナンバーは他人への過度なサポートによる精神疲労によって自滅しています≫


 …なるど。我々のジェイもその口だ。


 それにしても Jナンバーのあの能力は何だ?

 ジェイたちは恐らくみんな自分の能力に気が付いて多用していたはずだ。

 だけれども、ゲームのログにはその痕跡を残していなかった。


 あの奇妙なスキルを付与したのはモイラではないはずだ。彼女にそんな突飛な発想があるとは思えない。


 私はモイラの方をチラリと見た。彼女は自分の仕事に夢中な様子だ。

 規則や規定に忠実なクソ真面目な私の妹。


 私は立ち上がると、壁のブラインドを開けた。

 そこには大きな窓があり、外の風景が一望できた。


 私たちは、代々ここで成人に達した人間の厳選を行ってきた。

 レイノルズ一族と言えば今や世界中の人が知る名だ。


 リリス・レイノルズ。それが私の名だった。


 我々が所有するどこまでも続くひまわり畑。

 昼間の太陽に照らされてギラギラと光り輝いている。


 ガラス戸のこちら側にいると、あそこはまるで別世界のように感じられた。

 だから私は時々こうして実際にフィールドに出て現場を体験している。


 現場主義なのだ。


 最初はこのままの自分で出ていたのだが、いろいろ支障があり、今では記憶や人格に調整を入れた状態で挑んでいる。

 なるべく本当にこのゲームに参加している者の視点で私は見たいのだ。


「リリス姉さま、あまり情を持つとお仕事に差し障りますよ」


「わかっているわ。そろそろあっちに戻るわ。最終選考の時間よ」


 私は席を立つと再びあの教室へと続く扉をあけてみんなの元へと戻った。

 教室は私が出た時と同様、モノクロの世界で時が止まったままになっていた。


 私が戻ると世界は再び動き出した。

 今度は私のままで。ここから先はこのゲームの責任者 リリスとして生き残った人材を精査するのが私のお仕事。


 ケイが私に酷いことを言って私の答えを待っているところだった。

 私はこの男に情を持ってしまっていた。


 協調性がないように思えて実は全体がよく見えている。感も鋭く、そして何より優しい。

 実際にフィールドに出て彼と共に過ごす時間がなかったら、私はきっと彼の良さに気が付けずに、データ上の能力や性格だけで不適切としてしまっただろう。


 私はこの男にかける言葉を探していた。

 そして言った。


「あまり人のことを詮索しすぎては良いことはありませんよ」


 私はできるだけ棘のないように言ったつもりだった。

 それでもケイは面食らったような顔をしていた。


 そりゃそうよね。ゲームに参加していた私はこんな人間ではなかったのだから。


 ここで、壁に取り付けられたスピーカーからアナウンスが流れた。


≪参加者のみなさま、おめでとうございます。現在、各教室に待機中のみなさんはゲーム達成者です。祝賀会の準備ができましたので、各教室を出て講堂にお集まりください≫


 教室にいた面々は顔を見合わせて、ゾロゾロと部屋の出口へ向かった。


 立ち尽くしているケイと私の元へ、エルとユウがやってきて「行こうよ」と声をかけた。

 私はエルの手を取り、教室を後にした。


 ちらりと後ろを見ると、眉間にシワを寄せて怖い顔をしたケイが腕組みをしながら歩いて来ているのが見えた。


 ここの施設は昔の学校を模して作られていた。

 完全なるモイラの趣味だ。彼女は規則を重んじる精神に憧れを持っている。

 学校はそんな彼女の目指す世界の象徴なのである。


 各教室に分散していたゲーム達成者たちがゾロゾロと廊下に出て来て合流し、私たちは講堂へと向かった。

 廊下には親切に道案内の札が下がっていた。


「こんなにクリアした人がいたとは驚きね」


 エルがぼそっと言った。

 フィールドで私たちはずっと孤独だったので当然の感想だろう。

