96、花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
最近の高齢者は元気だな。
叔父たちを見ていると感心する。
私が本業の合間に動画配信していると聞きつけた叔父から、編集方法について教えて欲しいと連絡があった。友人と映画製作するのだという。
独身の叔父はもとより趣味人であったが、映画を作るだなんて。映画は観るだけのものだと思っていたから、驚きだ。パソコン教室に通ったり、近隣の大学の映研の学生と交流もあるらしい。映画作りの仲間だと紹介されたのは元同級生だという女性で、いい雰囲気だ。独身の先輩として同じ穴の
彼らと比べてなんと私の冴えないことか。休日は大体家に引きこもっている。
趣味の小物作りについて製作過程を動画配信したところ、多くも少なくもない人が見てくれて、多少の購入希望を受けるようになり、暇さえあればちまちま手を動かしている。
家から出ないから出会いもなく、いっそう婚期も遠のく。まあ、小物製作をしなければ何か別の素敵なことがあったのかというと、はなはだ疑問だが。どのみち無為に過ごしていることだろう。それならば今の方が空隙を埋めて、自尊心を少しでも満たしているのだから、上々か。副業といったって、週末の晩酌がわずかに豪華になる程度の収入にしかならないけれど。
そんな隠遁者みたいな凪の日々だったのに、ここ数ヶ月はバタバタしている。
実家で見つけた一通の手紙のせいだ。
印鑑が見当たらなくて、家中の引き出しを漁っていたところ、偶然発見した。母宛の手紙。弁明すると、悪気があって他人の私信を覗いたわけじゃない。事務的な封筒で差出人の表示がなかったから、万一借金の督促など、娘の私が知らぬところで厄介事や詐欺なんかに遭っていないかと心配しただけだ。たまに役所からのお知らせも封を切らずに忘れていたりするし。高齢の親を持つ子なら、誰でも中身を確認すると思う。うん。
手紙は、想像よりも厄介なものだった。だから、いけないと思いつつも最後まで読んでしまった。
送り主の男は、母の昔の恋人らしい。
男の妻が亡くなったという報告ではじまるその手紙からは、母が昔その男と不倫関係にあったことが読み取れた。男の手紙は煮え切らない。思い出話ばかりで、だから縒りを戻したいのか、そうではないのかはっきりしない。ただ、私の父親がその男であるらしいということだけが分かった。
まず、戸籍謄本を取りに行った。父の欄には、あの男ではなく長年育ててくれた父の名前が記載されていた。
そうだよな。婚姻中に生まれた子は嫡出推定で夫婦の子として戸籍に載るもんね。不倫相手の子だとしても、出生から一年以内に嫡出否認の訴えをしなければそのままになる。ネット検索のにわか知識で首肯する。
「ねえ。叔父さんは、私がお父さんの子じゃないって知ってたの?」
だから、鎌を掛けてみた。叔父が何も知らなければ、冗談だと笑って済ませればいい。
けれど、人の好い叔父はあっさり白状した。
私が母と不倫相手の子だという事実は、当時親族内で大いに問題になったらしい。当然父側の親族は離婚すべきだと口を揃えたが、父が強く反対した。離婚したところで、相手の男も家庭のある身だ。子どもに不憫な思いはさせられない。なにより、父は母を愛していたのだろう。叔父はそう言った。針の筵でぽつんと項垂れる母を、父が懸命に庇ったのだと。「まあ口が悪いから、返す刀で悪気なく奥さんを切ったりもしてたけど」と叔父は苦笑した。
目に浮かぶようだった。「寂しい思いをさせた俺が悪い」と言う一方で、「こいつは高卒で考えが足りないところがあるから」とか無自覚にへいきで言っちゃう人だ。家族で慣れていてさえ、しょっちゅう腹が立つ。欠点といえば、そんなところだ。
父は昭和の頑固親父だが、情に篤い人だ。従兄弟である叔父のことも、一人っ子でさびしかろうと本当の弟みたいに接して、いまだに世話を焼いている。だから、血の繋がらない私のことも愛情深く育ててくれた。いままで父が父であることを疑ったことなど一度もない。
疑う隙もないくらいに、愛情も時間もお金も掛けてもらった。自分の子でもないのに。そう思うと、途端に申し訳ない気持ちが湧いてきた。
血の繋がりもない私のために、父の人生の多くを犠牲にさせてしまった。
