第25話 試着室殺人事件

日曜日の朝、駅前に私は立っていた。今日は立花先生に服を買ってもらうために(正確には服の購入代金を立て替えてもらうために)ここで待ち合わせをしているのだ。


しばらくするとブレザー姿の立花先生が歩いて来て、私を見つけて手を振った。私もすぐに手を振り返す。


「おはよう、待ったかな?」近づいて来て私に声をかける立花先生。


「おはようございます。私も今来たところです」と答える。


その時、私の近くに立っていた女性の集団が近寄って来て声をかけた。


「おはようございます、立花先生」


「え?」と言ってその女性の方を向く立花先生。


「お久しぶりです。ミステリ研の美波です」とその女性、美波副部長があいさつした。


「同じく田辺です」と頭を下げる田辺先輩。


「同じく、仲野と申します。立花先生、初めまして」と仲野さん。そう言えば仲野さんは法医学教室に行ったことがなく、立花先生とは初対面だった。仲野さんとは立花先生の話をよくするので忘れていた。


「お、おはよう。・・・君たちは?」


「今日は一色さんが披露宴に着ていく服を買っていただけるそうで、アドバイザーとして参加させていただくことになりました」と美波副部長。


立花先生が私の方を向いたので、「申し訳ありません。みんなに相談していたら、そういうことになってしまいました」と言って謝った。


「お二人のお邪魔はなるべくしませんのでご心配なく」と田辺さん。


「そ、そうか。じゃあ、服選びを手伝ってもらおうか」と納得する立花先生。


「それでどこに行かれるんですか?」と聞く仲野さん。


「婦人服の専門店には心当たりないから、百貨店の婦人服売り場に行こうと思って」


「それはいいですね。では切符を買いましょう」と美波副部長が言って券売機に向かった。


美波副部長たちは三人で固まってぺちゃくちゃしゃべりながら改札口を抜けた。私と立花先生は少し離れて後ろを歩いた。


「お仕事は順調ですか?」と当たり障りのないことを聞く。


「うん。今は十月に開催される法医懇話会という地方会で学会発表しようと準備中なんだ」


「どんな風に発表されるんですか?」


「壇上に立って、スライドで図表や写真を映写しながら発表内容を十分程度で説明するんだ。その後、会場の人から質問を受けて答えるんだ」


「論争になったりするんですか?」


「論争になることは滅多にないよ。発表内容について二、三質問を受けて、適当に答えればそれで終わりさ」


「人前で説明するのって緊張しませんか?」


「慣れればなんてことないよ」と立花先生が言ったので私は素直に尊敬した。


乗った電車が目的地の駅に着き、駅前の百貨店に移動する。婦人服売り場は広く、客も何人か既に来ていて、吊ってある服を見ていた。


礼服や女性用スーツを売っているところに移動して、吊ってある服をいくつか見ていたら、田辺先輩が話しかけてきた。


「一色さん、この際オーダーメイドで注文したら?」


「と、とんでもない。そんなぜいたくできません」とあわてて答えた。


「せっかくパトロンがいるのに・・・」と残念そうな田辺先輩。いえ、立花先生は私のパトロンではありません。


「こんなのがいいんじゃない?」と仲野さんが言ったので、みんなで集まった。立花先生は後ろに立って私たちを眺めているだけだった。


仲野さんが取ったのは、総レースで五分袖のワンピースドレスで、首元と左右の二の腕は素肌が透けて見えるものだった。


「いいわね。・・・一色さんのサイズもありそう。何色にする?」と美波副部長。


「この赤いのは?」と田辺先輩が真っ赤なワンピースを手に取った。


「ちょっと派手すぎます」


「じゃあ、この臙脂色か深緑色を試着してみましょうか?」と美波副部長が言って、ワンピースを持ったまま私を試着室までつれて行った。


