「百」物語――愛のうた

香久山 ゆみ

1、秋の田の仮庵の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 ここが今日から二人の愛の巣だ。――小さくてボロボロでまるで小屋みたいな家だけれど。

 口には出さなかったけれど、そんな顔をしてしまっていたのだろうか。

「この家よりひどい家はそうそうないからな。ここからは我が家は良くなる一方だぞ」

 まるで大凶のおみくじを引いた時みたいなことを、夫がからから笑いながら言う。私はこの人のこういうところが大好きだ。こんな彼だからこそ私を貰ってくれたのだ。これからは二人で協力して、いつか街で大きな家を買うんだ。

 と思っていたのだけれど、現実はそう甘くない。ボロ家はボロ家なりの出費が嵩んでなかなかお金は貯まらない。雨漏りはするし、虫も入ってくる。夏は蒸し風呂みたいだし、冬は隙間風。結露もひどい。一つを直すとまた別の悪い所が出てくる。

 結局、この家で出産もした。長男が生まれた日には大雪のせいで産婆さんがうちに辿り着けずに肝を冷やした。けれど、その長男もすくすく健やかに成長した。元気過ぎて飛び跳ねた拍子に床に穴を空けたくらいだ。

 その時に夫が折角だからと言って、家族で床下にタイムカプセルを埋めた。互いに宛てた手紙を書いたけれど、その後床を塞いだから、当然掘り出せぬままだ。それとも夫は、大きな家へ越してこのボロ家を解体する際にでも掘り起こそうと考えていたのだろうか。

 けれど、いまだに私たち夫婦はこの家にいる。

 子供の学費や入院費など、なんやかやの出費で家を買うほどの蓄えはできなかった。けれど、私は満足だ。子供が希望する通り進学させてやることができたし、家族旅行であちこち出掛けた。孫もできたし、息子は都心に一軒家を建てた。お嫁さんも気兼ねないし、孫達も遊びに来てくれる。「ボロ家だあ」と正直なのは私に似たのかもしれない。「おばあちゃん見て!」と、山で捕まえた虫を誇らしげに見せてくれる。

 こんな幸せなことはないわ。ねえ、あなたもそうでしょう? 夫に問い掛けると、遺影の夫は大好きなあの笑顔を返してくれる。

 けれど、この家はひとりで住むには少し寂しいわ。思い出があまりに賑やか過ぎるから。

 楽しいことも悲しいことも全部詰まっている。この家にもずいぶん手を掛けたから、あの時直した床は少し軋むけれど、まだまだ抜けそうもない。あなたはタイムカプセルになんて書いたんだろう。読みたいな、けど私が読むことはないだろう。

 息子は年老いた母を心配して同居を勧めてくれる。けれど私は断った。あなたとこの家で最後まで過ごしたいから。

 ほたほたと袖に水滴が落ちる。

 この家だからよかった。この家だからこそ、家族で身を寄せ合い密な時間を過ごすことができた。「どんどん我が家はよくなるぞ」、夫の言葉はこういうことだったのかもしれない。重ねた時間の分だけ、この家は素晴らしくなった。私にとってこの家以上の家なんてない。

 噛み締める幸せが溢れ出るみたいに、ほたほたと温かい涙が頬を伝った。

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