10.ヴェルザード観光ガイド
バタン、と勢いよく音を立てて扉が開かれる。そしてそのまま、部屋の中へと緑色の髪を揺らしながらエルディナが入って行った。
その間、僅か数秒ほどである。
中にいたヒカリはその淀みない動作に呆気に取られて、何を言うでもなくそれを眺めている事しかできなかった。
「え……」
ここは客間。寝室は別にはあるが、基本的には3人はここで行動をする。つまりは第一王子の居住スペースとも言える場所だ。
そんな場所にノックもせず、何も言わずに堂々と入ってきたのだ。その驚きは筆舌に尽くしがたいものがある。
一秒、二秒、三秒と時間が経つにつれてヒカリの思考はやっと再稼働し始めた。
「だ、誰ですか!?」
「うわっ、びっくりした!」
こっちのセリフであるという言葉を飲み込み、ヒカリはもう一度口を開く。
「この部屋に何の用ですか……?」
「それ、私に聞いてるの?」
「貴女以外に誰がいるんですか?」
エルディナとヒカリは睨み合う。
ヒカリは聖剣を出す準備までしていた。ヒカリの視点で見ればエルディナの身分が次期公爵の令嬢であるなど想像ができない。自分の身を守ろうとするのは当然だった。
しかし、エルディナにとっては見知った自分の家を歩いて知り合いの部屋を訪ねただけだ。怪しまれる要素は何もない。
「んー……ちょっと待って。」
エルディナは魔力感知を広げる。屋敷の中ぐらいならどこに誰がいるぐらいなら正確に認知ができる。
だからこそアルス達の場所に直ぐに気がついた。そこで、じゃあ目の前の女が誰であるかという発想にやっと至る。
エルディナは単純ではあるが馬鹿ではない。父から聞いた話と最近のアルスの動向を思い出せば、自ずとその正体に気がつく。
「なるほどね……分かったわ! それなら自己紹介から始めましょう!」
へ、と力の抜けた声がヒカリから漏れ出る。
「私の名前はエルディナ、この屋敷の人よ。そんなに警戒しないで。」
「ほ、本当ですか?」
「本当よ。そもそも公爵家の屋敷に関係のない人が入れるわけないでしょ。」
エルディナはあえて身分を明かさなかった。変に遠慮される事を嫌ったためである。
「それもそうです、ね。私はヒカリです。初めまして。」
「うんうんヒカリ、いい名前ね! 響きがいいわ!」
ヒカリの手を取ってエルディナはブンブンと手を上下に振った。
ヒカリは困惑しているが、抵抗もせずにそれを受け入れていた。急な展開に頭が回っていないようである。
しかしてそんな事をエルディナが気遣えるはずもない。
「それじゃ、行くわよ。」
どこへ、と聞く暇もなく、エルディナはヒカリの手を引っ張って部屋の窓を開ける。
「……この服じゃ流石に行けないわね。」
エルディナは空間魔法を使い、時空の狭間から一つの魔導具を取り出す。それは小さな箱だった。
その小さな箱にエルディナが魔力を込めた瞬間に、貴族の令嬢らしいドレスが、平民が着るようなラフな服に変わった。下はズボンをはいていて、とてもじゃないが貴族だとは思えない。
「『
――風が吹く。
「え――」
部屋を荒らす事もなく、的確に二人の女性は窓を抜け、大空を駆け上ったのだ。
第七階位魔法『
この時に難しいのは空中での体勢制御、もしくは風力の調節。これらを感覚によって行う為、普通は本人にしか使う事はできない。
「――ええええぇ!!?」
精霊を従える眼を持つ、エルディナを除けば。
無数の緑色のほのかな光がエルディナとヒカリの周辺を飛び回る。その感覚は風で飛ばされる、というよりは持ち上げられているような気分だった。
現代においては魔法による航空技術は一般的ではない。飛行船は存在するが、それを動かすには膨大な魔力が必要である。ともなれば出発、着陸までの魔力を蓄えられる魔石が必要であるが、これを未だ人類は人工的に作れない。強力な魔物から取れるそれは、未だに希少であるのだ。
だからこそ空には何も、二人を妨げるものいなかった。
「やっぱり折角友達になったんだから、私の街を紹介しないと!」
「友達、ですかぁ!?」
それは高度を上げ、次第に屋敷が小さく見えるほど上に飛ぶ。風の音が強くて、大声で話さなければ会話もままならない状態だった。
