第2話 幼馴染と

 そこは寮と言うより、社宅に似た作りの建物だった。

「管理人も、園長が兼任しているから、男女入り乱れての入居なんです。だから、ここの部屋にトイレやお風呂、キッチンもついてて、その代わり、少し家賃は払っていますし、近くの孤児施設の従業員も入居しています」

 案内してくれた事務の女性は、ようやく名乗った。

長谷川瑠衣はせがわるいと申します。この間二十歳になったばかりなんで、歓迎会ではばっちり飲めます」

「よろしく、エンです」

 笑顔での自己紹介に短く返したエンは、その後ろで小さく舌打ちした男に苦笑する。

「四月末まで、辛抱してください。目こぼししたら、律さんに怒られますから、耐えて」

「言われんでも、耐えている」

 籠った声を上げる水月の心境に構わず、長谷川瑠衣はその夜、夜勤ではない寮の入居者に声をかけ、歓迎会を開いてくれた。

 水月を含む数人の未成年と、ご老体の管理人は端に追いやり、成人した男女の中に紛れて、エンは久しぶりの感覚を楽しむ。

 酒が場を和ませ、色事の話が持ち上がる中、入居者の一人がエンにすり寄った。

「あんた、モテるだろ」

「いいえ」

「嘘だろ、絶対。くそっ。その顔でモテないなら、オレたち全員、無理じゃねえかよっ」

 絡まれて苦笑する男に、男従業員が縋りながら泣きまねをする。

「理不尽だよな、中身が大事なんて、絶対嘘だ。世の中、顔なんだ」

「まあ、そうかもしれないですね。あなた方だって、女性はまずは外面で好きになるでしょう?」

 縋られながらもびくともしないエンは、それなりに呑んでいるのに、全然乱れがない。

「ぶっちゃけた話、どうなんですかあ?」

 訊いてきたのは、長谷川瑠衣の隣で飲んでいた、中年の女だ。

「恋人、いるんじゃないんですか?」

「いえ、今の所は……」

 言葉を濁した男に何かを察し、瑠衣が目を輝かせた。

「聞かせてください、恋バナ」

 困って天井を仰ぐエンに、他の女子も身を乗り出した。

 そして、代表で瑠衣が尋ねる。

「初体験は、いつですか?」

「こら。何故、何もかもすっ飛ばして、そこから訊く?」

 つい話に割り込んだのは、それまで会話を聞き流していた水月だ。

 聞き流しながらも、未成年組と管理人とで盛り上がっていたのだが、余りに生々しい話になりかかっているのを察し、待ったをかけた。

 他の者たちのそれは興味深いが、そいつのは不味い。

「男女どちらのそれを、ご希望ですか?」

 穏やかにもはっきりと話してしまう男だと、そろそろ分かってきていたのだ。

「おい」

「男性の方で、お願いいたします」

 しかも、瑠衣が躊躇いなく食いつくと、知っている。

 つい膝でエンににじり寄り、拳でその腹をついた。

「男の方の初体験……確か、あれは……」

 指折り数えているところを見て、これはシャレにならない年齢だと、気づいての制止だ。

「それは、この時代に暴露していい話じゃない。控えろ」

「あ、そうですね」

 我に返った男に安どの息を吐き、水月は咳払いした。

「最近は、誰かと付き合ったことが、ないのか?」

「最近、ですか?」

 期待半分の複雑な問いかけに、エンはしばし考えた。

 話すべきか迷う間ではなく、本当に思い当たらないらしい。

「……」

 苦い顔になる男に構わず、エンが答える。

「でも、少し前なら、二つほど」

「え? それは、どっちですか?」

「どちらも男です」

 酒盛りをしている男たちが、水を打ったように静かになっているが、女たちは構わない。

 黄色い声を上げ、中年の女が更に問う。

「どういう殿方だったんですかっ?」

