第16話 蠱惑欲天使

 遅めの昼食を済ませれば、あとはまあ自由時間。今日の金儲けは終わったし、いつもなら寝るか書庫に行くかだ。

 他にも加湿器に水を入れたり部屋の掃除だったりもあるが、今の我が家には私に家事をさせてくれない人間がいる。


「〜〜〜♪」


 鼻歌を歌いながら、ちっこい体がちょこまか動き回る。

 加湿器に水を入れ、足りない分の食材を注文し、小型の掃除機を振り回す。手慣れた動きは私よりも洗練されていて、見事の一言。

 私はリビングのソファに体重を預けて、何をするでもなくそんな界理を眺めていた。


(……可愛いな)


 顔のことではない。勿論、顔もこれ以上ないほどに可愛いが、それだけで界理の可愛さは語れない。

 ほっそい体で一生懸命。はい可愛い。

 時々道具に振り回され、不満げに自分の腕をむにむに。ああもう可愛い。

 行動全部が私の為という事実。世界のバグだろってくらい可愛いなあっ。

 極め付けに、私と目が合うとにっこり笑う。もうなんかやばいだろ!


(なんなんだ!? なんなんだこの可愛い生き物は!? 本当に現実の存在かよ!? 抱きしめたいぞちくしょうっ!!)


 界理の姿を目にするだけで、私は床を転げ回りたい衝動に襲われる。

 流石に自重して、ソファに突っ伏してドスドス殴る。私の家のソファなら、この気持ちをわかってくれるだろ。許してくれ。

 目を閉じれば、思い浮かぶのは界理の姿。出会ってから今日までの尊い記憶が、湯水のように溢れてきた。

 心臓がうるさい。体が熱い。


(ダメだ。私はイマジナリー界理でも興奮する変態になってしまっているっ!)


 羞恥と罪悪感を込めて、ソファを力一杯殴りつける。ズドッズドッと音が鳴っているが、気にする余裕はない。許してくれ。

 血が頭に上り、死に繋がるイメージが湧き出る。

 血管が切れたら、詰まったら、心臓の負担が限界になったら——

 いつもなら、“寒さ”が私の世界を凍らせる。だが今は、堪え切れない感情が体を動かす。

 冷たさと昂り。鎮静と興奮。恐怖と幸せ。

 相反する要素が私の中で荒れ狂い、頭がおかしくなりそうだ。

 そんな気持ち悪さすらも心地良いと感じる私は、凄まじく矛盾した状態にあるのだろう。


「う〜っ! う〜〜〜〜っ!!」


 私は頭をソファに埋めて、唸る。

 頭の中が界理でいっぱいだ。満たされて、苦しいくらいに幸せだ。

 界理……界理界理界理……!


「どーしたの? はーるーかー?」


 うつ伏せな私の背中に、のしっと重みが加わった。

 一際大きく跳ねて、その後は小さく早く震える私の心臓。なんだこれ不整脈か?

 それよりも乗っているのは……


「ほーらー。こっち見て」


 ソファに埋めていた顔をずらし、背中の上を見る。

 案の定、そこには界理がいる。私の背中の真ん中に腰を下ろし、太陽もかくやといった笑みを浮かべていた。

 人の上に座るという礼儀もへったくれもない行為は、界理がするだけで常識と勘違いしそうになる。だって可愛いし。これに怒る奴はナイフで滅多刺しにしてやる。


「……何やってるんだ?」

「遥に座ってる」

 

 いや即答されても困る。何さも当然のように答えてんだよ。私が知らないだけで常識なのか?