「だとしてもこんないきなり……」
「気持ちいいでしょう? どんな嫌な事があっても、これをすれば気分が晴れるの!」
二人の体はヴェルザード領の上空を飛び回る。
慣れてくれば強い風もどんどん心地良いものに変わっていく。そして余裕ができれば、下に広がる広大な街並みが目に入った。
上から見れば、そこに生きる人々の姿や、荘厳で煌びやかな建物の数々、そして美しい豊かな自然が限りなく広がっている。
「見える、あそこの大きな聖堂!」
エルディナが指差した方にヒカリは視線を移す。
そこには美しい街の中で特に目立つような、白と青を基調とした巨大な聖堂があった。それは上から見ても、一目で綺麗と分かるほどの建築美があったのだ。
「あそこがレイシア大聖堂。今日、アースが演説をするところね。あっちの方にあるのは街でいっちばん大きい商店街。あそこはいつも朝から賑やかに商売をしてるの。あそこの建物は――」
聞いてもいないというのに、エルディナは次々と街の話を始めた。
「それでね、それでね! まだあるのよ、聞いて!」
何が起きているのか、あまりヒカリはよく分かっていない。目の前の少女の事も、名前しか知らない。だけど、少女の楽しそうに話す様を見れば、それを止める気にはならなかった。
むしろ、不思議とヒカリの中では、この街についてもっと知りたいと、そう思うようになっていった――。
街を飛び回り数十分。ヒカリが再び地面に足をつけたのはそれぐらい経過した時だった。
「はあ……なんか落ち着くッス。」
ヒカリはレイシア大聖堂の目の前のベンチに腰掛け、疲労した精神を落ち着かせていた。気分としてはジェットコースターに乗った後のそれに近いだろう。
「どう、楽しんでくれた?」
その顔を覗き込むようにエルディナは顔を出した。その顔は、流石にちょっと急過ぎたのを自覚していたのか、不安そうであった。
そんな顔を見れば人が良いヒカリは責める気分にもなれず――実際自分が楽しんでいたのもあるが――その言葉に頷いた。
「ああ、良かった。明日にはもう行っちゃうから、早めにって思って焦っちゃったのよね。ごめんなさい。」
「いや、いいッスよ。私も楽しかったんで。いい街ッスね、ここは。」
ヒカリがそう言うとエルディナは笑みを深める。
「私、この街が大好きなの。いつも勉強が嫌で抜け出して――げふんげふん。よく遊びに出かけるから、街の事は誰よりも知ってる自信があるし。」
エルディナは街を愛していた。だからこそ、自身にとって苦行である領主の仕事もやろうと思えた。この綺麗な街を、自分の手で守れたらなんて素敵だろうと、そう思ったのだ。
だからこそ、他の誰よりも街を褒められるのが嬉しかった。自分が褒められているようで。
「それじゃあ最後、こっち来て。」
エルディナは大聖堂とは反対側へと走って行く。それを見て急いでヒカリは追いかける。止まった先にあったのは、広い広い湖だった。
「空からじゃ、ここの綺麗さは分からないからね。」
青く透き通る水が、そこには一面に広がっていた。そこに精霊が住んでいるのではないかと疑いたくなるような程の神聖さを感じる湖であり、二人以外にも観光客が何人もいる事がその美しさを証明していた。
大きさ自体は大した湖ではない。それこそ、平均の大きさに比べてやや小さいぐらいだろうか。それが逆に湖を特別に感じさせる要因にもなっていた。
湖面は周囲の街並みを反射し、まるで絵画の中に入り込んだかのような幻覚をヒカリは感じた。
「キュアノス湖って言うの。太古の昔、隕石が降り注いだ所からできた湖。数千年前はここに神様だって降臨した事があるらしいの。」
エルディナの説明をヒカリは聞いていた。いや、聞いてはいたがそれを頭に留める事はできなかった。
それ程までに目の前の湖が美しかったからである。絵画や大自然に感動した事がなかったヒカリにとって、それは初めての感覚だった。
「……綺麗。」
ヒカリは異世界に来てから初めて、ここが異世界である事を忘れる程の感動に出会った。
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