「一人は、故人です。もう一人は……妻子持ち?」

 女たちが何故か、低く歓声を揃えた。

「男同士の、不倫。新分野?」

「いいえ、結構、出回っています」

 ひそひそと話す声に、エンは小さく声を上げて、訂正した。

「故人の方も、あの頃はまだ、妻子持ちでした。あの後すぐに、寡夫になって娘さんも亡くなったんですけど」

「つ、つまり、奥様を亡くされた方を、あなたが慰めたんですねっ」

「……そんな綺麗な話にまとめられると、違うような気も……」

 首をかしげるエンの前で、女たちは楽しそうだ。

「……この手の恋バナは、男女のつもりで聞け。じゃないと、神経をやられるぞ」

 固まってしまった男の従業員たちに、水月はありがたい忠告をする。

「相手は女だ。そう思って聞けば、意外に楽しめる」

「……お前、猛者か」

 かなり年下の若い男に、入居者たちは一気に一目置いた。

「いや、そんなことで一目置かれても、嬉しくはないぞ」

「いいではないですか。信頼されるのは、悪い事ではありません」

 管理人の老人が笑いながら言うと、水月は目を細めて返した。

「お前が、信頼を語るか?」

「……何のことでしょうか?」

 笑顔のまま返す老人を見据えたまま、水月がエンに声をかけた。

「エン」

 返事を返すことなく、グラスを床に置いたエンが立ち上がった。

 立ち上がりざま天井に飛び上がり、天井板を叩き破る。

「ぎゃーっっ」

 けったいな悲鳴と共に、破れた天井の上から、誰かが落ちてきた。

 丁度、誰もおらず何も置かれていない床の上に、軽く振動を立てて落ちたのは、大柄な男だった。

 巨体と言っても障りないくらいの大柄で、ずんぐりとした印象がある。

 日に焼けた肌と、大きな茶色の目が印象的な愛嬌のある顔が、床に這いつくばりながらエンを見上げていた。

「……例の話の、襲撃者、ですか?」

「違うだろう。ガタイのわりに、迫力がなさすぎる。体つきが体つきだから、力はあるだろうが、それだけだ。そうだろう、楠木?」

 見下ろしながらの男の問いに、水月は答えながら額を手で押さえた楠木を見た。

 それを受け、老人が溜息を吐きながら頷く。

「……施設を退所し、今年近くの職場に就職した子、です」

「え、あ……」

 孤児院の方の従業員である男の一人が、その侵入者の顔を見て思い当たって声を上げた。

まがね君、か? あれ、何で君が……」

 目を丸くしただけの面々の中で、瑠衣だけが顔を強張らせて身を縮めていた。

「え? どちらさん?」

「天井裏に住んでいるのか?」

 しれっと水月が問うと、鉄と言われた男は震えながらも頷いた。

 いや、嘘だろ。

 疑う面々の中で、瑠衣がおどおどと確かめる。

「ほ、本当に? 誰かに付きまとっているとか、そういう事じゃなく?」

「は、はい」

 怯んだもののそう言い切ったのは、傍に立つ男二人の威圧に負けての事だったが、若い女は安どの溜息を吐いた。

「騒がしくし過ぎたから、様子を伺ってたんですね」

「そ、そういう事だろう。お騒がせな子だ。ちっとも成長がないな」

 園長も笑って言ったことで、保護施設の方の従業員たちも、躊躇いながら納得した。

 空気で、そうした方がいいと感じたようだ。

「そ、それは悪かったな。新顔が珍しすぎて、騒がしくし過ぎてしまった、こちらも悪かった」

「でも鉄君も、帰っていたのなら、一言声をかければよかったのに」

 無理に笑いながら納めにかかる入居者たちを、新人二人は冷静に見つめていた。


 木造の二階建ての社宅づくりのこの寮は、かなり古いらしい。

 穴の開いた天井の奥は、大の大人が動きまわれる隙間があった