試着室は店の壁際に二室設けられていた。薄い木の板で三面を覆い、奥の壁には姿見が付き、入口側はカーテンで閉じるようになっている。


片方の試着室のカーテンは閉まっており、手前にハイヒールがそろえてあった。誰か別の客が試着しているのだろう。


私はワンピースを持たされて開いている試着室に押し込まれた。すぐにカーテンが閉められたので、もぞもぞと着ている服を脱いで臙脂色のワンピースを試着してみた。


「どうでしょうか?」カーテンを開けておそるおそるみんなに聞く。立花先生を含めた全員の視線が私に集中する。


「なかなかいいんじゃない?派手すぎず、シックで素敵よ」と田辺先輩。


「先生はいかがですか?」


「い、いいんじゃないかな」となぜか頬を赤らめる立花先生。


「ついでに左腕に黒いトカゲの刺青いれずみをしてみたら?もちろんほんとうに掘るんじゃなく、マジックで描くだけだけど」と仲野さんが言った。


黒蜴蜓くろとかげじゃありませんから、勘弁してください」と言い返す。黒蜴蜓くろとかげとは江戸川乱歩の小説に出て来る女盗賊だ。


「私が黒蜴蜓くろとかげなら、小説や映画のようにみなさんを人間剥製にしますよ」私の冗談に笑う部員たち。


刺青いれずみしている女なんか披露宴会場に入れないわね」と美波副部長が言って冗談はおしまいになった。


「深緑色の方も着てみる?」


「これでいいと思いますけど、ちょっとお値段が・・・」値札を見て高いと思ってしまった。


「先生、いかがですか?」と立花先生に聞く美波副部長。


「大丈夫だよ。これでいいなら買おうか?」


「じゃあ、決まりね。これを買ったら次はアクセサリーね」と調子に乗る仲野さん。


「そ、そこまではさすがに・・・」と言い淀む私を試着室に押し込んで、


「とりあえず自分の服に着替えて」と言われてしまった。


着替えて試着室を出る私。ワンピースを手に持ったままレジの方へつれて行かれる。


立花先生が代金を支払っている間、私は試着室の方を振り返った。私が入った試着室の隣はまだカーテンが閉まっていて、その前にハイヒールが置かれたままだ。


「どうぞ、お待たせしました」と店員に言われて包まれたドレスを受け取る。その時私はその場にいた二人の店員に話しかけた。


「あそこの試着室、ずっと閉まったままなんですけど、大丈夫なんでしょうか?」


「渡邉さん、見て来て」年かさの太めの店員が若いやせた店員に指示した。


試着室の前に行き、「お客さま、何かございましたでしょうか?」と声をかける店員。しかし返答はなかった。


「お客さま、中を見せていただきますよ」そう言って店員はカーテンの端から顔を入れた。


「きゃあっ!」突然叫ぶ店員。その声を聞いて、ワンピースの代金をレジスターに入れた年かさの店員は、急いで試着室の方に向かった。私たちも後を追う。


「どうしたの?」と叫び声を上げた店員に聞く年かさの店員。


叫び声を上げた店員はその場に座り込み、顎をわなわなと震わせていた。


「中を見てください!」私は年かさの店員に言った。


すぐに試着室のカーテンを開け放つ年かさの店員。その瞬間、「ぎゃあっ!」と年かさの店員も叫んだ。


私が横から試着室をのぞき込むと、そこに下着姿の女性が倒れていた。


「立花先生!」私が声をかけると立花先生が二人の店員を押しのけて試着室に入った。


「あ、あなたは何ですの?」立花先生に聞く年かさの店員。


「私は医者です。倒れている人の容態を診ます」そう言って立花先生は倒れている女性の手を取った。


私はその時試着室の奥にハンガーにかかった一着のワンピースが吊るされているのに気づいた。値札が付いているから試着しようと持ち込んだ商品だろう。他には服はなかった。この女性が着ていたはずの私服も。


