第2話 無惨な遺体事件

血液型検査ミスの件で落ち込んだ立花先生だったが、とりあえず明日まで様子を見ようと問題を先送りしたことで気を取り直したようだった。現実逃避は精神衛生上良いこともある。


「せっかく来たから、君たちに解剖室も見せてあげるよ」と立花先生が私たちに言ってくれた。


私はちょっとおっかなかったが、せっかくの厚意なので見せてもらうことにした。


法医学教室から離れたところにある解剖室まで立花先生に案内してもらって中に入る。もちろん今は解剖をしていない。


「ここで被害者を解剖して、けがや病気の状態を調べて、死因を判定するんだ」と立花先生。


タイルが張り巡らされた床に大理石の解剖台が設置してあり、その近くの台上には様々な解剖器具が置いてあった。解剖台や器具や床は水洗いされており、血痕や血の匂いはなかったのでほっとした。


設備を一通り説明してもらった後で私は立花先生に質問した。


「ある探偵小説で、被害者が致命傷を負っていることに気づかずに自室に鍵をかけてしまい、密室内で死んでしまったというお話があったんですけど、そんなことって実際にあるんですか?」


「致命傷に気づかないなんて、どんなまぬけな被害者なんだよ」と神田君がツッコんだ。


「そんな小説があるのかい?・・・でも、そういうことがないこともないよ」


「ええっ、本当ですか!?」立花先生の言葉にみんなが驚いて聞き返した。


「頭を強く打撲すると頭蓋骨と脳の間に出血することがあるんだ。その出血量がおよそ六十CC以下だと、脳と頭蓋骨の間に出血が広がるだけで死ぬことはない。もちろん、頭を打ったから頭の表面が痛いって感覚はあるよ。それ以外に気持ち悪いとかの症状がないから、たいした傷じゃないと本人が思って行動しているうちに出血量が増えていって、血の塊が脳を圧迫して死んでしまうってことがあるんだ」


「・・・あるんですね、そんなことが」


「鍵がかかった部屋の中で、頭を殴られた痕があるのに周囲に凶器がないって状況なら、警察が首をかしげることもあるかもしれないね。実際はその部屋に入る前に頭を殴られていたんだけどね」


「死因を調べる上で探偵みたいな推理力が必要な場合ってあるんですか?」と聞く神田君。


「法医学の鑑定はね、解剖所見や検査結果を積み重ねて真実を推論していくものだから、探偵の推理とは違うものだけど、そういう推理力が欲しいなって思ったことはあったよ」


「何か不可思議な事件があったの、一樹兄さん?」と兵頭部長が聞いた。


「うん。・・・不可思議な事件ってわけじゃなく、ちょっと引っかかった言葉があっただけなんだけど、さっきの血液型のことで洞察力を見せてくれた一色さんと君たちの意見を聞こうかな。・・・コーヒーを淹れるからあっちの部屋に戻ろう」


私たちは立花先生に連れられて検査室に戻った。その片隅にある立花先生の机の周囲に木製の丸椅子を並べて私たちが腰かけると、立花先生は実験台の上にあったガスバーナーでやかんのお湯をわかし始めた。


さらに薬品棚の中からインスタントコーヒーの瓶と縁が欠けたコーヒーカップを出した。


インスタントコーヒーの瓶を傾けてカップの中に粉を落とし、さらに薬品棚から「蔗糖サッカロース」と書かれた茶色いガラス瓶を取り出して、薬さじで中の蔗糖(砂糖の主成分)をすくってカップに入れた。


わいたお湯をカップに注いでくれる立花先生。・・・コーヒーを淹れてくれたのはありがたいが、蔗糖と間違えて何かの毒物を入れてしまうことがありそうで心配になった。


「実はある司法解剖を行った時のことなんだけど」と立花先生が話を始めた。


「解剖室に警察官が遺体を搬入し、助教授の先生が執刀して始まったんだ。僕も解剖助手をしていたんだけど、解剖に立ち会った刑事調査官が遺体を見て、『無惨だ・・・』とつぶやいたのを聞いたんだ」


「刑事調査官というのは死体を取り扱う警察の専門職で、初動捜査の指揮をとる人のことさ。階級で言うと警視だね」と兵頭部長が説明し、立花先生の方を向いた。


「無惨って、残酷だとか、いたましいとかいう意味だよね。遺体の状況や亡くなった人を悼んでそう言ったんじゃないの?変な言葉じゃないと思うけど」


「でもね、その遺体はあまり傷がなくてきれいな状態だったから残酷とは言えなかったし、その刑事調査官は経験豊富な人で、司法解剖にもよく立ち会っていつも事務的に事を進める人だったから、感情移入したような言葉がとても意外に思われたんだ」