「……築三十年です」

「だから、張り手一つで、天井が破れてしまったんですね。修理代は、いかほどで済むでしょうか?」

「いえ。それは……」

 穏やかに言うエンに、老人が恐縮して断りを入れているその前で、鉄と呼ばれて大男が身を縮めて正座していた。

 その目の前のエンの足元に、水月が胡坐をかいて座り、その大男を見据えている。

 大きな体を精一杯縮めた男は、一見ではどの獣の血を継いでいるのかは分からないが、エンは一つだけ確信している。

「……草食の、巨大獣」

「当たりだが、その目はやめろ」

 呟きを拾った水月が、苦い声を後ろに投げた。

「いつもと、同じ目のはずですが」

「何処がだ。もう料理法を模索している目だ」

 初めての指摘に驚く男を仰ぎ見、水月が呆れて言う。

「……そんなに分かりやすいのに、誰も指摘したことがないのか? 馬、だ。本土の馬と、最近こちらに移ってきている、異国の馬の混血だ。異国の方の血が、濃いんだろう」

「馬……馬刺ししか、思い浮かばない。日本に、染まり過ぎたか」

「だから、やめろ。まだ、片づけるとは決めていない」

 音が聞こえそうなほどに青ざめる大男の前で、小柄な男が溜息を吐く。

「事情を聞いてからだ。あの場は取り繕えたんだから、今の内に話を合わせるためにも、正直に話せ。天井裏に住んでいたわけじゃあ、ないんだよな?」

 あの取り繕いで、事情を知らない事務の女性が納得してくれたからいいが、そうでなかったら大混乱だったことだろう。

 聞いてみると、長谷川瑠衣の住まいは、この真上なのだと言うから、本当に危ない。

「……オレたちが、ここに案内されたときから、既にいたよな? まさか、この寮の誰かに、付きまとっているのか?」

「ち、違いますっっ」

 鉄は慌てたように首を振り、事情を話した。

「ここに住む女性の事務員さんが、見知らぬ男二人を連れてここに入るのを見たから、何かあってはと心配で……」

「不法侵入したと?」

 楠木老人が頭を抱えているのを背に、水月の声が更に冷たくなった。

「確かに、昼間とは言え、人気のないここに男二人と女一人きりで入れば、問題の一つも起きるやもと思うのは分かるが、だからと言って、事情が分かるほどの時間、その天井裏にいたくせに、何故出て行かなかった?」

「そ、それは……」

 おどおどと目を泳がせ、大男は老人に救いを求める。

 縋るような目を向けられ、楠木が溜息をともに説明した。

「どうやら、長谷川君に思いを寄せているようです」

「ほう」

 更に冷たくなる声音に、鉄が更に体を縮める。

 その様子を見ながら、エンは首を傾げた。

 幼馴染の女性を嫌っている割に、水月は先程から当の女性を気遣っているように見受けられる。

 話では、それこそ学校に通うようになってからずっと、彼女の揶揄いを受けていて、気遣う理由が見当たらない。

 首をかしげている背後の男に、水月は振り返らぬまま言った。

「小学校に上がった年から揶揄いの的だったが、あの女が揶揄ってきたことは、一度もない。中学に上がった頃から、気の合う友人たちとオレをネタに話しているのは知っていたが、陰口より小さいもんだった。本人たちに聞こえぬよう控えめに、自分たちだけで満足する話なら、別に気にすることもないだろう」

 だが、無関係でもなかった。

「そのこっそりと話していた話を、例の騒動の女子どもが、面と向かって言って揶揄ってき始めたから、大本の原因ともいえるが、あの女自身には何の遺恨もない。だが、あの女も友人たちも、罪悪感を抱いていたようだ。面倒なんで、無関心という事にしているんだが」

