第14話 余分

 雄大は大学からの帰り道、いつもより多めの食料をコンビニで買ってから帰宅した。

「ただいま」

 マンションの一室、とても広いとは言えない部屋で一人の男が暇そうに寝転んでいた。すでに出してあったこたつには入らず、横に寝転んでいるのでより狭そうだ。

「飯を買ってきたぞ」

 そう声を掛けると、寝転んでいた男、卓也がむくりと起き上がった。そして時計を確認してこんな時間かと頭を掻く。

 卓也は誘拐されたと気づいた時、ああ、この人ならばやり兼ねないなと思ったものだ。

 ちなみに意識を取り戻したのは雄大の車の中で、すでにこのマンションに向かっている途中だった。それほど軽いわけでもない自分をどうやって運んだのか。膝や肘を擦りむいていることから丁寧には運ばれなかったようだというのは解る。

「藤川さんは」

「それは俺じゃない」

「じゃあ」

 どうして自分を誘拐したんだよと、ここは大人しくしておいた方が無難と思う卓也は、差し出されたコンビニの袋から唐揚げ弁当を取り出しながら疑問を向ける。残りはかつ丼で、どうして揚げ物ばかりと卓也は不満だが仕方ない。しかも、誘拐されても日頃の食生活と変化がないとは悲しいものだ。

「俺はこのままだとお前が狙われると思っただけだ。だからあの写真だって、お前に渡したんだぞ」

「――へえ。いい人そうに見えてそういうことをするんだ」

 つい警戒が薄れてそう言ってしまった。すると日頃は柔和な雄大の顔が、鬼のように真っ赤になって厳しいものになる。ここでケンカを売っては負けるのは自分だ。そう気づいて卓也は首を竦める。

「たしかにあれは姑息な手段だった。だが、俺は大塚が何をやっているのか知りたかっただけなんだ。あの才能の秘密を、ただ覗いてみたかっただけだ」

 しかし、雄大は怒り出すことはなく、大きく息を吐き出してからそう弁明してきた。

 やっぱりこの人ってどこまでもいい人なんだろうな、と卓也は思う。それと同時に、暢希に対して並々ならぬ思いを持っていたとも知った。

「それで隠しカメラを仕掛けていたんですか。たしかに入り口から大塚の席はよく見えますもんね。それに、あの脅していた現場はまさに大塚の机の前だ」

 まったく、あいつって色々と大変だったんだなと今になって思う。期待が大きいだけに何をしているのか、今どう考えているのか誰もが気にしていたのだ。それに一つ一つ答えるだけでも大変だっただろうに、自分のやりたいことを貫いていたのだ。毎日朝早く来て、そして遅くまで研究していたのも、気兼ねない時間が早朝か深夜にしかなかったからではないか。

「で、藤川さんはどこに行ったんです。それに俺が狙われるってどういうことですか」

 がさがさと唐揚げ弁当を開けながら、目の前に座った相手に問い掛ける。しかし、雄大は残ったかつ丼を食べ始めた。それでも半分ほど掻き込むと

「今回のこと、大塚のことが話題になったのは、当時の部活のメンバーの誰かが言い出したからだって解っているだろ。あの件を知らない米田君は最初からこの件に関与出来ないんだし。ってことは、残りの連中が共謀して何かやってんだよ」

 解り切っているだろうと、雄大は疲れたように溜め息を吐く。慣れないことをしたせいで精神的に疲弊してしまっていた。

「残りって、浦川先輩も共謀しているのか。嘘だろ」

 それこそ信じられないと、あの写真を撮ったのが雄大だと解ったせいで余計に反発してしまう。

「いいや。むしろ積極的にやっていると考えるべきだよ。おかしいと思わないか。あのペン、最初の藤川さんのものを発見したのは浦川先輩だろ。しかも大塚の噂が出た時、我関せずとやる気ゼロだったのも怪しい。というか、他に大塚のことが話題になって他の犯行をする理由のある人間がいない。あの人が大塚と一悶着あったのは確かだ。となると、自殺に関して何か知っていると考えるのが妥当じゃないか」

