君と過ごすこの夏のセミファイナル

悠木りん

第1話

 わたしと莉依梨りいりは三年前からシェアハウスをしている。シェアハウス、と言っても少し大きめのマンションの一室を二人で家賃折半で借りているだけだけど。


 莉依梨とは大学の頃から気が合って、就職する時に「職場も近いし経済的にも楽だし一緒に住む?」ってなってそのまま早三年。


 穏やかな性格でよく笑う莉依梨との生活は大きな不満も波風もなく、ほとんど理想の暮らしと言っても良い。


 けれど、毎年夏が来ると思い知るのだ。気の合う女子二人暮らしをする上での唯一の問題を。


 ――君と過ごす夏のセミファイナルを。


   *


「――っ、ヤバいよ、のんちゃん! 出た出た出たっ!」


 ある朝、わたしよりも少しだけ早く家を出た莉依梨が、バタバタと狼狽えた足音を響かせながら五秒前に閉めた玄関のドアに体当たりするみたいに部屋に飛び込んできた。せっかく綺麗に巻いた暗めの茶髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。


 その姿に、洋服何着てこー、と姿見の前に立っていたわたしは事の重大さを悟る。


「ついに今年の夏もきたか……!」

「きちゃったよ……! セミファイナルが……っ!」


 そう言って、わたしたちは洋画のシリアスな場面みたいに重苦しく頷き合った。


 サンダルを突っかけ、二人くっつくように、そろり、と恐る恐る開けた玄関ドアから顔を覗かせる。


 部屋の前の通路の数メートル先、ぽつん、と黒い影が転がっていた。


 セミである。


 皆さんにも経験があるのではないだろうか? 地面に転がっているセミの近くをうっかり歩いた瞬間、尽きかけの命のあらん限りの力でビチビチビタビタ大暴れされたことが。いわゆる『セミファイナル』なんて呼ばれてもいるこれ。こんな名がつくことからも多くの人々が恐れ忌み嫌っているであろうこの現象が、わたしも莉依梨も大嫌いなのだ。


「どうしよう、のんちゃん……」


 振り返ると莉依梨が縋るようにわたしを見つめている。莉依梨……そんな目で見られてもわたしだってセミは無理なんだ……三年目なんだからもうわかってるよね……?


 一年目、初めて莉依梨と迎えた夏は本当に悲惨だった。


 お互い学生の頃は実家暮らし、家で虫に困った時は父や兄がなんとかしてくれていた。だからマンションの部屋の前に転がっているセミを見た瞬間、二人して同じことを思った。


『これ、誰が処理するの?』


 お互いがお互いを『お前がやってくれ』という目で見た。そしてそのアイコンタクトでどっちも無理ということがわかってしまった。わたしは人生で初めて絶望というものを知った。


「……のんちゃん、私今初めて本気で絶望してる」


 莉依梨もハイライトの消えた目でまったく同じことを言った。


 その日は二人で決死の全力ダッシュをし、セミは逃げ惑うわたしたちを嘲笑うようにビチビチと羽音を響かせた後、どこかへ飛んでいった。まだ飛べるなら人ん家の前で転がってんじゃねぇ!


 それから、わたしたちとセミとの終わりのない戦いが始まった。


   *


 一年目の夏。


「のんちゃん! これ買ってきた! これなら絶対に倒せるよね?」

「莉依梨ナイス!」


 仕事帰りに彼女が買ってきたのは、パッケージにでかでかと『瞬殺!』と書かれた殺意高めの殺虫剤だった。Gも殺せると書いてあるし、さすがにこれなら瞬殺できるでしょ!


 次の日、また部屋の前に転がっていたセミに向かって、


「しねぇぇぇぇ!」


 ブシューーーーーーーーーーーーー!

 ジジジジジジジジジジジジ――ッ!!