「悲しんでいるような表情でしたか?」と私は聞いた。


「いいや。どちらかと言うと人ごとのような口ぶりだった」


「じゃあ、亡くなった人が親戚とか、親しい知人とかいうことはなさそうですね」


「そうだね」


「むざんやなかぶとの下のきりぎりす」と神田君が俳句を詠んだ。


「松尾芭蕉の句だね」と立花先生。


「横溝正史の『獄門島』という推理小説では、その句に見立てた殺人事件が起こるんだ」と兵頭部長。


「解剖された人は殺人事件の被害者だったんですか?」


「いや、ただの事故だったよ。解剖結果から事件性はないと判断されていた」


「解剖に慣れていて、いつも事務的に立ち会っている刑事調査官がその時だけ『無惨だ』と言ったんですね?亡くなられた方は刑事調査官の親しい人じゃないけれど、以前から知っていた人のように思われますね」と私は言った。


「何か思いついたのかい?」と兵頭部長が私に聞いた。


「ええ。・・・その亡くなられた人は若い人だったんですか?」


「ああ。学生さんだったよ」


「なら、知人の息子さんとかで、その息子さん本人とは会ったことがないけれど、知人の心情をおもんばかってそう言ったんじゃないかな?」と神田君。


「なるほど・・・」と立花先生が考え込み、神田君は我が意を得たりと微笑んだ。


「刑事調査官は、教授と親しいのですか?」と私は立花先生に聞いた。


「うん。職務上の関係だけじゃなく、昔からの知り合いで、よく一緒に飲みに行っていたようだよ。親友と言ってもいいのかな?」


「それが何か関係あるのかい?」と兵頭部長が聞いた。


「それはおいといて、学生さんで、事故で亡くなって司法解剖された。・・・ひょっとして、昨日司法解剖された人ですか?」と私は単刀直入に聞いた。


「そ、そうだよ。・・・わざとぼかしていたけど、よく気がついたね」


「刑事調査官の思いがけない一言。・・・その時は意外に思われたかもしれませんけど、何日も経てば忘れそうなことですから」


「じゃあ、血液型検査をやり直させられた人なんですね?」と神田君。


「そうだね」


「解剖は助教授が執刀されたということですけど、教授は普段はあまり解剖されないのですか?」


「いや、七割くらいは教授が解剖して、教授が教授会や出張などで忙しい時に助教授の先生が代わりに執刀するって感じかな?僕も執刀させてもらうことはあるけど、名目上は教授か助教授の先生が執刀医なんだ」


「昨日は教授に用事があったのですか?」


「さ、さあ。・・・知らないけど、また有田教授が関係してくるのかい?」


「ただの思考ゲームのようなもので、真実だと主張するつもりはありません。・・・ただ、教授が血液型検査のやり直しを命じ、再検査したら違う結果が出ました。抗血清が入れ替えられていたために・・・」


「血液型がB型と判定されたら困るからじゃないかという話だったね」と神田君が口をはさんだ。


「解剖結果や検査結果は遺族に報告するのですか?」と私は立花先生に聞いた。


「司法解剖は警察か検察官から依頼されて行うから、そちらには報告する。遺族には死亡届に付随している死体検案書に死因などを記入して渡すから死因は知られるけど、血液型は問い合わせでもされない限りわざわざ遺族には伝えないよ」


「もし遺族から教授に血液型の問い合わせがあって、教授がB型だったと答えたくなかったら・・・」


「A型だと嘘をつく?」と神田君。


「でも、法医学教授という刑事捜査に関わる職務上、調べられればわかる嘘をつくのは抵抗があるのかもしれませんね」と私は言った。


「しかし、立花先生が『A型だった』と検査結果を報告していれば、真実ではないとわかっていてもA型だと遺族に答えやすいでしょう」


「万が一血液型が違うことがばれても、一樹兄さんに責任を転嫁できるから?」と兵頭部長が言って、立花先生がぎょっとした顔をした。


「そこまで立花先生に責任を負わせようとは思ってないでしょう。教授としては血液型をA型で通したいでしょうから」


「いったいどういうことなんだい?もったいぶらないで説明してくれよ」と神田君がしびれを切らして言った。


「さっきも言ったようにあくまで想像ですから、真実ではないと思いますが」と私は前置きしてみんなに物語調で話し始めた。


「ある学生がいました。彼の血液型は両親の血液型の組合せからA型のはずでしたが、実際はB型でした。本当の父親は別人だったのです。本当の父親は前からそれを知っていて、その事実を親友に打ち明けていました。