 だけれどもね、エル。フィールドはあなたが想像するよりずっと巨大なのよ。


 講堂に到着すると祝賀会の準備はすっかり整えられていた。

 色とりどりのご馳走が並び、達成者たちは歓喜の声を上げた。


≪テーブルはご自由に≫


 スピーカーの声が言った。

 達成者たちはバラバラと各テーブルに散らばった。


 いくつか既に人間関係が完成されているグループが見受けられた。

 私たちのチームや、ジェイ・ツーのところみたいに、協力し合いながらここまできたグループだろう。

 ざっと見て、10チーム以上はありそうだった。


 今回は特に単独でクリアするのは難しい設定になっていたと思う。

 それでもやはり単独でここまで来ている者も多く、個人の能力の高さを覗い知れた。


≪あなたたちはこれから立派な社会人です。大変な道程でしたね。どうぞ今はお互いをねぎらい存分に交流してください≫


 この祝賀会では代表スピーチなどの堅苦しいプログラムはない。とにかく飲み食いする。それだけである。

 何しろ、この会は私のためにあるのだから。


 私はこの祝賀会で、気になるナンバーに話しかけ真意を確かめる作業を行う。

 ゲームの結果などの情報データだけでは推し量れない 人の目による “人となりの判別” が私たちの売りであり、最大の特徴であった。


 私はAIが予めはじき出していた要注意人物を中心に声をかけてまわった。


 優秀なスコアを出している者ほど、実は有害となり得る人格の持ち主だったりもする。

 話し方の感じ、フィールドでの言動、遺伝子の特性などなど、様々な角度から人間を考察する。


 この会の間、私の網膜モニターが有効にされるので、会話をしながら私はその相手のデータを全て閲覧できる。


「おやぁ? 随分と積極的に交流するんですね。さっきまでそんなタイプには見えませんでしたけど」


 ジェイ・ツーがニヤニヤしながら近づいてきた。

 しつこいやつだ。


「せっかくの機会ですからね。あなたも余計なことをしていると、結果に影響しますよ」


 私はジェイ・ツーに向かってにっこり微笑んで見せた。

 ジェイ・ツーはごくりと生唾を飲んで退散して行った。

 私がさっきまでの私と変化していることに気が付いたのかもしれない。


 でも、もう遅い。私は達成者となった Jナンバーを全員落とそうと思っていた。

 彼らは何かしら改ざんされた可能性がある。

 どんなに優秀でも、いい人でも、私は彼らを選抜する気はなかった。


 ふと見ると、壁際にケイが一人で立ってこちらを見ているのに気が付いた。

 彼の合格は私の中では既に決定しているため、彼と会話することは時間の無駄であるが、私は声を掛けずにおれなかった。


「そんなところで何をしているんです?」


「お前を観察している」


「それは照れますね」


 私が冗談を言うと、ケイは悲しそうな顔になった。

 それを見て私はケイが愛おしくてたまらなくなった。


 彼には私のことを教えてあげようかと思った。

 実のところ、この段階で私の正体をバラしてはならないという規定は特になかった。

 どっちにしろ知ることになるのだし、それを早く知ったところで結果には何の影響も及ぼさないからだ。


 私はケイに近寄ると、耳元で彼にだけ聞こえる声で囁いた。


「あなたにだけ特別、いま教えてあげましょう。私はナンバーレス」


 ケイの息を飲む音が聞こえた。


「私の名はリリス・レイノルズ。このゲームの最高責任者です」


 ケイは体を離すと私の顔をまじまじと見た。

 私はにっこりと微笑んでみせた。


 反対にケイはショックを受けた顔をしていた。

 騙されていた…そういう表情だった。


 誤解があれば解いておきたい…と私は思った。