「「ぎゃああああああああああああああああああああああああ」」


 瞬殺どころかこっちに向かって元気いっぱいに飛んでくるセミから、わたしと莉依梨は命からがら逃げた。


「全っっっ然、瞬殺できてないんだけどっ⁉ むしろ火に油なんだけど⁉」

「あっ⁉ のんちゃん、ダメだよ!」

「何が⁉」


 ぜーはーと息を切らしながら振り返ると、スマホを手に莉依梨が愕然としていた。


「セミには殺虫剤は効かないんだって!」

「なんで⁉ Gは殺せるのに⁉」


 どんだけ生命力高いの⁉ 七日しか生きられないから生命力がぎゅっと濃縮されてるの⁉


「セミは害虫じゃないから専用の殺虫剤がないらしい」

「こんだけ被害受けてるのに⁉」


 毎年毎年セミの恐怖で寿命が縮む思いをしてるのに害虫じゃないのマジ⁉


   *


 二年目の夏。


「のんちゃん、私気づいたよ。今までは後手に回るからいいようにやられてたんだって。だから今度はセミが部屋の前に来ないように予防すればいいんだよ!」

「おお! 莉依梨天才! 軍師じゃん!」

「で、買ってきました! これ!」


 じゃじゃん! と自分で効果音を言いながら彼女が取り出したのは小さな瓶だった。


「何それ?」

「これはシトロネラっていう柑橘系のアロマで、虫よけ効果があるんだって! これで虫よけスプレーを作って部屋の前に撒いておけば勝てる!」

「おぉ! アロマで虫よけスプレー手作りとか、なんか手間かけてる感が効果ありそう! あと女子力も高い気がする!」

「ね! あ、ほら結構いい香りする!」

「いいじゃん! オシャレじゃん!」


 二人で手作りしたアロマの虫よけスプレーをきゃっきゃしながら部屋の前の通路に撒いた翌日。


「いってきまーす!」

「あ、待って莉依梨、わたしももう出る」


 ガチャッ! スタスタ――

 ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ――――ッッ!!


「「ぎゃああああああああああああああああああああああああ」」


 命からがら部屋に逃げ戻った。


「全然いるじゃんっ! 意味ないじゃん虫よけスプレー!」

「でも待ってのんちゃん!」


 床にくずおれ拳を振り下ろすわたしに、ドアからそろり、と顔を外に出した莉依梨は声をかける。


「……なに、莉依梨?」

「部屋の前がアロマのおかげでちょっといい匂いしてる」

「だからなに⁉」


 いい匂いのおかげでセミまで居心地よく寝っ転がってるだろ! 何が女子力だ! そんなもんいらん!


   *


 そして今年の夏。


「のんちゃん、今度こそわかったよ!」

「ホントにぃ……? 莉依梨の案、これまで全部ハズレだけど……?」

「今度こそ! シンプルイズベスト、熱々の熱湯をぶっかけるんだよ! さすがに熱湯かけたら死ぬでしょ!」

「思ったよりゴリ押しなの来たな……」


 女子力皆無の熱血だ……いやでも奴ら相手に女子力とかゆるふわなこと言ってる余裕なんてないのだ。そのくらいやらねば端から勝てぬ相手……!


「……よし、じゃあお湯沸かして!」

「うん!」


 ――そして。


「熱っつ! 熱湯入れたボウル熱っつ⁉」

「頑張ってのんちゃん!」

「おりゃあああっ!」


 バシャアアアアッ!

 ンジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ――――ッ!!


「「ぅぎゃああああああああああああああああああああああああ」」


 命からがらダッシュで部屋に逃げた。あと熱湯が跳ねてあちぃ!


「熱湯でもダメじゃん⁉」

「……うん、もう知ってた。結局こうなるって」


 虚ろな目で莉依梨と顔を見合わせる。もうわたしたちに奴らに対抗する術なんてないんだ。最初から、勝ち目なんてなかった。わたしたちは一生奴らの影に怯えながら夏を過ごすしかないんだ……。


「――それでも! 諦めちゃダメだよ、のんちゃん!」

「莉依梨……」


 莉依梨は立ち上がると、俯くわたしの目の前に手を差し伸べる。


「私、のんちゃんとの二人暮らしが好き! これからだってずっと一緒にいたい! それなのにこんな――セミファイナルなんかにこの暮らしを脅かされたままでいたくない!」

「……莉依梨」

「ねえ、のんちゃん。私たち、今までどんな問題も二人で乗り越えてきたよね? 朝ごはんはパンがいい私とご飯がいいのんちゃんでケンカした時も、服と一緒に靴下を洗濯しても気にしないのんちゃんと靴下は別がいい私でケンカした時も、頑張って解決してきたよね?」

「うん…………うん?」


 なんか例に挙げたのはしょうもない感じのケンカな気もするけど……。あとわたしたち気が合うと思ってたけど意外とケンカしてるな?


 でも、真っ直ぐにわたしを見つめる莉依梨の瞳は力強くて、その輝きを見ていたらわたしだって絶望したままじゃいられない。


 ――莉依梨だけじゃない。わたしだって、莉依梨との今の暮らしを守りたいんだ。


「莉依梨、わたし、もう逃げない!」

「のんちゃん……! うん、私だって!」


 二人手を取り合って、ドアを開ける。ギラギラと、白く眩しい夏の陽射し。


 わたしたちはもう一度頷き合い、陽射しの中へと一歩踏み出し――


 ジジジジジジジジジジジジジジジジジ――ッ!! ビチビチビチビチ――――ッ!!


「「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ」」


 超逃げた。やっぱ精神論じゃどうにもならんわ。




 その日は結局わたしたちがあまりにも騒ぐので様子を見に来たマンションの管理人さんがセミを処理してくれました。あと普通に騒音と熱湯をぶちまけたことで怒られました。


 女子二人の共同生活、どうしようもない時は他人を頼ることも大事。

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