 その学生は不幸なことに若くして事故で亡くなりました。司法解剖をすることになり、血液型も調べられましたが、その結果が戸籍上の父親に伝わることを怖れた本当の父親は、抗血清をすり替えて結果をねつ造しました。


 その本当の父親は自分の息子である学生の解剖には参加しませんでした。いえ、息子を失った悲しみで解剖できなかったのでしょう。本当の父親の親友である刑事調査官は、職務上司法解剖に立ち会いましたが、親友の気持ちを思って『無惨だ』とつぶやきました・・・」


しばらくの沈黙の後、神田君があせって口を開いた。


「そ、その推理だと、教授が死んだ学生の本当の父親ってことになるけど・・・。学生の母親との間に不義の子を作ったのかい?」


「これは私の想像です。フィクションです。何の証拠もありません」と私が言うと、


「そうだね。おもしろいフィクションだよ」と立花先生と兵頭部長が言って笑い合った。目は笑ってなかったけど。


それを見て私と神田君も追従笑いをした。


「そ、そろそろおいとましようか?」と兵頭部長。


「そうですね。立花先生、今日は見学させていただきありがとうございました」


「ありがとうございました」と神田君も頭を下げた。


「ああ、なかなかおもしろかったね。またいつでもどうぞ」と立花先生はにこやかに言ってから、私の方を向いた。


「一色さん、君はなかなかおもしろいね。今度一緒に食事にでも行かないかい?」


口笛を吹く神田君。私は顔が熱くなった。


「そういうことなら僕がキューピッド役を務めよう」と兵頭部長。


「部長、悪のりしないでくださいよ」と文句を言う。


「いたってまじめさ。・・・それにしても刑事調査官の一言からあれだけ推理するなんて、ケメルマンの推理小説の『九マイルは遠すぎる』みたいだね」


『九マイルは遠すぎる』という小説の中で、友人が主人公に、ある文章から事実とまったく異なる結論を引き出すことができると主張する。そこで主人公が『九マイルは遠すぎる・・・』と思いついた例文を言ったところ、その言葉から意外な真実が導き出されるという傑作小説だ。


「いえ、とんでもない。血液型検査の一件があったからああいう推理・・・いえ、想像ができたんです。あの言葉だけではそこまで考えられませんでしたよ」


そして私たちは今後のミステリ研の活動について話し合いながら部室に帰った。


で、なぜか一週間後に私は立花先生と街の食堂で一緒に夕食をいただいていた。学生も利用するような食堂で、メニューにお惣菜が豊富にあることに好感が持てる店だった。お店の規模は実家のラーメン屋と同じくらいだ。


「事後報告をするよ」とビールを飲みながら立花先生が言った。


「君が見学に来た日の翌日、僕が検査室に出勤して確かめると、印をつけておいた抗A血清と抗B血清が入れ替わっていたよ。やっぱり僕が帰った後で誰かが元に戻したんだね。マジックの表記もご丁寧に書き換えてあったよ」


「そうですか。・・・それでどうされたんですか?」


「もう一度血液型の表検査を行ったよ。今度は最初と同じB型と判定された」


私は立花先生の顔を見つめた。


「そして教授室に行って、『また検査を間違えていました。やっぱりB型でした』と報告したよ」


「それで教授の先生は?」


「有田教授は『わかった。鑑定書にはそう記載するよう助教授の先生に伝えておく』とあっさりと言ったんで拍子抜けさ。それ以上こちらからは何も言えず、それでうやむやになってしまった・・・」


「正しい検査結果を伝えたからそれでいいんじゃないですか?」と私は言った。


「私が考えたフィクションなんて、冗談でも話せないですからね」


「うん。・・・ただ、その後教授は知り合いの葬式に参列すると言って大学を早退したよ」


「そうですか・・・」


しんみりした顔をした私に向かって立花先生が微笑んだ。「それより今度の日曜日に映画でも見に行かないかい?それとも遊園地がいいかな?」


「え?え?」私の顔がまた熱くなった。


こうして私は立花先生と知り合い、法医学に関するお話をいろいろと聞かせてもらうようになった。ただ、実際の犯罪事件に関わるようになるのはまだ先の話である。

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