「……成程」

 瑠衣が思うほど、嫌われてはいないという事らしい。

 エンは頷いてすぐに首を傾げた。

 その話題を再び持ち出したという事は、今の状況が思わしくない理由に、関係しているという事か。

「あの女がその手の話に染まった原因が、小学五年の時の不審者の出没、だったんだ」

 不審者。

 息をのんだエンから、鉄の方に向き直ると、大男は話の成り行きを想像し、青ざめた。

「そう、オレやあの女が住まう辺りに、丁度お前ぐらいのガタイの不審者が出没した時期があって、どうやら、その被害に遭ったらしい」

 当時、一人でいる小学生を、奇声と共に追い掛け回す男、という事で注意喚起の知らせがあった。

 瑠衣も、弟を保育園に迎えに行った帰りに、その男と遭遇してしまったのだ。

「獣と、知能が発達していない大の大人、どっちが厄介だと思う? 獣の方は、逃げずに気を強く持って目を合わせて、少しずつ後退する対処法がある。勿論、狂った獣は別だし、獣によっては逆効果の場合もあるが」

 だが、その手の人間は違う。

「逃げなかったら逃げなかったで、何故かそこだけ発達している余計な本能が、動く。逃げれば追い、止まって見据えても捕まえて欲を満たす。ある意味、獣よりも害獣だ」

 大声で叫んでも、それで興奮される可能性もあり、取り押さえるか本当に痛い目を見せるかしか、術はない。

 それも、鉄くらい大きな男では、相当の腕力がある相手でなければ、出来ないだろう。

「どうやら、最悪な事態は逃れたようだが、相当恐ろしい目に遭ったんだろう。あの後しばらく学校を休んでいたし、通学している生徒たちにも、登下校どちらも送迎がついた。不審者の方もそれを察したのか、あの辺りには出なくなった」