「でも、どうして。それにあの現場は何だったんですか」

 疑いようのない事実だとしても、伸行の行動は理解しがたい。卓也は唐揚げを割り箸で突きながらどう処理していいのか解らなかった。

「さあな。俺だって解らないんだよ。一応は映像で撮っていたものの、音声まで入れていなかった。研究を知るのが目的だから、そんなものが必要だと思いもしなかったし」

 すでにしゅんとなってしまった雄大の声は小さい。大胆なのか肝が小さいのか解らないな、と卓也は頭が痛くなる。

「ううん。解らないですね。あれが何らかの脅しの現場だとしてですよ。浦川先輩は一体何を恐れているんですか」

「恐れていることはあるじゃないか。あの噂が広まって、最も追い詰められているのは論文を加工した奴らだと思わないか」

 もう答えてくれないのかと思っていたら、雄大は唸るようにそう言った。

 加工。その言葉に卓也はやっぱりかと思う。

「あれ、どう考えても、大塚のオリジナルではないですよね」

「ああ。誰かが物理学的要素を削ぎ落とした。他に考えられない。大塚の論文が世間から注目されるのを恐れたんだ」

 決定的な一言に、卓也はそうだよなと大きな溜め息を吐き出す。

「大塚の論文に関して、俺は関わっていない。だから納得できないんだ」

 黙り込んだ卓也の考えていることなど、疲れ切っている雄大でも見通せる。だからきっぱりと言っていた。

「本当ですか」

「ああ。俺だってあの論文が話題になるまで読んでいなかったんだ。だから、あれが物理学に役立つってのも知らなかったし、そもそも物理学の研究だったって、今回のことで初めて知ったんだよ」

 睨む卓也に、だから事情を深く知るお前が狙われるはずなんだよと雄大は溜め息を吐く。この件で最も神経を擦り減らしているのは雄大だなと、その溜め息に卓也は睨むのを止めた。そしてようやく唐揚げを口の中に放り込む。

「あいつは数学をずっと志すつもりでしたよ。どういうわけか、物理学に大きく惹かれるところもあるらしく、自分の中で色々試したいって言っていました。でも、あいつが憧れていたのはペレルマンであって、ペンローズではないですよ」

「なるほどね。天才は天才に憧れる、か。しかし死んでもなお、まだ先にいるなんてね。いつになったら、俺は、俺たちは大塚の背中に追いつくんだ」

 雄大の呟きに、卓也ははっとさせられる。それだけこの人は暢希に惚れ込んでいたのかと、自分を守ろうとしたという言葉に嘘偽りがないのだと気づかされる。

「そうですね。俺たちは全然、暢希に追いついていない」

 卓也は自嘲的に笑うと、弁当を食べることに集中していた。




「ほう。連続行方不明事件ですか。そんな面白いことが起こっていたなんて。しかもこれ、警察には言っていないんですね」

 こんな時間まで暢希の死について考えていたのかと確認したところ、誘拐事件が発生しているらしいと教えられ、落合はわざわざ高校まで来た甲斐があったと、記者魂の疼いて思わず喜んでしまう。が、英嗣に優しく微笑まれて背筋を正した。怒られると思ったらしい。

「いや。然るべき時が来たら、ぜひとも記事を書いてもらいたいと思ってますよ。この件をちゃんと外に報告する必要はあるでしょう。その時は頼みます」

 でも憶測で書くのは駄目だと、ちゃんと事件が収束するまでは書かないことを約束させる。ちゃっかりした人物なのである。

「これも大問題なんですよね。犯人はどうして初めに寺井さんを誘拐しなかったんだろう。藤川さんと大塚さんはそれほど仲良くなかったんですよね」

 どうにも最初の誘拐が余計な要素に見えるんだがと廉人が言うと、確かにそうですねと啓輔も同意した。

「確かに余計と言えば余計です。でもまあ、あれで大塚君のことに目が向いたのは確かです。しかし、それならば寺井君を誘拐する方がインパクトが大きかったはずですけど」

 啓輔の意見に、その場に揃った面々は頷く。

 たしかに何故理那が誘拐されたのか。それを説明できる要素が暢希と同じペンを持っていた、というだけというのは弱い感じがする。というより、ペンはたまたま利用できただけなのではないか。それに暢希のペンを犯人が今までずっと隠し持っていたというのにも違和感がある。

