12.救えなかった

 心の中で、誰もがヒーローを待ち続けている。

 明日の生活すらままならない奴、不治の病にかかった奴、社会という荒波に殺されてる奴、虐められている奴。

 それは俺も例外ではなく、誰もが自分を救って、全部何とかしてくれるようなヒーローを待っている。

 それが例え、有り得ないと分かっていても。


 どんな不可能な事でさえ可能にし、自分に勇気を与え、夢を与え、無邪気な子供のままでいられるようなヒーロー。

 いつからだろうか。かつて憧れていたはずのそれが、求めるものとなったのは。

 子供、それも男であるならば尚更、間違いなくヒーローに憧れた筈だ。もしかしたら、今も憧れる奴もいるかもしれない。

 だが、その殆どは現実を知り、その夢を深く仕舞い込む。


「調子に乗るんじゃないわよっ!」


 不知火の母親は不知火の頬を叩く。そして胸ぐらを掴んで、壁に追いやった。


「元はと言えばあんたのせいなのよ……あの人が私を置いていったのも、私がこんなに苦しむのも!」


 不知火の母親は、間違いなく狂っていた。

 その背景に何があったのかは、言動と、父親がいないという事実からある程度の想像はつく。

 故に酒に溺れ、働くことをやめ、子供に暴力を振るう。

 だが、逆に聞こう。いくら不幸な人間であったとして、その苦しみを子供にぶつけていい理由になるであろうか?