「フィールド内で私は記憶にフィルターをかけていました。つまり何も知らない状態で参加していたのです」


「何のためにこんなことをしているんだ?」


「選別の制度を上げるためです」


「ここでも選別をしているのか?」


「それはお答えできません」


「じゃあ、全員を通過させろ。闇に飲まれたやつも全部だ」


 答えられないと言ったのにケイはいろいろ察したようだ。

 感のよい人だ。


 私はただ微笑みを返した。


「クソッ、できないのかよ」


「よりよい社会を築くことに必要なことですよ」


「ああ、そうかよ。じゃあ、世の中はどうなってる。よくなっているか?」


 …私は考えた。私はここから外に出たことがないので、知らなかった。

 しかし、上からの圧が日に日に強くなっていくことを私も肌で感じていた。


「私もよく知りませんが、よくはなっていないでしょう」


「じゃあ、こんなこと、もうやめろ。お前は人を見る目がない」


 ケイは私の腕を強くにぎると、突き放すような動作をして、向こうへ行ってしまった。


 私は絶対的に自信のあった自分の能力を否定されて何も言い返せなかった。

 しかもケイに言われたのだ。ケイには言われたくなかった。


 私は急いでトイレに駆け込むと独りで泣いた。

 こんなに感情を揺さぶられるのは初めてだった。


 気持ちが少し落ち着くと私は個室から出てAIに命じた。


「戻るわ。ドアを出して」


 視界がモノクロになり目の前にドアが出現した。

 私はそのドアを潜り、自分の仕事場へと戻った。


 仕事場ではモイラが待っていた。


「随分早かったですね。…リリス姉さま! どうしたんですか? その顔」


 私は自分の顔を確認しないで来てしまったのでどういう顔になっているのかわからなかったが、酷い顔になっていることは自覚していた。


「何でもないわ」


 私はなるべくモイラの方を見ないようにしながら席に着くとタブレットを起動させた。


 これまで全く興味のなかった世界情勢を伝える記事をいくつか読んでみた。

 そこには絶望しかなかった。


 人類の世界は滅びの一途だ。


 こんな世界に私はいったい何人の人を送り出して来たのだろうかと思うと吐き気がしてきた。


 達成者たちのリストを見てもその内容がひとつも頭に入って来なかった。

 何が良くて何がダメなのか、私にはもうわからなくなってしまっていた。


 誰のことも選別できない、私には。向いてないんだもの…。


 …いいえ違う。そもそもこんなことを他人が決めてること自体ナンセンスなんだわ。


 全てがどうでもよく思えた。


 天井のライトに照らされて自分の下にくっきりと影ができていた。

 その影を見ていたら、影が語りかけてきた。


「動揺しているな。深呼吸だ」


 私は影の言うことに従い深呼吸をした。いくぶん心情はマシになったような気がした。


「これからやるべきことと、やりたくないことがぶつかり合ってショートしている」


 影が語りかけてくる。

 当たり前のようにそこにいる影に、私は少々苛立ちを感じた。


「あなたは何なの?」


 思わず声に出して言っていた。

 モイラが怪訝な顔をしてこちらを見た。


 慌てて私は彼女に何でもないことを仕草で示した。そして試しに心の中で影に話しかけてみた。


(私はあなたの存在を知りませんでしたけど、何なんです?)


「私はお前の影だ」


(それは前に聞きました。で、これは私の妄想? それとも外的なもの?)


「それは私は知らない」


(ジェイのものと何か関係ありますか?)


「それも知らない」


 私は影の受け答えを観察して、何かAIの一種かもと思った。

 だけれどもその正体を追跡する方法が私にはわからなかった。


(まあ、あなたが何なのかはさておき、私は今回のことで動揺しています。どうしたらいいでしょう)