 瑠衣は、一週間ほど休んだあと、何事もなかったかのように登校してきたが、万全に回復したわけではなかった。

 全く関係ないクラスの男子生徒たちに、怯える仕草が目立つようになった。

 危害を加えられないと安心した頃から、ああいう趣味を開花させた。

「……もしや、同性の恋愛ものを、読むようになったんですか?」

「ああ。しかも、お前ぐらいの男が、オレのようなちんけな男に、押し倒される類の奴だ。そうすることで、留飲を下げているんだ」

 それに、と水月は部屋の端に押しやられた自分の荷物を指した。

「あの中にも入っているんだが、あいつ、自分でも書いてる」

「……持っているんですか?」

「ああ。大男と小柄だが強い女の、過激な性描写の小説として読めば、オレも溜飲が下がるんだ。コミック化した時は、流石に手を出さなかったが」

 絵にされては、思い込めないとひとしきり嘆き、男は表情を改めた。

「そういうことで、お前はそのガタイからあの女の恋愛対象には、なりえん。諦めろ」

「そ、そんなっ」

 悲痛な声を上げる男に溜息を吐き、水月は黙ったまま立ち尽くす管理人を振り返った。

「あの女、まだ独り身か?」

「はい」

「最近、浮足立ってないか? そろそろ、話が進みそうだと、そう感じていたんだが」

 そう切り出され、元施設の生徒だった男に悲しそうな目を向けていた楠木が、天井を仰いだ。

「そういえば、休日にいそいそと、出かけることが多くなりました。少し前までは、それこそ部屋に籠って出てこなかったようなんですが……」

「ああ、矢張りか。色々と解決したからな。それならば一気に、事が進むかもしれんな」

「もしや、長谷川さんには、既に将来を約束した方が、いらっしゃるんですか?」

 楠木が目を見張って言うと、鉄が悲鳴に似た音を立てて息をのむ。

 その背後の声に構わず、水月は無常に頷いた。

「こちらに男の方が落ち着いたら、大きく事が進むんじゃないのか? あの女の事だから、結婚しても仕事は続けるはずだから、今以上の人手不足は、心配しなくていい」

 冷静な水月の言葉に、鉄の悲痛な泣き声が重なる。

 これは、どうしてやることもできないと、楠木は苦笑しつつも、事務員の退社危機が取り越し苦労と太鼓判を押されたことには、心底安堵した。


 天井はそのままに、明日以降対処してもらう事にし、今日は別の空室で休むことになった。

 しょぼんと肩を落とし、一回り小さくなった大男の背中を見送り、楠木も送り届けると、あてがわれた部屋に床を延べる。

仮部屋は六畳の板間で、寝起きするだけの部屋としては十分な広さだが、水月と二人で枕を並べることになると思うと、エンはとても気が重い。

「真夏じゃなくて、幸いだな」

 その程度の感想しか持たない男に、娘婿と認識されてしまった男は素朴な疑問を投げた。

「先程の、不審者の話ですが、どうやって収めたんですか?」

 布団の上で大きく伸びながら腰を落ち着けた水月は、気のない声を出す。

「何の事だ?」

「あなたが、長谷川さんを助けたんでしょう?」

「違うぞ」

 当然の疑いに、即答が返った。

「ですが、立ちすくんでしまったのなら、弟さんがいたとしても被害が最悪にならなかったのは、おかしいです。勿論、最悪にならなかったのは、良かったとは思いますが」

「本当にな。知った時はひやりとしたもんだ。だが、どうやら最悪な事態になる前に、助けはあったようだ」

 それは、人ではなかったようだと、水月が言い切った。

「? 人ではない、とは?」

「正確には、物、が救ったんだ。ある男が、偶々長谷川家に行き、あの女に会った。その時に何かを感じたんだろう。お守りを持たせていたんだ」

 当時中学生だったその男は、欠席した長谷川家の長男に、宿題などを届けにやって来た。

 親しかったわけではなく、単に帰り道の途中に、長谷川家があるからと言う理由で押し付けられ訪ねた先で、本当に偶々何かを感じ、放っておけないとついつい、お守りを渡した。

「その不審者な、座り込んだ姉弟の前で、大泣きしているところをお縄になった。双方怪我がなく、大事に至らなかったと言う言い訳で、すぐに釈放されたが」

 あ、と思い当たった。

「それを知っているという事は、その後ですね? あなたが動いたのは?」

「まあな」

 にやりとした男は、簡潔に言った。

「奴は、小さい子ですら、怯えの対象になった。実の親たちにも怯えて暴れるようになったんで、ようやく入院させることを、両親が納得した」

 入院費は馬鹿にならないだろうが、前の住所でも色々とやらかし、その度に金で口止めしていた経緯が明らかになり、その程度の金ぐらい、捻出できるだろうと両親に納得させた。

「ペットの暴走は飼い主の責任と言うくせに、似たような暴走をした人間を、対策も練らずに養っていた奴は、責任を負わなくてもいいなんて、虫がよすぎる。子供の頃からその片鱗があったのに放置していたなら、尚更だ」

 この世から抹消されないだけ、まだ優しいと言い切る水月に、その問題は難しいとエンは唸る。

「突発性でなく、財力があれば対処可能でしょうから、言いたいことは分かります。ですが、生まれてからずっと介護し続けていた子供を、自分の死後の不安から手にかける話も、責任を放棄しなかった美談には、なりにくいんですよね」

