第18話 青酸中毒死事件
私はまた明応大学医学部法医学教室の検査室にいる立花先生を訪問した。立花先生は私を見るとすぐに、
「島本刑事が君の意見を聞きたいってさ。いつもの小料理屋に行くことになってるんだけど、都合はいいかな?」と聞いてきた。
「はい、大丈夫です」
私の答を聞くとすぐに立花先生は帰宅する準備をして、一緒に医学部棟を出た。
何度も行って馴染みになってきた小料理屋ののれんをくぐると、すぐに仲居さんが、
「お連れ様がお待ちです」と言って私たちを個室に案内してくれた。
いつものように飲み物と料理を注文し、乾杯するとさっそく島本刑事が私に話しかけてきた。
「今日の相談は、青酸による中毒死事件なんだ」
青酸中毒の原因となる青酸カリはおそらく探偵小説の中では最も頻繁に使われている毒物だ。猛毒で、致死量を服用したらすぐに死んでしまう。私はジュースをすすりながら島本刑事の話の続きを聞こうとしていたら、
「事件の説明の前に青酸中毒について医学的に解説しよう」と立花先生が割り込んだ。
「青酸カリなどの青酸化合物はメッキなどに使われるから、それほど珍しいものではないんだ。でも、管理が厳しくなって一般人が入手するのは難しくなってきたから、実際に殺人や自殺に使われることは今では滅多にないよ」
「そうですか?昔は青酸カリの服毒による自殺が多かったと聞いたことがありますが・・・」
「以前は青酸カリなどの毒性を一般の人があまり知らなかったから、子どもが昆虫標本を作るのに使う試薬の中に含まれていて、薬局や文房具店で簡単に入手できたらしいよ」
「それは怖いですね。・・・ところがその毒性がだんだん世間の人に知られてしまって、殺人や自殺に使われるようになったんですね?」
「そうなんだ。・・・昭和十年に浅草のある小学校の校長先生が職員の給料を区役所からもらって帰る途中で、知人に喫茶店に誘われ、紅茶の中に青酸カリを混ぜられて殺害されたという事件があったんだ。そして校長先生が持っていた給料が盗まれた」
「その校長先生はお気の毒に・・・」
「そうだね。そして犯人はすぐに捕まったんだけど、大々的に報道されたために一般の人に青酸カリの毒性が知れ渡ってしまったんだ」
「その犯人は以前から青酸カリの怖さを知ってたんですね?」
「メッキ工場の知人から危険性を聞いて犯行を計画したんじゃなかったかな?」
「青酸中毒で亡くなったら、どんな風になるんですか?」ちょっと怖いけど聞いてみたい。
「青酸カリは強アルカリ性なんで、口から飲むと口のまわりや食道や胃の粘膜が爛れて出血する。さらに胃酸と反応して青酸ガス、つまりシアン化水素が発生するんだけど、これが食道を逆流して肺に入ると、酸素と同じように血中に取り込まれて、赤血球中のヘモグロビンと結合するんだ」
「一酸化炭素中毒と同じような現象ですね?」と私は前に聞いたことを思い出して言った。
「青酸の場合はヘモグロビンがまず酸化して、シアンメトヘモグロビンというのが生成される。これも一酸化炭素ヘモグロビンと同じように鮮紅色をしているので死体の皮膚や死斑の色が鮮紅色になるんだけど、一酸化炭素中毒の時ほど明瞭ではなく、死体によっては変色がはっきりわからないこともあるんだ」
「それはヘモグロビンが酸化しにくいからということでしょうか?」
「そうかもしれないね」
「探偵小説では探偵が被害者の口元の匂いを嗅いで、『アーモンド臭がする。青酸カリだ!』と指摘することがよくあるんですけど、実際に匂うんですか?」
「それじゃ聞くけど、アーモンド臭ってどんな匂いだと思う?」と立花先生が聞いてきた。
「食べるアーモンドのような、香ばしいナッツの匂いですか?」と私は聞いた。探偵小説を読んだだけでは実際の匂いはわからない。
「違うよ。甘い匂いだよ」と立花先生が言ったので、私は驚いた。
「そうなんですか!?」
「アーモンドというのはバラ科に属する植物で、
「何となく甘い香りらしいことはわかりました。・・・本によっては
「アーモンドにはスイート種とビター種があって、食べるアーモンドはスイート種の種らしい。ビター種は食べると苦いし、有毒らしいけど、その種から抽出されたビターアーモンドエッセンスはとても甘い香りがして、杏仁豆腐やケーキやクッキーの香り付けに使われるらしいよ。苦アーモンド臭とはその匂い、つまり杏仁豆腐みたいな匂いのことじゃないかな?」