「気持ちに従うんだ。これまでの当たり前に違和感があれば、自分の心に忠実であれ」


 影はそう言い残すと消えてしまった。


 私は考えた。そして答えを出した。

 冷静な判断ではないかもしれない。


 だけれども、これが私の答えなのだった。


 時間になると、私とモイラは正装し講堂へと向かった。


 モイラは何も聞いてこなかった。


 講堂では祝賀会を終えた達成者たちが少し打ち解けた様子で雑談をしているところだった。

 私がステージに上がり中央のマイクのところまで歩いて行くと、会場はシンと静まり返った。


 全員が私に注目していた。

 私はマイクに向かって話を始めた。


「達成者のみなさん。おつかれさまでした。私はこのゲームの最高責任者 リリス・レイノルズです」


 言いながら私はケイの姿を探した。

 ケイは右側の奥の方にいて、私を真っ直ぐ睨みつけていた。


「これから、あなたたちは社会に出て行きます」


 私の声はだんだん小さくなって、唇がブルブル震えた。

 短いフレーズを喋るのにも、空気が足りない気がした。


 会場を見渡すと、エルとユウが見えた。

 彼らはびっくりした顔で私を見ていた。その様子から、二人がケイからは何も知らされていないことが覗えた。


 そのすぐ近くにジェイ・ツーたちもいた。ジェイ・ツーは仲間のディーやシイに何かを囁いていた。


 ディーはジェイ・ツーの話は聞いてないようで、こちらに向かって手を振っていた。

 それを見て私は少し心が軽くなった。


 気を取り直して私は話しを続けた。


「私はここで、最終選考に残ったナンバーをお知らせしなければなりません」


 これを聞くと会場にどよめきが走った。


 私の足元からにゅぅ~と影が伸びてきた。私に “行け” と言っていた。


「その前に、私はひとつ言いたいことがあります」


 言いながら私はステージ横で待機しているモイラの方を見た。

 モイラは真顔でこちらを見ていた。


 私は彼女に向かって言った。


「モイラ、あなたにも聞いて欲しいことです。出て来てくれますか?」


 モイラは無表情のまま、ゆっくり歩いてステージ横から出てきた。

 そして私の横に立った。


「私の妹のモイラ・レイノルズです」


 モイラは深々と頭を下げた。


 私は前を向きなおしてみんなを見た。

 そして思い切り息を吸い込み、そして言った。


「私は選ぶのをやめることにしましたっ!」


 その場にいる全員がきょとんとした顔をしていた。

 彼らにはそれが何を意味するのかいまいちピンと来ていないのだ。


 私はモイラの方を見た。

 モイラはやれやれ…という表情をしていた。

 そこに驚きの色はなかった。


 彼女はわかっていたのかもしれない。私がいずれこうなると。


 私はみんなに解るようにもっと説明しなければと思った。


「私たち一族は、長年に渡り、人材の選別を行い、よりよい社会に貢献してまいりました。いいえ、貢献していると思い込んでおりました。ですが、みなさん。現実の社会がどうなっているか知っていますか? これからあなたたちが出ていく世界の話しです。私たちが、これまでのノウハウを駆使して厳選した人材が行っていること…それは殺戮です。戦争ばっかり。人類は戦争ばっかりしてるんですよ。あなたたちがこれから出ていく先は戦場です」


 私はここで話を聞いている者たちを見渡した。

 不安な顔が並んでいいた。


「もうやめです。このままでは人類は衰退の一歩です。誰が合格かって? バカバカしい。全員不合格です。私は金輪際、戦場の兵士として人材を送り出すことをやめます。」


 私は言いながら右手を高く上げた。

 それはここにいる全員が知っている誓いのポーズだった。


「ここで不合格となった者は労働者の街に配属されます。そこから考えましょう。とにかく、生きるのです!」


 私の声が会場に響き渡った。


 みんな黙っていた。


 私はもう一度ケイを探した。

 彼は私の真下に移動していた。


「みんな、一緒に行きましょう。精神の弱い人も、頭のよい人も、先天的な疾患のある人も、陽気な人も根暗の人も、持病のある人も、身体能力の高い人も、犯罪者予備軍も、社会不適合者も、とにかく全員で社会に出るのです。それでどうなるかは知りません。カオスですよ。世界をカオスに戻しましょう」


 拍手が起こった。見るとエルとユウが最前列で全力で手を叩いていた。

 やがて拍手は全体に派生した。


「ありがとう…じゃあ、最後にもう一つ、よろしいでしょうか」


 再び会場が静寂に包まれた。私は勇気を出して言った。


「ケイ! 私もそちらへ参ります!」


 言いながら私は走った。そしてステージからケイの方へとめがけて大きくジャンプした。


 ケイは慌てた顔をしながら必死になって私を受け止めてくれた。

 私はケイの腕の中にいた。


「おまえ、バカか?」


 ケイが言った。だがその顔は優しかった。


「リリスばんざーい!」


 言いながらエルとユウが駆け寄って来た。

 私は二人にも飛びついて抱きしめた。


 まわりの面々は若干引きながらこの光景を見ていた。


 冷やかすような歓声と拍手がバラバラと聞こえていた。


・・・


 やがて私とモイラの施設は解体された。


 人材選抜の最大手である私たちがこのような決断を下したことは世界に大きな影響を及ぼした。

 その後は多種多様な人材が選別を受けずに社会に出ていく時代となった。


 それでも相変わらず戦争は続いていた。

 人類は戦争を止められないのだ。


 世界は以前とさほど変わりないけれど、私は友を作り、愛し合うことも知った。


 これでよかったのだろう。きっと。


 私は時々もうこの世にはいないジェイに向かって話しかけている。


 “みんな一緒に脱出できたよ” と。


(おしまい)


---------------


この物語はnoteで開催された俳句・短歌に応募されたいくつかの作品を組み合わせて物語を作る…という企画で書いたものです。

よかったらあとがきもお読みください。


https://note.com/chiyo_bb/n/n006215c2b9e8

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ひまわり畑を歩く者 大橋 知誉 @chiyo_bb

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