紳士風の男
十度 零
紳士風の男
一人の若いもの書きが自室で執筆に耽っていた頃、外には暗い雲が立ち上り、土砂降りの雨が降っていた。遠くでは雷鳴が轟き、その音は次第々々に大木をも
と、そこに、一つの怪しげなチャイムが鳴り響いた。
「ごめんください。」
それは低く紳士風の声だった。
こんな酷い嵐の中、誰がチャイムを鳴らすんだろうと若者は怪しみながらも恐る恐る玄関のドアを開けた。
そこには、その声にピタリと合ったまさに紳士風の男が立っていた。歳は三十歳ぐらいだろうか。黒いフロックコートに蝶ネクタイ、頭にはトップハットをつけ、手には黒い鞄をぶら下げて、その姿はいかにも中世ヨーロッパの貴族を思わせた。そして奇妙なことに、それらには一滴の雨粒もついた形跡がなかった。
「ああ、どうも。こんにちは。」と紳士風の男は頭につけてあったトップハットを手に取って言った。
「ええ、こんにちは。あの、どちら様で?」と若者は言った。
「私はですね、商売をしているものでして、あるものを売買してるんですよ。」
若者は、いつもなら即座に引き返してもらうところなのだが、この紳士風の男にすっかり好奇心をそそられ、話を聞くことにした。そして、次に紡ぎ出される言葉は、その期待を裏切るものではなかった。
「というのも、夢を買っているんです。」
「夢?」
「そんな別に大した話じゃないんですけどね。」紳士風の男は手に持っていた鞄から丸みを帯びたものを取り出した。
「このヘッドギアを夜寝る前に貴方様の頭に取り付けていただいて、朝起きたら外してもらえればいいんです。それで貴方様の夢がこの機械に取り込まれますから。たったの一日だけでいいんです。」
「報酬は百万円になります。」
「百万円?」
若者はこの荒唐無稽な話に信じ難くはあるが、信じてみたい気持ちが強かった。若者は貧窮に陥りかけていたのである。
「これが意外と高く売れるんですよ。最近よく夢を買いたいとおっしゃる方が多くいまして、特にご老人の方が。夢を見れなくなってからどうも寝つきが悪いとの話で、夢を見るためならいくらでも出す、と。そういうわけで貴方様のお宅に伺わせていただいた次第であります。どうなさいましょうか。」
若者はこのうまい話に乗らないわけにはいかなかった。
「じゃあ、やらせてください。」と若者は二つ返事で了承した。
「それはよかったです。それでは、明日早朝にまた伺わせてもらいますので、これを渡して、と。」紳士風の男は若者にヘッドギアを渡して言った。
「では。」
紳士風の男は去っていった。
若者は部屋に戻り、受け取ったヘッドギアをためつすがめつしてみるも、特に変わったものは見つからなかった。それよりも頭の中には明日もらえる大金のことでいっぱいだった。
夜を迎えると、若者はしっかりと頭にヘッドギアを装着し、眠りに落ちた。
時刻が周り、昨日の嵐が嘘のように太陽が湿った空気を吹き飛ばし、若者は目覚めの良い朝を迎えた。頭にヘッドギアが装着してあるのを確認すると、若者は確かに昨日の出来事が現実であったことを実感し、嬉々とした。
すると、早速チャイムが鳴った。あの男だろう、と、若者はすぐさま玄関へ駆けていった。
「おはようございます。」と若者はドアを開けて言った。
「ああ、おはようございます。」と玄関前にいるあの紳士風の男は言った。
「昨夜はよく眠れたでしょうか。」
「はい。それはもう、ぐっすりと。」
「早速なんですが、ヘッドギアの方を返してもらってもよろしいでしょうか。」
若者は頭にまだつけていたのを思い出して急いで取って男に返した。
「それで、報酬の方は。」
「ちゃんと用意させていただきました。これを受け取ってください。」と紳士風の男は厚みのある封筒を差し出した。
若者はそれを受け取るとちゃんと中に百万円があるのを確かめた。
「本当にいいんですかね?」
「全然構わないですよ。では、私はもう帰りますので、ごきげんよう。」
男が去ると若者はドアを閉め、部屋に入り、再度封筒の中身を確認した。
「確かにあるぞ。」若者はニヤケが止まらなかった。
そして、ひと段落すると若者は部屋の中の椅子に腰をかけ、机に対して正面を向ける。若者は昼までに終わらせておく予定だった執筆に取り掛かろうとした。
………………………………
筆が動かない。
手に持ってあった筆が情けなく床に落ちた。
若者はまるで生気を失ったかのように真っ白な紙を眺めるだけだった。
「ああ!」
「あの野郎、よくも俺の夢を!」
若者はすぐに家の外に出てあたりを見回してみるも、そこにはもう誰もいなかった。
紳士風の男 十度 零 @renan08
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