 人任せを良しとしないのを、遠慮ととるか自己満足ととるか。

 こんな問題、昔は思い浮かびもしなかった。

 自分よりもはるかに小さい子供を、どんな状態でも長く生かしたい、その思いが先に浮かんでしまうものだった。

「これも、平和な世になった、弊害でしょうね」

 未だ、平和とは程遠い国もあるが、この国の状態は、平和すぎた状況の、末期とも思える。

「……と言うより、何故、ここでこんな難しい話をする状況に、持っていくんだ」

「ん? 何か言ったか?」

 唐突に、地口で呟いた男の言葉を、珍しく水月は聞き逃した。

「いえ、何でもありません。それより、あれで諦めてくれれば、いいんですけどね。下手に付きまとうようになったら、今後色々と面倒です」

「……まあ、そうだな」

 取り繕う穏やかな笑顔を浮かべたエンに、目を細めながらも頷き、小柄な男はここに身を寄せることになった、本業の内容を反芻する。

 血が薄くなって、関心すら持たれないはずの子供たちが通う保育園に、特異体質の子供が入園した。

 連れてきたのは、父方の遠縁を名乗る、その子の血筋の四代前の異形と人間の混血だ。

 子供が両親を事故で亡くしたのを機に引き取ったのだが、どうやらそれが原因で、元祖返りを起こしたらしい。

 昔は視えなかった物や人に化けた者が、つぶさに分かるようになり、保護者となったものの正体にも気づいてしまったようだ。

「保育園に通うのは、先祖に異形や獣の妖しがいる、小学校に上がるまでの児童たちだ。その子は今、二歳か。物心がついていないからこそ、異形の保護者に得体のしれぬものを感じ、怯えているんだろう」

「はい。そのようです。いずれ、自分を守る者だと、認識してくれればと、保護者の方も願ってはいますが、今はまず、これ以上、力を増幅させないよう、離れている時間を増やそうと言う考えの様です」

 快く受けた保育園側だったが、預かりだして数日で、いつもの保育だけでは済まない事が、判明した。

 その相談を受けたのが、水月の養い親の方で、それを律が養い子に回した。

 丁度いい案件だろうと。

 その上で律は、ある男に提案したのだ。

「年頃になったら、義務教育を受けるため、小学校にも通う事になる。保護者の意向で、この近場の小学校に入学予定だが、孤児院の子供たちを通わせるときのように、穏便に生活させられるか、不安なんでな、その手の事に得手の者を、教師として派遣できる手はずを、最近整え始めた」

 突然、今回ここに来た経緯を語り始める男に、エンは目を丸くしていたが、続く言葉で目を剝いた。

「その人材が偶々、その男なんだ」

「は?」

 どの男の事かと、一瞬間抜けな声で聞き返したが、すぐに思い当たった。

「つまり、オレも知っている男が、長谷川さんの恋人、ですか?」

「本人同士会ってはいないようだが、男の従妹とは連絡を取り合って、時々会っているようだし、就職話も知っているはずだ。ただ、先は長い。教員免許を取るために、大学に入学しなければならんからな。留年せずに卒業し、あの学校に採用されるまで、気が抜けない」

 だが、この一年、全然会えず、連絡すらできなかったのを考えると、近くで様子が知れる状態になった今は、瑠衣にとってはありがたいはずだ。

「あの、その男性は、長谷川さんを女性として認識しているんですか?」

 それこそ、一方的なのではと心配するエンに、水月は少しだけ考えて答えた。

「それは知らんが、嫌ってはいないだろう。オレらより一つ年上の従妹が仲良くしていたし、他校出身の術師繋がりの女子とも、折り合いがいい。何より、従弟が預かって来たあの女の手紙を、幸せそうに読んだ上に、ずっと枕元に置いていたからな。まあ、ああいう言い方をしておけば、あの馬には抑止力としては使えるだろう」

 一方通行の恋ではないと、はっきりとは言い切れないのは、水月の恋愛不足のせいだが、それを聞くエンも、それを責められるほど豊富ではない。

 やんわりと笑いながら話す思い人の父親を見ながら、エンはついつい、全く別な感想を抱いてしまった。

「……青春ですねえ」

 水月の感情は、何処までも親目線なのだが、年齢を考えると幼馴染の将来を気遣う友人そのものだ。

 呟いて微笑んでしまった男を見咎め、水月が怪訝な顔をしたが、寝る前に小言はやめようと気を取り直し、さっさと寝ころんだ。

 明日からは、いよいよ始動開始だ。

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