「嫌だった?」

「いや、別に、嫌と言うわけでは……」


 人間としての尊厳はともかく不快ではないむしろ心地良いウンヌンカンヌン……

 なんてことを考えていると、界理がにんまり笑うのが見えた。


「そう……。じゃあ、これもいいよね」


 私が言葉を返す間もなく、界理が体勢を崩す。

 視界から消えた界理だが、私はその存在をよりはっきりと感じられた。


「ふふ……はるか……」

「……っ」


 背中から首下まで、温かさに包まれている。私が温かいと感じるということは、それが界理の体温によるものである証拠。

 一緒に寝たし、抱きしめ合った。

 だが今回は、私が界理から一方的に受けている。私は何も出来ず、ただ界理の思うがままに扱われる。

 身体に染み込む熱は、私の乱れた呼吸をさらに荒くした。

 首筋に掛かる甘い吐息など、私に甘い痺れさえもたらしている。

 鼻先で肌をなぞられると、私がおかしくなりそうな刺激があった。

 私へと覆い被さった界理を、私は退かそうと思えない。思うことさえ許されない。

 思考が制限されるほどに、私という意識が溶けている。熱くて、身体さえ崩れそうだ。


「界理……! そろそろ……!」


 限界だからやめてくれ、そう言おうとする私の口元に、界理の手が触れた。

 自分でも何を言おうとしたのかわからない言葉が、喉の奥で押し留められる。

 いつの間にか私の肩の上を通って伸ばされた界理の腕が、私の頭を抱えていた。ぎゅっと、そっと、慈しむように。


「ほんと、遥は可愛いなぁ。早く素直にならないと、わけもわからないまま奪っちゃうよ?」


 界理の言葉に、胸を突き破るんじゃないかってくらい、心臓が暴れた。

 界理が何を言っているのか、私にはさっぱりわからない。わからないのに、頭が沸騰しそうになる。

 呼吸が浅くなって、熱い体を濡らすような汗が出る。視界もチカチカと眩しい。

 混乱の中頭に浮かぶのは、『何か答えなくては』という焦り。

 何を答えれば良いのか、全く見当もつかない。

 それでも答えなければ。界理は求めている。私に対して、明確なナニカを要求している。

 答えろ私! 早くっ!


「なーんて。ごめんごめん、ちょっとイタズラしちゃった」


 私は何も言えないまま、背中から重みが消えるのを感じた。

 狭まった視界と狂っていた体調が戻り、少しは冷静な思考が戻ってくる。

 ソファわきに立っている界理の顔を見ても、いつも通りの可愛い笑顔。つまりはあれだけ私を翻弄しておいて、平気そうな顔をしている。

 なんか無性に腹が立ってきた。


「それじゃあ! 僕は隣の部屋を整理してくるから! ゆっくり休んでて!」


 またもや私が何かを言う前に、界理はピューンとリビングを出て行った。私の怒りを感じ取ったのかもしれない。

 一人になれば、先ほどまでの感覚がフラッシュバックする。

 界理の熱、界理の匂い、界理の感触、界理界理界理——


「〜〜〜〜〜〜ッッッ!!」


 体をジタバタさせて気持ちを落ち着けようと足掻く。

 今日の界理は、これまで以上に積極的だ。なんせ、

 私は“寒さ”が嫌いだ。それはつまり“死”の気配であり、私が危険だと感じる全てからの視線でもある。

 背後は人間が知覚も対応もし難い領域で、一般的に死角と言われるものだ。死角を取られれば、人間は反撃が難しい状況に陥る。当然、死の気配も強まるわけで、私は背後を取られると強い寒さを感じてしまう。

 界理もそれを察してか、私に背後から近づくことは避けていた。元より界理に寒さは感じないが、それがあいつなりの気遣いだったのだろう。


(いつもの控えめな界理は何処行ったんだよッ!!)


 なのに今日はどうだ。堂々背後を取るばかりか、上に乗って動きを封じてきた。

 これまでの両者対等な位置関係ではない。界理が私に対し、圧倒的優位性を示そうとした。

 私の力があれば弾き飛ばせるとか、界理の力が弱いとか関係ない。

 もっと本能的で、動物的な、単純極まりない立ち位置。

 上から支配した奴が、下にいる奴を支配する。

 無意識でも界理は、こう思っている。


わたしを支配したい』


 これまでも向けられたことのあるそんな思いが、界理であるだけで不快ではない。


(うん、界理に支配されるのも悪くない……って何考えてんだわたしは————ッ!!!!) 

 

 私は右腕を大きく振りかぶる。

 渾身の一撃を受けたソファが、ズドグシャッ!! と音を立てて凹んだ。スプリングの一部が砕けたようだ。

 ……すまん。私のソファでも流石にやり過ぎた。





     †††††





「はー、はー、はー……っ……!」


 リビングの隣、通販で注文したものが山と積まれた部屋。

 僕は壁に背中をつけながら、さっきまで必死に押さえていた息を宥める。


(遥……可愛かった……)


 遥の姿や感触、匂いまでもが、頭の中で鮮明に浮かび上がった。

 カッと熱くなる顔と、再び荒くなる呼吸。

 ずるずると壁をずり落ちて、僕は床に座って頭を抱える。


「もう……遥……ヤバ過ぎる……」


 あんな必死な遥を前にして、僕の理性が保ったことを褒めて欲しい。

 『白いうなじに舌を這わせたい』だなんて欲求、僕自身初めて感じて押さえ込んだ。鼻先すりすりで我慢したのが奇跡じゃないかな。


「これでもまだ自覚しないなんて……頑固者……!」


 でもいい、僕は待つよ。遥が自分の気持ちに気付いて、自分から伝えてくれるときを。

 平気な顔をして待ってやる!


「〜〜〜〜〜〜っ!!」


 でも今は、ちょっとだけ悶えさせてよ。

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