「だめだ、もう死後硬直が出始めている。蘇生は不可能だ。警察を呼んでください」と立花先生が振り返って年かさの店員に言った。


あわててレジの方に小走りで向かう年かさの店員。もうひとりの若い方の店員はその場に立ち尽くしていた。


倒れている女性はまだ若く、二十歳前後のように見えた。中肉中背の体格で、化粧は濃いめだった。


「この方をご存知ですか?」と店員に聞いた。


「よ、よく来店されるお客様です」とその店員は怖いのか横目で倒れている女性を見下ろしながら言った。


「その方は今日も来ておられたんですね?」


「はい。何着か商品を持って入られて試着しておられました」


「でも、今は一着しかありませんね」と私はハンガーにかかっている服を指さした。


「はい。試着室から私を呼ばれて、試着し終わった商品を戻すよう言われました」


「その時は特に異変はなかったんですね?それから、この方はひとりで来られていたのですか?」


「は、はい。特に変わったことはありませんでしたし、いつもおひとりです」そう言って若い方の店員は私を見つめた。


「あの、なぜあなたが私にそんな質問をされるのですか?」


「ああ、僕たちは警察の関係者なんだ」と立花先生が言った。正確には私は違うけど。


「えええ・・・」動揺する店員。そこへ年かさの店員が戻って来た。


「百貨店の本部と警察に連絡しました。すぐに来ると思います」


「あなたはこの方を今日ご覧になりましたか?」と私は聞いた。


「さ、さあ。・・・私はいつもレジの前にいるので、商品を購入されるお客様以外はあまり注意して見ておりません」と、年かさの店員も薄目で遺体を見下ろして言った。


まもなく百貨店の警備員がやって来たが、立花先生が試着室のカーテンを閉め、


「これは事件のようです。警察が来るまで手を出せません」と言って遮っていた。


「事件?殺人ですか?」と私は小声で立花先生に聞いた。


「背中に千枚通しのような細いもので刺した痕跡がある。それからチアノーゼが出ている。毒物かもしれない」


「チアノーゼって何ですか?」


「酸欠を起こして指先や唇が青紫色に変色することだよ。この人の唇は口紅を塗っているからわからないけど、指先が変色している。チアノーゼは心臓や肺の病気で起こることもあるけど、背中の傷があるから病死ではないだろう」


「細長い針金状の凶器で心臓を貫かれたんでしょうか?」


「普通の人が心臓を狙うのは難しいと思うし、心臓を刺して小さな穴を開けることができても即死はしないだろう。死ぬまでに少し時間がかかるので、倒れてうめき声をあげ、店員や客に気づかれる可能性が高い」


「だから毒殺の可能性が高いと判断されたんですね?どんな毒でしょうか?」


「それはさすがにわからない。でも、心停止を起こす毒物か、呼吸麻痺を起こす毒物の可能性が高いだろうね」


そこへ物々しい雰囲気で十人余りの警察官がやって来た。中に見知った島本刑事の顔をもある。


「おや、立花先生に一色さん?・・・ひょっとして殺人ですか?」と島本刑事が私に冗談っぽく聞いた。


「どうやらそうらしいんだ」と立花先生が言って島本刑事が目を見開いた。


立花先生に促されて手袋をはめた手で試着室のカーテンを開け、中をのぞき込む島本刑事。すぐにカーテンを閉めて現場保存をするよう警察官に指示していた。


「ご遺体を見ないんですか?」


「まず鑑識に来てもらって、現場の写真を撮って状況を記録する。その後遺体を警察署に運んで、そこで検視を行うんだ」


「すぐに遺体には触れないんですね?」


「まあ、そうだね。ところで立花先生、遺体を診られたのならご意見を伺いたいのですが」


「うん。死後硬直しか確認していないけど、死後二時間程度かな。背中に細い凶器による刺創があり、チアノーゼが出ている。誰も死亡時の異変に気がついていないから、毒物による即死が疑われるね。司法解剖が必要だよ」と立花先生が説明した。

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