14.一人の部屋
アルスが丁度、城下町に降りて店を渡り歩いていた時。当然、部屋には天野光が一人だけ残る事になっていた。
しかしアルスがいないのは、この五日間同じ事であった。用事が買い物か授業であるかなど、彼女の視点で考えるのなら大差ある事ではなかった。
だからこそいつも通り、言語の勉強をして、時たまに魔力を感じ取る練習をするだけである。
無論、暇であろう事は言うまでもないだろうが、その暇を潰す手段もないのだから、文句を言っても仕方のない事である。
そう、天野光は、いつも通りである。
アルスのこの行き場所の変化によって、いつもを崩されるのは、この城内には一人程度しかいない。
「確か、あいつの部屋はここら辺だっけか?」
テルムは王城内を一人で闊歩している。護衛の騎士であるヴァダーの姿は見えない。恐らく、また隙を見つけて抜け出してきたのだろう。
そしてあまり迷う事も無く、一つの部屋の前へ辿り着いた。これもまた、ヴァダーに教えてもらったのだろう。
仮にもテルムは国王の娘であるにも関わらず、ノックもせず、乱暴にそのドアを開いた。
「あ、先輩。随分早いかえ、り?」
ドアが開いた音を聞いて、反射的にヒカリはそれをアルスだと思った。だが、実際にそこにいたのはテルムである。
しかし逆に言えば、テルムだって予想だにしない光景であった。
テルムは当然、そこにアルスがいると思ってきたのだ。そこにアルスがいないだけでなく、見知らぬ女性がいるとは考えもしない事である。
「誰だ、お前。あいつ……アルスはどこにいる?」
ヒカリは何も答えない。いや、答えられない。言っていることは分かるが、レイシア語を話すことはできないからだ。
質問にいつまでたっても答えない事に痺れを切らしたのか、テルムは苛立たしげにヒカリの方へと距離を詰める。
「黙ってねえで、なんか言えよ。そんな難しい質問はしてねえだろ。」
「ああ、ええと……『アルス、ない。』」
「変な喋り方だな……さては、レイシア語が使えないのか。一体、どんな田舎の国から来たんだか。」
なんとか習ったばかりの言葉を使ってヒカリは話し、意思が伝わったのを理解して胸をなでおろす。
するとテルムは、そのまま部屋の中の観察を始めた。
じっくりと、部屋の端から端まで目を流し、ぐるっと一周をして再びヒカリヘと視線を戻す。
「お前は、あいつの女か?」
テルムのその言葉に、全力でヒカリは首を横に振る。
「じゃあ、余計に分かんねえな。言語も通じない所に、何で連れて来たんだか。絶対に邪魔だろうによ。」
ヒカリは何も返さない。話せないから、いや、例え話せたとしても口を噤んだであろう。
自分が、アルスの邪魔をしているだろう事は、分かってはいた事であるからだ。
アルスがヒカリに対し、深い自責の念を持っているのは、ヒカリ自身も知っている。しかしヒカリの中にアルスを責めるという考えはない。むしろ助けてもらった命の恩人である。
だからこそ、このアルスに頼るしかない生活には、大きな罪悪感を抱いていた。
「羨ましいぜ、本当に。私もいるだけで許されるような生活を送ってみたかったよ。きっと明日の食べ物に困ったことも、冬を越すためにくだらねえ知恵を絞ったことも、ハエがたかってる死体も見たことがないんだろうな。」
それは事実である。確かにリクラブリアの地下に拘束されたという過去はあるが、結局は裕福な家庭で生まれ育った普通の日本人である。
死体など生まれて一度も見たことはないし、食べ物に困ることだってありはしない。
「……チッ。あいつがいないんだったら、もうどうでもいい。邪魔したな。」
そう言って、嵐のようにテルムは去った。残ったのは呆然とするヒカリと、どこかやり切れない、どうしようもない感情だけである。
ヒカリは、テルムの事を知らない。テルムの生い立ちを知らない。
反発する心がないわけではなかった。急に現れて、悪態だけ吐いて出て行ったのだし、それに服装だけを見るなら恵まれているのはどちらか、という話である。
「あー……なんとか、しないとなあ。」
だが、テルムの言う事は完全に的を外しているわけではなかった。なあなあで済ませていた部分を、露呈させるものであった。
ヒカリという人間の根の部分は、真面目そのものであり、人に頼り切るのを良しとせず、今の状況に言いようのない不快感を感じていた。
簡単に解決できるのなら、悩むこともありはしないが。
普通の人なら家業を継いだり、子供までに築いた交友関係から仕事を探す。それはこの世界で生きた下地があっての事である。
それがヒカリにはない。この世界で使われる通貨も知らないし、法律も、地域の名前も、常識も、何もかもが知らない。であれば、雇う側にとっても嫌厭されるような人材であることは疑いようもない。
頼みの綱であるアルスの手伝いができる魔法は、何年かかるか分からない代物である。
「お父さん、お母さん。私、そっちに戻れるかな……」
一度沈み込んだ気持ちは、違う嫌な事まで脳裏に走らせる。
違う世界に生きるという不安、そんな世界でも、自分が自分でいられるかという不安。その両方を背負うには、彼女はあまりにも平凡に生きてき過ぎた。
部屋の外にも聞こえない小さな音で、ただすすり泣く声が、微かに零れ続けていた。
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