37.本は閉じる
――童話が世界を塗り潰す。
足元の水が膨らみ溢れ出し、その周辺は水に沈んだ。しかし不思議と苦しくはなく息は続き、地面を踏む感覚は地上と何ら変わりない。
この水は飾りの、見せかけの海だ。これはある童話を呼び出す為に自然と起こる現象である。最も重要なのはハーヴァーンの後ろ、大精霊の大樹の更に後ろに立つ大きい城である。
珊瑚の壁、琥珀の窓、貝殻の屋根。それは正に神秘を象徴する童話の城だ。その城から、一つの影が伸びる。
それは美しく長い髪を持ち、海のように深く綺麗な真っ青な目をしていた。しかし彼女は人ではない。上半身こそ人と違いはないが、その腰からしたは魚の尾と同じであった。
彼女こそが人魚姫、この世で最も美しい歌声を持つ人魚の姫だ。
「……嘘でしょ。」
そう呟いたロロスを誰が責められようか。これは魔法ではなく、スキルの類だ。あの人魚姫によってこの世界は塗り替えられたのである。世界の法則そのものを書き換えるなんて荒技、精霊王にだってできはしない。そもそもこれは魔力や魔法とは違う領域の話だからだ。
それでも戦意は潰えない。凄いのと強いのはまた別の話。自分には再現できない事であったとしても、勝利する事はできる。
人魚姫はその口を開いて歌を奏でる。その歌に呼応するように魚達は動き回る。
ロロスは一度ハーヴァーンに目を向け、その後に人魚姫を見た。狙うのならどちらかだ。魚の一匹や二匹を殺したところで意味がない事はロロスも十分に分かっている。
それはそのまま、どちらの方が殺しやすいかという話になってくる。ロロスはそれがハーヴァーンの方であると判断した。
「立て、悪魔!」
赤い靴に踏み潰され続けている悪魔にロロスは怒鳴りつける。上位悪魔はその更に上位種である七十二柱の悪魔には及ばないが、その再生力と攻撃能力はとても強力だ。それこそロロスが出すのを惜しむぐらいには。
いくら相手が理不尽の権化のようなものでも、それを純粋な魔力だけで捩じ伏せられるほどのパワーがある。そうであるからこその切り札だ。
悪魔は力任せにその赤い靴をどかして、ハーヴァーンの方へと一直線に走る。赤い靴も追いかけるがその速度に追いつくことはできない。加えてロロスも、大地を蹴ってハーヴァーンに迫る。
「『
再びツバメの鳴き声と同時にハーヴァーンの姿が掻き消える。その代わりと言わんばかりに、人を軽く丸呑みにできそうなぐらいに大きな鮫がロロスへと迫る。
その鮫はロロスの前で大口を開けてかぶりつく。鎌の柄で防ぎはするが、彼女は魔法使いで、当然こういう戦い方は向いていない。その鎌が壊れずとも、持つ手が悲鳴をあげる。
悪魔が横から鮫の体を爪で貫いて殺した。だが、その次の瞬間に悪魔は再び赤い靴に踏み潰された。あまりにも役に立たない悪魔に対してロロスはつい舌打ちをする。
「お前は昔から変わらないな、ロロス。自分の使い魔を道具として雑に扱い、使い捨て、ただ勝つ為に利用する。魔法使いとしての誇りが欠片もない。」
「誇りで命が拾えるのかい? 実際、昔の君は私に負けた。そして今回勝つのも私だ。」
鎌からまた、悪魔が呼び出される。今度は3体だ。ロロスの余裕はもうない。持てる手札の全てを以てハーヴァーンと相対する。
海の魚達と動き回る赤い靴、それを掻い潜ってハーヴァーンに近付く必要がある。しかしその間も、人魚姫は歌い続ける。
人魚姫は絶世の歌声の持ち主だ。それは人の心を揺らし、誘い込み誑かす。この海の中にいる限り、どれだけ耳を塞ごうともその魅力的な歌声は響き続ける。
魚群から逃れ、鮫を退かせ、鯨を打ち倒す。ハーヴァーンの場所には簡単に辿り着く事ができない。
ロロスには必殺技、あるいは奥義と呼べるものが存在しない。あらゆる守りを貫き、一撃で敵を仕留める術を用意していない。
それを補う為の鎌であるが、それも近付かない事には機能しない。
「――お前の負けだ、ロロス。」
近付けば近付くほどに、いや、人魚姫の歌を聞くほどに体が弱まっていくのをロロスは感じた。それは悪魔も一緒で、最初は簡単に倒せていたはずの魚達をどんどん倒せなくなってきていた。
「お前が用意するべきだったのは、使い捨ての悪魔ではなく最強の悪魔だった。もし七十二柱か、それに並ぶ霊体を用意されていたら俺が負けていたやもしれん。」
ロロスは立っている事すらできずに、その場に倒れ込んで這いつくばる。
「それが使い捨ての使い魔の限界だ。」
どれだけ数を重ねようとも、究極に迫る一には勝てない。確かにロロスは強いが、それはあくまで常識の範囲の強さだ。
だから常識から外れた童話には勝てなかった。
「は、言ってくれる、じゃん。そういうお前こそ、私からすれば三流だ。」
瞼が重くなる。もはや立つことは叶わない。鎌を振り、命を奪うことはできない。
「物に拘って、勝ち方に拘る。そんなプライドがあるから、お前は永遠に第十席なん、だ。」
ロロスは意識を手放す。それをハーヴァーンは見下ろしていた。勝ったというのに、ハーヴァーンの顔は忌々しげだった。
「……最後まで気に食わん奴だな。」
そう呟いたハーヴァーンの下に、人魚姫がやってくる。そして頬を膨らませて不満そうな眼差しをハーヴァーンに向けた。
何に怒っているかは直ぐに察しがついた。だからこそ面倒くさそうにハーヴァーンは顔をおさえた。
「ああ、分かってる。そんな恨めしそうな顔をするな。今度は水の多い場所に呼び出してやる。」
そう言っても人魚姫の機嫌は晴れない。更に不服そうにしてハーヴァーンの肩を叩いた。
「……分かった。今度、祭りに連れて行ってやる。それでいいな?」
人魚姫は満面の笑みを浮かべて、泡となって消えていった。辺りを覆い尽くしていた水も消えて、大精霊の大樹も姿を消していく。
童話の本は閉じた。残ったのはハーヴァーンと倒れたロロス、そしてメイド服を着た大精霊だけだ。
「ご主人、その人どうするの?」
「拘束して牢屋に入れる。こいつには洗いざらい情報を吐いてもらわないと困るからな。」
そう言ってハーヴァーンはロロスを肩に担いだ。鎌は空間魔法で仕舞い込む。歩いて行くハーヴァーンの後ろをコティマスカは小さい歩幅でついていく。
「人魚姫ちゃん、怒ってたね。」
「あいつは我儘なんだ。マッチ売りの少女を見習うべきだ。」
「だめだよ、そんなこと言っちゃ。たすけてくれるんだから。」
純粋無垢なそんな言葉を聞いて、ハーヴァーンは分かりやすく溜息を吐いた。
「……コティ、お前は誰の味方なんだ。」
「ご主人の味方です! だけど、童話のみんなはともだちだから。」
ハーヴァーンはそれを責めるに責められない自分の甘さが嫌で、また大きな溜息を吐いた。
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