今までは、いつか結婚して子どもを産むことが親孝行になると思っていた。両親の血を絶やすことなく次へ繋げること。けど、そうではなくなってしまった。私が子を生んだところで、父の血を継承することにはならない。
ならば、私にできることといえば、父を自由にすることではないか。今更もう遅いかもしれない。けど、叔父たちを見ていれば、今からだって何でもできるのだと思う。自由さえあれば。
母の方はどういうつもりだったのかは分からない。けれど、折しも母から、父と離婚しようかと考えていると相談された。引き止めてほしかったのだろうか。分からないが、「いいんじゃない」と私は答えた。
もしも手紙の件がなかったら、私はどう返事しただろう。父は口が悪く、日頃から
母に手紙のことを話そうとしたが、結局切り出すことができなかった。
母を糾弾するつもりはない。私が物心ついた時にはもう、不倫の影などなく、両親からは惜しみない愛情を受けた。親戚の集まりでも居心地の悪い思いをしたことはない。思い返せば確かに母は父方の祖父母宅に行く時には同行しないことも多かったし、親族の雑談の輪からも一歩退いていた気がする。けれど、内向的な性格だからだと納得する程度の、違和感にもならないものだ。父の大立ち回りの甲斐もあろうが、もともと情深い一族なのだろう。
仕事のトラブルで連日残業が続き、ようやく収束して定時帰宅できた日、ついに母が父に離婚を切り出した。
父は顔を真っ赤にして声を荒げた。
静かに譲らない母、口角泡を飛ばす父。埒が明かないので、二人の間に割って入る。
「お前は関係ない、引っ込んでろ」
そう言われてカチンときた。関係ないってなによ。
「いつもそう。お父さんは傲慢だよ」
思わず日頃の本音をぶつけてしまった。父は傷ついた顔をした。けど、もう何もかもどうでもいい。皆傷つけばいいんだ。
大体私だっていつも傷付けられてきたし。「嫁き遅れ」だなんて、父はへいきで酷い言葉をいう。デリカシーがない。
父から受けたひどい仕打ちを思い出そうとすればするほど、遊園地に連れて行ってもらったこととか、誕生日の贈り物とか、成人式の日には酔っ払って「こんなに大きくなって」と泣いていたこととか、幼い頃晩酌する父の膝の上でシーチキンの缶詰を分けてもらったこと、魚肉に紛れた小さな骨がコリコリして美味しかったこととか、そんなことばかり思い出される。だから、「もういい」と話を断ち切って、「行こう」と母を連れて部屋を出た。
玄関に置かれた花束を見て、今日が父の定年退職の日だということに思い至った。そんな日になんてことをしてるんだって泣きそうになったけど、今更引き返せない。
家を出た。
それで、父は自由になるはずだ。私も、母も。なのに。
連休を使って、「実の父」の顔を見に行った。
手紙の末尾に記載されていたマンションの前の喫茶店で張り込みをした。部屋の入口が見える席に陣取ったけれど、三日間まるで出入りがない。よもや孤独死でもしてんじゃないかと心配した四日目にようやく男が出てきた。しょぼくれたじいさんだ。
スーパーに寄って、惣菜なんかを買い込んでマンションに戻る。他に寄るとこないのかな。自分の成れの果てのような気がして見てられない。一人暮らしの割にはずいぶん買い込んでいる。また当分引きこもるつもりだろうか。と思っていると、夕方、中年女性が男のマンションを訪れる。小さな男の子を二人連れて。孫を出迎えた老人はくしゃりと破顔した。
彼らの背中を見届けて、私は喫茶店をあとにした。もう来ることもない。なんの感慨もなかった。
ウィークリーマンションを借りた母は、毎日のびのびしている。もともと専業主婦だったから、生活の何が変わったのか、私にはよく分からないけれど。
「お父さんから手紙が来てるよ」
「うん」
とだけ言って、母が受け取る。
ずいぶん分厚い封筒だった。母が封を開けると、便箋と、折畳まれた書類と小さな紙切れが出てきた。書類は離婚届のようだ、と思ったら胸がざわりとした。母が置いてきた離婚届、突き返されてきたのか、それとも夫の欄も埋められているのか。
書類を脇に置いて、母は便箋を開く。
さり気なく覗いたが、文面は読めなかった。母の表情からも何も読み取れない。
「これあんたに」
二枚あった小さな紙切れのうち、一枚を渡される。
「なにこれ」
大学の演劇公演のチケットだ。
「お父さん、出演するんだって」
「はっ?」
「見に来てほしいって」
