72、音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
その人はすごく声がいい。
うちの会社がシステムを外注している先の人で、システムトラブルや定期点検の時などに電話のやり取りをすることがある。電話応対した女子社員は皆口を揃えていい声だと絶賛する。いわんや声フェチの私をや。
とはいえ、誰も彼の姿を見たことはない。彼の会社からうちに定期的にメンテナンスに来るが、彼自身がやって来たことはない。声だけでこれだけの評判になっているのだから大したものだ。
低く落着いたトーンで、穏やかな話し方をする。質疑応答も理知的で、こちらがシステムの不具合内容を上手く伝えられない時も、的確な質問によって現状を明文化してくれる。
声の感じから二十代後半から四十頭だとの見方が多い。いつも電話に出るから新人だという意見もあるし、いや、実際に来訪しないのは管理職だからだと五十オーバーと見る向きもある。要するに、彼の正体は誰も知らない。
今までに、何人か電話口で彼を食事に誘った猛者もいるというが、いずれも玉砕したらしい。断り方がスマートで女慣れしている感じだった。妻や恋人がいるとは言わなかったのに、遊びの関係は間に合ってるってことかしら。噂が噂を呼ぶ。現在予想されている彼の人物像は、世慣れた遊び人らしい。
とはいえ、彼の会社の社員に訊けば、彼がどんな人か分かるだろうし、もしかしたら写真くらい見せてもらえるかもしれない。そう思って、メンテナンスに来た時にさり気なく声掛けたらね、その人と意気投合しちゃってさあ、今度食事に行くのっ。きゃあ、すごいじゃーん。上手くいったら、その彼の知り合いと合コン計画してよ。いいねえー。
同僚達の話題はもうすっかりよそへ行ってしまった。こっそり聞き耳を立てていた私は、こっそり溜息をつく。
彼の声が聞きたくて、
だって、困る。
先日、彼と電話でやり取りをした時に、告白された。君の声が好きだって。一度食事に行きませんかって。
そんな噂話は聞いたことがない。誰の誘いも断るんじゃないの。想定外だ。どうすればいいか分からない。その時は驚いて、返事もせずに電話を切ってしまった。その後何度か仕事の用事で電話の機会はあったが、いずれも別の人が応対した。ほっと胸を撫で下ろしたいところだけれど、あれ以来ずっとそわそわしている。どうしよう。
だって、私は彼の「声」が好きなのだ。
その声で「好き」なんて言われたら、本当に好きになってしまうじゃないか。どんな人かも分からないのに。いや、そのために食事に行くのか。でも、行く時点できっともう彼のこと好きになってしまってる。というか、あれからずっと彼のことばかり考えている。どうしよう。怖いのだ。彼が声のイメージと違うかもしれないことじゃない。私が、彼のイメージと違ってしまっていたら。
「おい、システムエラーが出たから、取り急ぎメンテナンスに電話してくれ」
課長が名指しで私に指示する。
「はい」と答えて、私は受話器に手を伸ばす。まるで電話するきっかけを待ちかねていたみたいに。
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