第6話


 椎に言われてしばらくぼんやりしていた一花だったが、次第につまらなくなってきた。とはいえ、このまま帰るのもなんだか違う。

 一花はこっそりと厨房を覗いた。

 パティシエ服を着た椎は、なにやら難しい顔をしてケーキを作っていた。新しい商品の試作をしているようだ。

 一花はそっとそばに寄った。

「……ねぇ椎ちゃん。ここにいていい?」

 椎がちらりと一花を見る。

 すぐに手元に視線を戻し、

「いいけど、じっとしてろよ」

「分かってるよ」

 厨房の中はしんとしていて、こちこちという時計の音だけが響いていた。

 一花は作業台に手を乗せ、作業する椎の横顔をそっと盗み見る。

 その横顔は、相変わらず息を呑むほど美しい。

 彫刻のように整ったその顔に、一花はかつて憧れていた。

 小さい頃の話だ。当時一花は、大きくなったら椎ちゃんのお嫁さんになる、とまで宣言していた。

 椎は笑って聞いていたけれど、きっと呆れていただろう。

 なにしろ、椎はモテた。

 この整った容姿で面倒見がいいのだから、当たり前と言えば当たり前だ。


 一花はこの初恋がいつ失恋したのか、詳しくは覚えていない。

 だがたぶん、中学生のときだと思う。

 椎が初めて彼女といるところを見たときだ。

 椎には、これまでにも彼女が何人かいたことは知っていた。けれど、知らない女の子と直接笑い合う姿を見たときの衝撃は、幼い一花にとってかなり大きかった。

 それからしばらく、椎とは口を聞かなかった。店にも行かなくなった。


 ふと、疑問が沸き上がる。

「……あれ」

 そういえば、あのあとどうやって仲直りをしたのだろう。

 しかしいくら記憶を辿っても、そのきっかけは思い出せなかった。


「どうぞ」

 目の前に淡いブルーとクリーム色の鮮やかなスイーツが流れてきた。

「……え」

「今月、近所の幼稚園で秋祭りをやるんだが」

「幼稚園?」

「園児たちに振る舞うスイーツを考えてくれって頼まれてるんだ」

「ふぅん……」

 一花は腕を組み、微睡みながら椎の手さばきを見つめた。

 椎の手は、まるで魔法使いの手のようだ。くるくるとしなやかに美しい宝石のようなケーキが出来上がっていく。

「……味見するか?」

「いいの?」

 椎は、完成したケーキをそっと一花の前に差し出した。

 スクエア型をしたふわふわの淡いクリーム色のスポンジケーキの間には、たっぷりとイチゴジャムが詰まっている。スポンジの上には深い藍色のナパージュと、その上に星を象った金粉が散らされている。

「きれい!」

 あまりにも完成されたスイーツを前に、一花はぱっと華やかな声を上げた。

「味の感想もお願い」

 ぱくり、とひとくち頬張る。

「美味しい! スポンジはしっとりとしてるし、このナパージュ、見た目もすごいさっぱりしててスポンジとすごく相性いいよ」

 しかし、椎はうーん、と腕を組んだ。

「……椎ちゃん?」

「なんか足りない気がするんだよな。味はいいんだけど」

 一花はケーキを見下ろした。

「……たしかに、これだとちょっと夏っぽいかも」

「やっぱり?」

「秋祭りスイーツなんだよね……」

「栗とかかぼちゃを入れるかも考えたんだけど、それだとありきたりだし」

「……味はすごく美味しいんだけどな」

 なにが足りないのだろう。一花は考える。

「……あ」

 ハッとした。

「これ、イチゴジャムをリンゴジャムにしたらどう?果肉入りの」

「リンゴか……」

「あと、秋といえばお月見だよね?」

「そうだな」

「このナパージュの中に月を落としたらどうだろう?」

「あぁ、なるほど」

 椎は嬉しそうにスイーツを見下ろした。

「レシピ、考え直すか……」

 それから一時間、椎は新作ケーキのレシピに頭を悩ませていた。気が付けば、日付が変わろうとしていた。

「……もうこんな時間か。付き合わせて悪かった。そろそろ帰ろう、一花。家まで送る」

 椎がハッとしたように顔を上げる。

「あ、いいよ。ひとりで帰るから、私のことは気にしないで」

 一花が言うと、椎は鼻先でぴしゃりと扉を閉じるように返した。

「ダメだ。今何時だと思ってるんだ」

 一花は眉を寄せる。

「べつに、私はもう子供じゃないんだから……」

「もし一人で帰して帰り道でなにかあったら、俺が困るんだ。ほら、行くぞ」

「……う」

 椎が上着を掴み、脇に挟む。そして、もう片方の手を、一花にすっと差し出した。

 一花は戸惑いながらもその手を取り、腰を上げるのだった。


 帰り道、月明かりが照らす海辺を、一花は椎と並んで歩いていた。

 一花は、隣を歩く椎をちらりと見やる。

「……ねぇ、椎ちゃん」

「ん?」

「椎ちゃんって今、彼女いるの?」

 椎はかすかに動揺したように、数度瞬きをした。

「……子供がませたことを聞くんじゃない」

 一花は口を尖らせる。

「だから私、もう子供じゃないってば」

「好きな人に振られてメソメソしてるうちはまだ子供だ」

「……まだ振られてないもん」

 一花が不貞腐れたように言う。それを見た椎は笑った。

 銀色の星が散らばった夜空を見上げ、ぽつりと言う。

「……懐かしいな」

「え?」

「昔もこうして、家に帰っただろ」

「……昔って、いつのこと?」

「……喧嘩したときだよ。一花が拗ねて、いなくなって俺が見つけて家まで届けた」

「え……、そうだっけ?」

 一花は首を傾げた。まったく覚えていない。

 見上げた先の椎は、少しだけ寂しげな顔をして俯いた。

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