いや全然意味が分からない。父が演劇に興味があったなんて聞いたことがないし、映画どころかテレビドラマを観ている姿さえ見たことがない。私も意味分かんないわよ、と母は言った。何してんだ、あの人は。
かくいう母も、家を出てから婦人会のコーラス部に入会したようで毎週いそいそ出掛けて行くし、暇さえあれば音楽や合唱、ボイストレーニング動画を見漁っている。来月には発表会があると言って、フォーマルウェアを新調していた。発表会の映像を動画配信したりできるのかしら、なんて訊かれもした。この年代がパワフルなのだろうか。おちおちしていると彼らに使われているうちに日々が過ぎていってしまいそうだ。聞き流して、手元の小物製作に精を出した。
「お母さんは見に行くの」
正直、私は「演劇する父」に興味しかない。めっちゃ観たい。
母は返事をせず、書類をこちらに寄越す。
「これ捨てといて」
離婚届を手渡されてほっとする。けど、母の手にはまだもう一枚残っている。離婚届って勝手に増殖するんだっけ。
離婚届を一枚手元に残したまま、母はチケットを手に取る。捨ててしまうのだろうか。はらはらしたけれど、チケットはそっと手帳の間に挟まれた。母はもう一枚の離婚届については少し持て余したように考えたあと、とりあえず引き出しに入れといて、と言った。
「あの手紙も処分しとくよ」
さり気なく言ったつもりだったけど、顔を上げると母は振り返ってじっと私を見つめている。
「てか、燃やす。あんなんいつまでも置いとくもんじゃないよ、女々しいの」
返事がないのは承諾の意だと捉えて、コンロを点火して、火が移った手紙を古い鍋の中に放り込む。あとで鍋ごと捨てよう。
「あんたも口悪いわね。お父さんそっくり」
大きな溜息とともに母が言う。「情深いところもよく似てる」と。
「案外大胆なのはお母さん譲りだよ」と返すと、母は「そうね」と笑った。
「いつお父さんのところに戻るの」と聞きたかったけれど、夫婦のことに割って入るのも野暮な気がして、聞くのはよした。親が離婚しようが、血の繋がりがなかろうが、私の両親はこの二人なのだ。もしも父が嫌がったところで、私は生涯そう思っている。
一連の話を誰かに聞いてほしいけれども、親族に言うのは憚られるし、友人や同僚に語るにはなかなか重い。それで、映画編集の手伝いをする合間に、叔父のパートナーの女性に聞いてもらった。
「まるでドラマみたいねえ」
話を聞いた彼女が感嘆する。私は平凡な人生を過ごしてきたから、実際大変なんだろうけどちょっとヒロインみたいで憧れる。不謹慎でごめんね、と言って彼女は小さく舌を出す。あまり深刻ぶった感じにならないのが有難い。
「その話で映画の脚本書いてもいい?」
彼女が言う。
「だめです」と答えたけど、いつかはそんなのもありかもしれない。直接伝えるのは気恥ずかしいけれど、映画の中でなら両親への愛を伝えることもできるだろうか。とはいえ、こんなどろどろの話は両親も親族連も天国へ旅立ってからだな。と考えて、その頃には映画製作している叔父も彼女ももういないかもしれないんだなと思う。活動的な彼女達を見ていると年齢を感じない。
そう言うと、「若い子には負けるわ」と彼女は笑う。「若い子」とは私のことらしい。
「平日遅くまで働いているのに、アクセサリー作ったり動画配信したり、本当パワフルね。とても私にはできないわ」
彼女は言った。私のこと、キラキラ輝いているって。
「そんな、私なんて。私なんかがキラキラしてるなら、皆キラキラですよっ」
そう返すと、彼女はにこにこ微笑みながらじいっとこちらを見つめてくる。……?
「あっ。梨壺さんもキラキラして素敵です!」
察しの悪い私が慌てて言うと、「でしょ」と彼女はいたずらっぽく笑った。
なんだか本当に、世界は案外美しいものなんじゃないかという気がする。
誰も彼も一生懸命に生きていて、それはとてもキラキラしたものだ。
どろどろじゃなくて。キラキラした世界の中で、私が作ったアクセサリーや小道具で着飾って、父がくさい演技をして、母が少しずれたソプラノで歌う。そんな映画も面白いんじゃないか。
言ったらすぐに実現されそうな気がして、それを彼女に提案するかしまいか、水滴が光るクリームソーダを飲み干すまでにゆっくり考えることにした。
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