「そうなんですね?杏仁豆腐は私の実家では出してないですけど、中華料理のデザートですね」
「ちなみに
「同じバラ科ですからね。・・・勉強になります」
「ちなみに青酸中毒で死んだ人から匂うアーモンド臭は、青酸ガスの匂いだからあまり吸わない方がいいんだ」
「先生もアーモンド臭を嗅いだことがあるんですか?」と私が聞いたら、立花先生は困ったような顔をした。
「・・・それがね、アーモンド臭がわかる人とわからない人がいるみたいなんだ。僕は匂ったことがあるけど、匂いを感じなかった」
「そうなんですか。生まれつきの体質なんでしょうか?」
「そのようだね。匂いはともかく、口元の爛れや皮膚の色から青酸中毒が疑われる場合は、血液を検査して青酸の濃度を調べ、致死濃度だったら青酸中毒死と鑑定するんだよ」
「どんな方法で検査するんですか?」
「まず、簡易検査として青酸の有無を調べるのによく使われるのがシェーンバイン・パーゲンシュテッヘル法。これは青酸を硫酸銅と反応させるとオゾンが発生して、グアヤク脂を青く変色させるという現象を利用した検出法なんだ」
「シェ、シェーン・・・。名前が長くて呼びにくい検査法ですね」
「そして定量するんだけど、青酸の定量法はいろいろあって、今よく使われているのがコンウェイ微量拡散法かな?」
「それはどんな方法ですか?」
「コンウェイセルという容器の内室に水酸化ナトリウム溶液、外室に血液と硫酸を入れて密封すると、硫酸によって血液中の青酸がガス化して遊離し、水酸化ナトリウム溶液に溶け込むんだ。反応が終わったら水酸化ナトリウム溶液を取り出し、ピリジン・ピラゾロン比色法や硝酸銀滴定法で青酸の濃度を測るんだよ」
「話だけではよくわかりませんが、なんとなくわかりました。ありがとうございます」と私が曖昧なことを言いながら頭を下げたので、立花先生が笑った。
「そろそろ事件の話をしていいかな?」と、それまで立花先生の説明をじっと聞いていた島本刑事が口をはさんだ。
「ええ、どうぞ」と立花先生が言った。
「亡くなった人は五十歳の男性、薬屋を経営している。同い年の妻と二人暮らしだ。四月のことだけど店番を妻に任せ、自分は店の奥にある自宅の、和室三畳間の自室にこもっていた。妻が昼食を作るために店番を代わってと夫に頼みにその部屋に入ると、夫は机に突っ伏して反応がなかった。揺すっても起きないので一一九番通報した。救急隊員が到着した時には既に死亡していて、死後硬直が生じていたので、救急搬送はせず警察に通報した」と島本刑事は警察手帳を見ながら言った。
「検視時点で死斑が鮮紅色調であったことから一酸化炭素中毒か青酸中毒を疑い、司法解剖に回されて青酸中毒であることが判明したんだ」
「その人が青酸カリを飲んだか、あるいは飲まされたのですか?」と私は聞いた。
「夫の部屋には薬棚があって、法医学検査室のようにたくさんの薬瓶が並んでいた。また部屋の隅には籠いっぱいの青いびわの実と葉が置いてあった。どうやら薬剤師である夫は自分で漢方薬や健康茶を作って販売していたようなんだ」
「薬瓶の中に青酸カリがあったんですか?」
「いや、なかった」と島本刑事。
「それに解剖時には口元や食道や胃の粘膜の爛れは見られなかった。青酸カリを服用した痕跡がなかったんだ」と立花先生が続けた。
「机の上には青酸カリはもちろん、食べ物も飲み物もなかった。その部屋で服毒や飲食をした痕跡はまったくなかったんだ」と島本刑事。
「びわの実や葉がたくさんあったようですが、それは漢方薬を作るためのものですか?」
「びわには多くの薬効があって、昔から
「それだけ薬効があるなら、取り過ぎると逆に毒になるということはありませんか?」
「それはあるかもしれないね。どんな薬も適量摂るのが肝要だから」
「え?びわに毒があるのかい?昨日家でびわの実を食べたばかりだけど」と島本刑事があせって聞いた。
「熟したびわの実には毒なんてないよ」と立花先生。それを聞いて島本刑事は胸をなで下ろした。
「熟していないびわには毒があるんですか?現場の室内にたくさんの青いびわの実があったようですが・・・」