「現場はどこか特定されているんですか」

 そこで落合がはいっと手を挙げて質問する。しっかりメモを取り出しているところから、本気で何か記事にするつもりらしい。

「高校であることは間違いないですよ。現に藤川さんのカバンはこの教室で見つかっているらしいですし」

 玲明はそうですよねと英嗣に確認する。

「そうだね」

「となると、誘拐された場所は簡単に特定できますね。数学部は事件以降、部室の場所が変わっている。そして、かつての場所は物置になっています」

「あっ」

 そこに理那が踏み込んだことで犯人に目を付けられた。そう考えるのが妥当なのだ。廉人の指摘にこれまた一同は頷く。

「となると、行ってみるしかないだろうね」

 廉人にさらっと言われ、玲明以外は思わず額を押さえていた。そんなに近くが現場だったのかと、まさに灯台下暗しの状態だ。

 廉人を先頭に、かつての部室へぞろぞろと移動する。そこは確かに倉庫になっていて、ドアにカギは掛けられていない。

「どうぞ。足の踏み場が少ないんで、気を付けて」

 先に中に入った廉人が電気を点けながら注意をする。不要となったものをぽんぽんと放り込んでいるせいで雑然としているのだ。

「確かにこれは何の痕跡もないくらいに倉庫ですね」

 興味深そうに中を覗いた落合は残念がるように言う。ちょっとは雰囲気でも残っているかと思えばそれもないのだ。雑然と広がる段ボールの山。不自然さがあると言えば、窓側の一か所だけあまり荷物が置かれていないことだった。

「あそこにソファがあったのか」

「ああ。さすがに遠慮があるのかあそこに荷物を置く人は少なくてね」

 廉人の指摘に、玲明は心理的に無理なんだよと説明した。そこに暢希の何かが残っているなんて思わないが、やはり人が亡くなった場所という遠慮が生まれる。

「これだけ散らかっていたら何かあっても気づかないか。それに事件の痕跡も消えてしまうかな」

 廉人はそれよりもと、ここが理那の誘拐場所かどうかの検証にさっさと入った。こいつに遠慮はないなと、玲明も同じように探す。死はどうあっても不可逆であり、そこに何かあると思うのは人の心理によるものでしかない。

「あっ」

 段ボールの山の隙間を丁寧に見ていた廉人と玲明は同時の声を上げる。そこに落ちていたのは、ここにあるはずがないハイヒールの右足分だった。

「これって、正門前で発見されたという藤川さんの履いていたもののもう一方」

「そうですね。たしか左足だったと思います。まさかここだったとは」

 推理ではそうとしか考えられないとは言うものの、本当にここだと思っていなかった啓輔は素直に驚いてしまう。犯人の推測ではここに来るのは卓也一人だったということか。

「これで誘拐事件の概要は掴めてきたな。本来ならば大塚君のことを気にしている寺井君がやって来るだろうと、犯人はここで張っていた。しかし予想に反して、寺井君より先に藤川さんがやって来てしまった。おそらく先に中で待ち構えていた犯人は、このままでは見つかるかもしれないと考え、咄嗟に犯行を切り替えることになった。ま、そんなところかな」

 なるほどねと、ここまでで解った内容を廉人がまとめる。

たしかに自殺に懐疑的だった卓也ならば真っ先にここに来るだろうと、誰だって予測するものだ。しかし、それよりも先にやって来たのが理那で変更を余儀なくされた。これほどすんなりと納得できる説明はない。

「それで片一方ここで失くしてしまったハイヒールを使って、わざわざ誘拐事件が起こっていることを印象付けたわけですか。犯人も苦労しますね」

 犯罪って割に合わないですねと、落合はそんな感想を漏らす。たしかに余計な労力を払ってまでやることに何の意味があるのか。今のところ犯人の意図が解らないので尚更奇妙にしか思えない。

「となると、犯人は最初からペンは用意していたってことか。あれ、大塚さんの持ち物だったならば、藤川さんが持っているのは不自然だし」

 それこそ卓也を誘拐しなければ繋がらない話だったのでは。そう気づいた廉人はどう思うと玲明を見る。

「ああ、そうか。そのシナリオを変更してしまうと犯人には不都合だったんだな。運よく藤川さんが同じタイプのペンを持っていたことで、上手く話が繋がっているだけなんだ」

 偶然のおかげで犯行が今まで矛盾していると気付かれないままだったのかと、玲明も犯罪って面倒なんだなと思考が妙な方向を向いてしまう。

「あの、皆さん」

 何だかまとまりかけてますけどと、そこで落合はまた手を挙げた。

「どうした?」

「そうすると、今度は寺井さんの誘拐が余分になってませんか」

「――」

 まだまだ真相には遠いらしい。それに気づいた一同は、思わず溜め息を吐いて黙り込むのだった。

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