第31話 励恋我徠竈

 僕は、逃げれた。逃げれて、しまった。

 どうやって自分がここにいるのか、それも思い出せない。無我夢中だった。自分より大切な人が、全身全霊で叫んでいた。言葉なく、血も想いも魂も込めて、全力で僕に向けて。


“逃げろ”


 ただそれだけを、行動で示した。

 そばにいたはずの人間もいつの間にかいなくなっていて、だから僕は逃げた。

 

「……うぅ……」


 だけど、苦しくて蹲ってしまう。胸が頭が心が、苦しくてたまらない。

 僕は、だって僕は、逃げたかったわけじゃないんだから。


(は、るか……はる、か……はるか、遥っ!!)


 想い人の名を、何度も心で形にする。何度も何度も、心が擦り切れるほどに叫ぶ。叫んで、熱くなる胸を押さえる。

 何回叫んだかわからなくなって——やっと、やるべきことがはっきりとした。


「そうだ……僕……遥以外の誰にも、捕まらない」


 捕まえて、僕は遥にそう言った。でも違うんだよ。本当は……


「……僕が、遥を捕まえたい」


 だったらもう、逃げることは許されない。

 誰が許さないのかなんて決まっている。


「僕の“大好き”が、絶対に許さない……!」


 恐怖を殴りつけ、僕は立ち上がるための想いを噛み締めた。





     †††††





「誰やいうてもなぁ。ただの中年ヤクザとしかなぁ」


 聞き覚えのある言葉遣いと口調。侵入前に界理付近で会話していたであろう、聞き馴染みのない関西弁を使う男か。そういえば私が侵入したとき、それらしき姿を見た気がする。いつの間にか消えていたが。


「隠れて……」

「おお、正解! 一目見てわかったわ、嬢ちゃんバケモンやって。絶対敵わんて確信したんですわ。そらもう、逃げるしかないやろ」


 間違ってなかったわ、男はそう言って笑った。


「いくらヤクザいうても、要らんプライドで全滅するんはなんやしな。なーんも残らんなんて笑い話にもならへんもん」


 男は周囲を見渡し、あちゃーと声を上げる。


嬢ちゃんじぶん強すぎるんやない? ヤクザやったら頭使わんとどうしようもないですやん。ラスボスみたいな——」

「おい」


 私の呼びかけには、感じている不快感がこれでもかと表れていた。

 直接声を交わせば、私は感じてしまう。


「お前……ヤクザじゃないだろ。この、嘘つきやろう……」

「……へぇ」


 “寒い”んだよ自称中年ヤクザ。

 バレっバレだよ、その顔も声も薄っぺらい偽りでしかないってのは。

 龍善レベルではないが、それに近しい虚偽を男から感じる。私に偽り死に近づけようとする意思が、私の体に突き刺さるんだ。

 男はケタケタと笑い声を響かせ、愉悦を示すように手を鳴らした。


「いいなぁ、嬢ちゃんじぶん。んでもはずれ、こっちはいろいろあっても正真正銘のヤクザなんですわ。まあ、その『いろいろ』が複雑なんやけどな。くっはは、嬢ちゃんおっかない。どーこで判断したんです? いやまあ、ヤクザもん浅いんで話し方やろか」


 知らねえよ。

 寒いからわかっただけだ。人間を騙して悦に浸る見下げた空気が、神経を逆撫でしてくる。

 ……ああでも、もう一つだけあるか。


「お前……自己中だよ」


 私が発した、たった一言。

 笑みを深くした男が、周りに向けて視線を巡らせる。私の言葉の意味を、正確に読み取ったのだろう。


「なるほどなぁ。まあ軽く見てたし、囮にして逃げましたわ。そんでも嬢ちゃんにわかるもんか、


 こいつが自分で言った通り、男は見下していた。

 私をじゃない。仲間であるはずのヤクザ達をだ。


『要らんプライドで全滅するんはなんやしな』

『ヤクザやったら頭使わんとどうしようもないですやん』


 男の何気なく口にした発言が、暗に軽蔑を表している。

 私はそれが気に入らない。気に入らないからヤクザと認めず、それが“寒さ”とも合致した。回らない頭で、そう導き出した。

 こんなふざけた奴が私と死闘を終えたヤクザの仲間ヅラをするのは、はっきり言って不快の極み。“熱”をぶつけ合った敵は立派で、断じてお前みたいなクソッタレと同類ではない。

 だから、男がヤクザを貶めることなど許容できるはずがないだろう。


「さっすがの《才能》やなぁほんと! 死にかけでも天才かい! 実際見てもまだ信じられんかったけど、これは認めんといかんなぁ。作りもんでも、天然に劣らん価値がある。ここに来た甲斐があるってもんやん! くっはは、あの白髪スーツの思惑通りっちゅうことかいな!」


 ああ、うざいな。

 意味わかんないことを喚かないで欲しい。


「さっさと、私、殺せよ」

「そんな悲しいこと親御さん悲しむで。んー、まあでも、ほそスーツの筋書き通りっちゅうのも気に入らんしなぁ。言われたんやし、ってもいいやろ」


 男が床から、カランと何かを拾う。少しばかり回復した目を信じるならば、バールだろうか。

 

(……っ!?)