「あるかもしれないね。さっき言ったように同じバラ科のビターアーモンドの種や
「どうしたんだい?」と尋ねる島本刑事。
「・・・青梅の毒は青酸なんだ!正確には青酸配糖体のアミグダリンだよ。青酸配糖体自体は無毒だけど、腸内細菌が持つ酵素で分解されると青酸ガスが発生するんだ!・・・もし、ビワの未熟な実に青酸配糖体がたくさん含まれていたら、それで青酸中毒になって死亡した可能性が出て来る!」
「そうか!」と島本刑事も叫んだ。
「びわ茶をその日飲んでいなかったか明日にでも聞きに行ってみるよ。立花先生には申し訳ないけど、びわの毒について調べておいてもらえないかい?」
「わかりました」
その後も会食は続いた。私が島本刑事に「今日は飛び出して行かないんですか?」と聞いたら、
「今聞いた話の通りだとすれば殺人じゃなく、誤って有毒なお茶を飲んでしまった事故の可能性が高いからね、明日になってから動けばいいさ」と島本刑事は答えてビールをぐびっと飲んだ。
後日聞いたところでは、やはりびわの種や葉には青酸配糖体のアミグダリンが含まれていた。特に未熟な実の種に多く、硬い殻ができる前の種を動物に食べられないための植物の自衛手段だろうと立花先生が教えてくれた。
島本刑事の聞き込み捜査では、亡くなった男性はより薬効の高いびわ茶を作ろうとして、成分をたくさん抽出させるために乾燥させただけの葉、未熟な実の果肉と種を粉砕したものを作り、煎じて飲んでみたそうだ。妻は苦くて飲めなかったが、夫は無理して飲んだらしい。
「普通のびわ茶なら全然問題ないんだけど、薬効の高いびわ茶を作ろうとして毒成分が過剰になってしまったんだろうね。亡くなったのは気の毒だけど、売り出す前だったのは不幸中の幸いだ」と立花先生が言った。
「青酸中毒で思い出したことがあります。松本清張が書いた帝銀事件の小説を最近読んだんです」と私は言った。
帝銀事件とは昭和二十三年一月二十六日に帝国銀行椎名町支店で起こった大量殺人・窃盗事件だ。東京都衛生課の職員と名乗る男が現れ、集団赤痢の予防のためと言って二種類の溶液を行員とその家族ら十六人に飲ませた。十二人はまもなく死亡し、犯人は多額の現金と小切手を奪って逃走した。
死因は青酸中毒と鑑定され、当初は毒物の知識と扱いに慣れている者が犯人と考えられた。しかし名刺偽造の線から、毒物の知識のないテンペラ画家、平沢貞通が逮捕された。平沢は捜査段階で三回の自殺未遂の後自白したものの、公判では一貫して無罪を主張する。しかし昭和三十年に最高裁が上告を棄却し、死刑が確定した(再審を請求しているためまだ刑は執行されていない)。
「その事件のことは僕も知ってるよ。被害者は二種類の溶液を飲まされているから死亡するまでに少し時間がかかっているし、口元や食道、胃粘膜も爛れていなかったらしい。公判では被害者が青酸カリを飲ませられたことになっているけど、これらの点は矛盾しているよね」と立花先生が言った。
「ひょっとしたら青酸配糖体のようなそれ自体は無毒な成分が入っている液体と、その物質を分解して青酸ガスを発生させるような液体を順番に飲ませられたのかもしれませんね」
「そうかもしれないね!」と立花先生は激しく同意してくれた。
「青酸配糖体のアミグダリンは青梅や未熟なびわ、
「青梅を食べると食中毒を起こすことは知っている人が多いと思いますけど、青梅を何個ぐらい食べたら中毒死してしまうのでしょうか?」
「青梅中のアミグダリン濃度がはっきりわからないけど、青梅食中毒の症状を青酸中毒の症状と比較すると、青梅を百個以上食べないと死ぬことはないだろうね。ただし、実よりも種の中に高濃度にアミグダリンが含まれるから、種は食べないという前提での話だけど」
「さすがに青梅を百個も食べられませんね。・・・梅干しの場合、種を歯でかんで割って、中の仁を食べたことがありますけど」
「梅干しになった状態ならアミグダリンは残ってないから、種を食べても大丈夫だよ。梅酢や梅酒も同じ。昔から言われているように青梅を食べないように注意すれば問題ないさ」と立花先生が言ってくれたので私は安心した。
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