「私がこんなに苦しんでいるのに! あんたがのうのうと暮らしていいはずがないでしょうが!」


 不知火の首は押さえつけられ、息が通らなくなる。

 それはまるで子供の癇癪のようだった。間違っているのは分かるが、それを認めない。認めたくないという思い。

 その異常なまでの、プライドと呼ぶのも烏滸がましい見栄が、子供を手にかけるという凶行を生む。


「ぅ、ぁ、が。」


 無論、不知火も抵抗はする。しかし運動も苦手で、筋力のないその腕では母親の手は振り解けない。

 むしろ、怒りと狂気により気が狂っている母親は、いつもより数倍も力があった。


 このままでは、不知火は死ぬであろう。


 彼女はヒーローの姿を幻視し、それになろうとした。

 彼女は勇気を与えられた。だからこそ、母親に立ち向かい、戦うことができた。

 この親子のやり取りは効率的に考えるのなら意味の無い事だ。

 しかし、不知火の心には必要だった。法というシステムに寄ったものではなく、自分自身で勝ち取った自由が。


「『弾丸バレット』」


 その誉れある勇気が報われないのを、アルス・ウァクラートが、草薙真が許すはずもなかったのだ。

 真から放たれた見えない弾丸は、的確に不知火の母親の頭を撃ち、気を失わさせる。


「カッ、ケホッケホッ!」

「……随分と無茶したな。」


 不知火は少しの間は苦しそうに呼吸をしていたが、次第に安定し、普段の呼吸を取り戻す。


「流石にビビったよ。全部任せろって言ったのに、自分でやろうとするなんてな。危うく死ぬところだったぞ。」


 真は知っていた。不知火が親から虐待を受けていた事を。

 それを何とかする為に、彼も必死に戦ったのだから。


「ごめん、なさい。」

「謝るなよ。責めてない。むしろお前は凄いよ。」


 気絶した不知火の母を、真はチラリと見た後に不知火を再び見た。


「こんなのに立ち向かうなんて、普通はできねえさ。」


 親に真っ向から歯向かうというのは、我々が想像するより難しい事だ。

 子供の頃から、ひたすらに全てを否定され続けてきた不知火にとって、親と戦う選択肢を選べたのは奇跡に近い。

 だからこそこの事態は真にとっても想定外であった。


「……私、強くなれたのかな?」


 不知火のその言葉に、真は少しの間言い悩む。だが、答えが出るのは遅くはなかった。


「知らねえ……正確に言うなら知りたくもねえ。」


 真は良くも悪くも正直である。だからこそ、相手の望む答えを返す事はない。


「ただ、昨日より胸を張って生きれたら。それは強くなったって事だと思うぜ、」


 故に、それ以上に心に刺さる時もある。普通では得ることの出来ない勇気を与えてくれる。


「ならきっと、私は強くなれたんだね。」

「……そうか。」


 真は大きく息を吐いた。

 その息は一件が終わった事の安堵のようであり、自分への自嘲を込めた溜息のようでもあった。


「神楽坂が虐めはなんとかしてくれた。これからはそういう事はないだろうよ。」

「……うん。」


 真は最終的に虐めてた奴がどうなったのかは知らない。停学か退学か、お叱りを受けて直ぐに釈放か。

 だが、神楽坂に任せた以上、怒られるだけで済まないであろう事は知っていた。

 むしろ不知火以上に酷い目に遭う可能性もあるが、真にとってはさして気にすることではない。


「それと爺さん……俺の父親にお願いして、色々と手続きは済ませてもらった。今から一人暮らしもできるし、何だったら持っているマンションの一室を貸しても良いってさ。」


 真は何とも無いようにそう言った。しかし不知火は驚かずにはいられない。


「え、マンション?」

「……聞くな。俺にもあの人の事はよく分からん。」


 真とその育ての親は、長年一緒の家に住んでいるのにも関わらず関係は希薄だった。

 真が起きるより早く家を出て、真が寝た後に帰ってくる。生活費やらは十分にもらっていたが、一人暮らしに近しかった。

 だからか、真は育ての親の事を何も知らない。

 何の仕事をしているのか、どんな人間なのか、過去に何があったのか。しかしそれももう、知りようのない事であった。


「……」


 少しの間、沈黙が響く。

 終わりだ。もうこれ以上、この世界が続く事はない。もう少しで、この夢の世界は終わる。この夢はあくまで夢で有り、真の心にしか残る事はない。

 どれだけここで何が起ころうとも、ここは夢でしかないのだ。


「草薙君。」

「何だ?」

「ありがとう。」


 それは簡素な言葉であった。しかし不知火にとってはこの一言を言うことにさえ、勇気が必要だった。

 声は少し震え、それでも、自分の思いを発する。


「今まで話したことも、ないのに私を、助けてくれて。本当に、ありがとう。」


 それは不知火の本心から出た、感謝の言葉だった。

 不知火にとって、真こそがヒーローであった。突然と現れて、ありとあらゆる事を解決してくれて、全てを救ってくれた。

 しかしその感謝の言葉は、真にとっては歪に写る。


「……ありがとう、か。」


 もう一度言おう。ここは、夢でしかない。

 つまり結局は不知火はそのまま死んだし、助けられてなどいない。ここの努力も、行動も、思いも、そのどれもが夢でしかない。

 だからこそ、真にとってその言葉は、あまりにも重かった。


「違うよ。違うんだよ、不知火。」

「え?」

「俺は、何もできなかったんだ。」


 だからこそ、それを隠し切れなかった真を、誰が責める事ができるだろうか。

 その抑え切れない罪の念を吐き出し、誰かに責めてもらって、その重荷を軽くしようとする考えの何がおかしいというのか。

 一度漏れ出したその声は、流れるように這い出てくる。


「ここは、夢なんだよ不知火。俺はお前を、夢の中でしか救えなかったんだ。」

「何、言ってるの?」

「お前は、現実だと死んでるんだよ。俺が、俺だけがお前を救えたのに、俺はお前を助けなかったんだ。」


 まるで罪を告白する犯罪者のようであり、あまりにもその言葉は重たく、そして哀愁に満ちていた。


「俺は、お前に称賛される人間なんかじゃ、ないんだよ。」


 真は、自分が嫌いだ。卑怯な自分が嫌いだ。嘘つきな自分が嫌いだ。勇気のない自分が嫌いだ。

 だからこそ、人の称賛は素直に受け取れない。特にこの出来事であれば尚更だ。騙しているという罪悪感が、真を蝕み続ける。

 それは真の優しさの裏返しでもあり、弱さでもあった。


「俺はお前を、救えなかったんだ。」

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