第2話
おいで、という椎の優しい声と手に誘われ、一花は店内に入った。
店の中は決して広いとは言えないが、アンティーク調のテーブルや椅子がドールハウスのようで可愛らしいカフェだ。
もともとは椎の母親の趣味でこのような内装になった。今はもう、椎の両親は他界しているが。
スイーツと紅茶の甘い香りがする。一花はすん、とその匂いを嗅いだ。
「……久々に来た、ここ」
「……彼氏ができてからは、一度も来てなかったもんな」
「……うん」
一花が最後にこの店を訪れたのは、椎に恋人ができたと報告しに来たときだ。
そのとき椎はおめでとう、とはにかんで、同時にもうここには来ない方がいいと言った。幼馴染み同士とはいえ、一人で男に会いに来るのはあまりよくないという椎の配慮だった。
とはいえ一花は、本音を言えば少し寂しかった。
一花にとってこの店は、第二の家のようなものだ。両親が共働きだった一花は、学校が終わるとほぼ必ずと言っていいほどこの店に入り浸っていた。
店にはいつも椎や椎の両親がいて、一緒に遊んだり勉強を教えてもらったりした。
たまに椎の彼女が来ていたりして、ムッとして帰ったこともあった。懐かしい。
椎の両親が作るスイーツはまるで宝石のように煌めいていて、どれも絶品だった。
椎の父親はチョコレート菓子全般が得意で、中でもオペラにこだわりがあった。
母親はフルーツを使ったスイーツ全般が得意で、なかでもレモンタルトは絶品だった。
もちろん椎が作るスイーツも美味しいのだが、なにぶん彼らが旅立ってまだ日が浅いので、まだまだあの二人の味は忘れられそうにない。
両親が営んでいたこの店を引き継いで、椎が店主となったのは昨年の秋。それ以降一花はあまり足を運んでいなかった。ちょうど同じ頃、一花に恋人ができてしまったからである。
入口の正面にあるショーケースには、煌びやかなスイーツたちがまるで宝石のように閉じ込められていた。
「可愛い……」
苺が鮮やかなショートケーキ、金箔が豪華なオペラに大きな栗が乗ったモンブラン。パステルカラーが可愛らしいマカロンや、バターマドレーヌ、ハニーフィナンシェ、カップケーキまである。
一年前椎が店を始めた頃より、かなりメニューが増えていた。
「好きなとこ、座ってて」
「うん」
言われたとおり、猫足のカフェテーブルに腰を下ろし、きらきらとした世界を眺めていると、優しい香りのフルーツティーが一花に差し出された。
ふわり、と桃の香りが鼻腔をくすぐった。
「……桃だ」
頬がほころぶ。
「好きだろ?」
「うん。ありがとう、椎ちゃん」
小さく礼を言うと、一花はそっとティーカップに口をつけた。桃の柔らかな風味が、じんわりと身体をあたためてくれた。
「……美味しい」
ぽつりと呟くと、椎がにこりと微笑む。
もうひとくち、と口をつける一花を見て、椎は目を細めた。
「……そうだ。少し待ってろ」
「……?」
カフェテーブルに置かれたのは、アーモンドが香るミゼラブルと呼ばれるベルギーのケーキだった。一花の大好物である。
「……ミゼラブル……じゃ、ない?」
形が少し不恰好だ。
「切れ端で悪かったな」
どうやら失敗作のようだ。
いつもの一花なら、切れ端だろうとミゼラブルを前に出せばあっという間に機嫌がなおるところだが、今日ばかりは難しい。一花の声はまだ沈んだままだった。
「……ほかのケーキにするか?」
椎が覗き込むように一花を見る。一花は首を横に振った。
「……ううん。食べる」
一花はフォークを手に取った。
ひとくち頬張ると、アーモンドとバターの濃厚かつ香ばしい味が口の中に広がる。
驚いた。椎が学生のときに作ってくれたものより、ずっと美味しくなっている。
「……美味しい。椎ちゃん、腕上げたね」
小さく笑みが漏れた。
「そう?」
これは、甘いものが好きな雪も好きそうだ。そういえば、雪とはまだ一度もここに来たことはなかった。一花がミゼラブルが好物であることも、まだ話していなかった。
ふと、恋人のことを思い出して手が止まる。
「……それで、こんな時間になにしてたんだ?」
しんとした声が降ってきて、一花は顔を上げた。
椎は自分の分のティーカップを手に、一花の正面に腰を下ろすと、穏やかな声で尋ねた。
「こんな時間にこんな路地裏で」
時刻は午後十時。たしかにこんな時間に一人で夜道をうろついていたら、問われるのも無理はない。
一花は一瞬躊躇いながらも、口を開いた。
「……ねぇ、椎ちゃん。失恋って、どうしたらできるかな」
「失恋?」
椎は怪訝そうに眉を寄せて、一花を見た。
「……そう。失恋」
ティーカップの中に収まっていたフルーツティーが、とろりと揺らめく。
「……私、失恋したいんだ」
一花はひっそりと立ちのぼる湯気を見つめた。
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