 死を想像した瞬間、胸から波紋が全身に走った。

 それは“寒さ”。あまりにも急激に、私を犯していく冷気。それがいつもの寒さならば、私は顔色一つ変えることはなかっただろう。

 だけど今私に広がる“寒さ”は、私を支配しようとしていた。

 感覚と身体が、私の意思を離れようとしている。

 目的は明白。

 目の前の男を、殺害すること。


(ム、ゲン……? 何してんだよ……)


 生存本能の暴走でなければ、何らかの意思が働いている。そしてこんなことできそうな奴、私は一人しか知らない。

 頭に染み込む“怒り”。ここで怒る奴を、私は一人知っている。

 夢で出会った、ムゲン以外に考えられない。


「っ……!」

「うわ、まだ動けるん? やっぱ常人の限界超えとるなぁ」


 “寒さ”が私に根を張り、限界を超えた身体を動かそうとしている。

 人体の限界など、とうに超えている。私自身がそれを認識していた。

 それでも、“寒さ”が身体を操り男を殺せると、私はどうしてか確信できている。


(やる意味ないだろ……ムゲンも無駄なこと……)


 激しい苛立ちと、感情的な不満の波。

 ああ、わかるよ。この不快な関西弁男が気に食わないんだろ。私だって同じだ。

 でもだからって……


“いやだ。気に入らない”


 そんな言葉が、胸を振るわせる。

 我が儘なまでに感情的な、ムゲンの想い。何故か幼い私の顔で頬を膨らませる、記憶にない顔が思い浮かんだ。

 だからまあ、肯定し賛同したくなった。

 一度目を閉じ、全身の筋肉を確認する。痛み血を噴いても、確かめるように力を流し込んでいく。

 大丈夫、“寒さ”が疲労を滲ませている。燃え盛るような“熱”は遠いが、僅かな間ならば動けないことはない。


(まあ起き上がるとこまでする。あとはムゲンが好きにしてくれればいい。……じゃあ、やって————)


 腕と腹筋に力を入れ、男に向けて目を開いた私は……


「……ああ、そうか」


 すぐさま脱力して床にへばりついた。

 胸の奥から、疑問と心配が伝わる。

 だが、私はもう動くつもりはない。動く理由を失ってしまった。確信を得て、未練みたいなものが消えてしまったのだ。

 視界が回復して男の向こうに見えた、無人の椅子。私の大切な人が拘束されていた椅子。

 私は首だけを動かして、男を見上げる。


「ん? こんのかいな?」

「なあ、界理は逃げたのか」


 腕を振り上げていた男は、そのままの姿勢で背後に振り返る。


「ああ、おらんくなっとるなぁ。こっちは嬢ちゃんに全員やられたし、まあ逃げた以外考えられんやろ」


 男の言葉に、私は口元を緩ませた。


「逃げたか……ありがとうクソ野郎」


 クソ野郎で思い浮かんだのが界理なんて、口には出せないな。今なら男に言ったことになるだろう。

 満足感が私を満たす。やり遂げたと、心が喜びに震えている。


(なあムゲン。私もう満足だし、少し疲れた。ああほんと、未練がなくなった)


 少し間を置いて、体に根を張っている“寒さ”が形を失っていく。ムゲンも、私に賛同してくれたか。

 しかし胸から広がる、『本当は望んで……』という心配と疑問。

 言いたいことはわかっている。私がソレを望んでいなかったとは言えない。


(でも、界理に助けて欲しいなんて、強欲すぎるだろ)


 確かに夢見たかもしれない。心の何処かで願ったかもしれない。

 だけど実現したら私自身が、私と界理を許さない。

 界理が私を助けに来ていたら殴っていた。界理は非力で、勝てるはずがないからだ。だからこれで良かった。心の底からこれが正しいと思う。

 私は笑う。力なくても、笑いを吐き出す。


(本当に、クソッタレな人生には似つかわしくない最っ高のハッピーエンドだった。……こんな幸せな死に方が、私にできるなんてな)


 心に溜まった幸せと、ほんの少しの寂寥感。

 じゃあ、終わらせてもらおうか。私は男に向けて口を開く。


「なあ……」

「おん? どうしたんや」

「殺してくれ。体が辛い」

「ふーん、いいんか? 自分、こっち殺そうとしとったやん」

「仕方ないだろ、お前以外いないんだ。ああ心から不満だよ」

「くっはははは……ま、了解」


 何が目的か私を観察していた男が、バールを持った右腕を振り上げる。

 動作に澱みはなく、すぐに最大の効力を持って叩きつけられるのが理解できる。

 私はぼんやりと、バールの鈍色を目に映した。


「じゃあ————ぐえっ!?」


 私を殺さんと男が腕を振り下ろさんとしたとき、鈍い打撃音と共に男の顔が激しく揺れた。

 唖然と、私は目見開く。

 頭が鉄パイプで殴打されたのはわかるが、一体誰が……


「はっはっはっ……! うぅ……はる、か?」


 倒れる男の後ろに、界理が震えながら立っていた。

 手に持つ鉄パイプは震え、顔面は蒼白になっていた。ストレスによる脂汗が、白い肌を流れ落ちる。

 それでも、私に向けられるぎこちない笑み。


「はは……殴っちゃった」


 二度と聞けないと思っていた声が、震えながらも確かにあった。

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