第8話 灯火剥離
遥の眠りが深くなるのを、僕はじっとしながら待っていた。
部屋を出たいが、今ではまだ遥を起こしてしまう。僕の行動を知られたくないから、手を離しても起きなくなるまで大人しくするしかない。
多分起こしたら、引っ付かれて、次は抱き枕になる。
寝息は聞こえるけど、まだ深くはないか。
暇つぶしに、闇に慣れた目で、目の前にある
(かっこいいなぁ……)
僕よりもさらに細く柔らかな濡羽色の髪。青味を帯びた黒は、闇の中でもみどりに光って見えた。
今は閉じられた切れ長の目は、開かれると僕以外には刃物のように細められる。隠されている瞳は不思議な色で、ヘーゼル味の強い緑色だ。
輪郭はシュッとしていて、顔の彫りは平均より少し深い。
全体的に鋭い印象なのに、花びらみたいな唇をしているのがチャーミング。
髪を肩ぐらいで切り揃えているから、一見してハーフの美青年にも見える。
(でも遥は、笑うと可愛い)
僕はくすりと笑いそうになるのを我慢し、握り合った手に意識を向けた。
遥の体温は高くて、僕の手は少し汗をかいている。少し恥ずかしいかな。
僕と遥の血管の脈動が絡まり、ひとつの生き物になったみたいだ。ちょっと嬉しい。柔らかな肌に包まれるのが、クセになりそう。
(……こんな思考、遥に知られたら嫌われちゃうかな)
さて、遥の寝息が深くなってきた。そろそろ、僕が動いても起きないだろう。
そっと、親指から順番に絡まった指を解いていく。
小指が離れると、僕と遥を繋ぐものがなくなった。
遥の呼吸は、一定のリズムから変わらない。手が離れても変わらない。それが少し、寂しい。
四つん這いになって遥の顔を見下ろす。顔同士の距離を近づけようとして……やめた。
僕から求めるのは簡単だ。でも遥は自覚がないようだし、僕は遥自身が気付いて求めて欲しい。
ベッドからそっと降りて、足音を立てないように扉に向かう。
部屋から半分だけ体を出して、僕は遥の方を見た。
(すぐ戻るからね。ちょっと、見に行くだけだから)
たつさんが僕に伝えた、遥のちょっとした秘密。いや、規模は全然ちょっとじゃないけど。
知的好奇心が強いのは、僕の悪いところなのかもしれない。でも、逃亡生活で抑圧されていた好奇心が、安全になって抑えきれなくなった。
それに、僕の知りたいことがある。たつさんの言葉通りなら、僕が求めるものがある……。
遥に知られるのは、少し気まずい。
(眠ってて遥。ちょっと、冒険してくるよ)
静かな寝息を立てる遥を起こさないように、僕はゆっくりと扉を閉めた。
†††††
雪が積もるように、形が作られていく。
これは幻想、夢幻、記憶の欠片。
早い話、これは夢だ。毎夜毎夜私を苛む、忌々しい
ほんとこいつは、私に何を伝えたいんだろうか。何度体験してもわけがわからない。
(今夜は……ここかよ)
像を結んだのは、ものが極端に少ない一室。ベッドと椅子と机、特筆すべきものはそれだけ。人が住むにはあまりにも空虚だ。
しかし部屋の中央には、椅子も使わず小さな人影が座っていた。冊子状の何かを眺めている、小さな幼な子だ。
私は幼な子の後ろから、ふわふわと浮きながら見下ろしている。毎度の如く、ただ見るだけの
でも、見下ろしながらも、私は幼な子そのものでもあった。
何もできない
私だけが、幼な子の視点を一方的に見ていた。
「これが……かあ様……」
幼な子はアルバムを見ていた。写真が貼られた、ごく一般的な記録だ。
そこには、見慣れた男と見慣れない女がいた。
男はわかる。幼な子の父親だ。わかるならば注目すべき理由もない。
幼な子が求めたのは、わからないことなのだから。
色素の薄い緑眼が映すのは、記憶にない女の顔。
ブランコに乗った女は、楽しそうに笑っている。
血色は良く、快活そうで、何より幸せそうだ。
幼な子は女の顔をなぞって、何を感じたのか指を服で拭った。
ページが捲られる。
ウェディングドレスを着た女が、輝くような笑みを浮かべている。
自分を、隣の男を、親を、知人を——
世界を祝福で満たさんばかりの、極限の幸福そのもののカタチ。
幼な子は虚な目で、輝く女を見つめる。眉間には、少しだけ皺が寄っていた。
こんな顔をした女も、最後には狂って死ぬ。幼な子はそれを知っている。我が子と自らを殺さんとした狂人を、幼な子は覚えている。
ぶるりと、幼な子は体を震わせた。
ページが捲られる。
白く美しい日本のお城を背景に、女が微笑んでいた。
知人に囲まれた女は、慈しみの視線を写真の中から放っている。きっと、写真を撮った人間に向けていたのだろう。
ああ、幸せそうだ。
ページが捲られる。
コーヒーを飲む女が手を振っている。
その笑みは、当たり前の幸せに満足しているかのようだ。
その腕と首は前の写真に比べ細く、色白になっていた。
ページが捲られる。
お腹の大きくなった女が、男に寄り添われている。
マタニティウェアを着た女は少し憔悴しているが、それでも笑みを男に向けていた。
ページが捲られる。
大きなお腹を抱えた女。
真っ青な顔に、無理をした笑みが浮かんでいる。
ページが捲られる。
手首が折れそうなほど細い。
笑っている。
ページが捲られる。
青白い肌に血管が浮かぶ。
笑っている。
ページが捲られる。
苦しく笑っている。
ページが捲られる。
笑っている
ページがページがページが捲られ捲られ捲られ——幼な子の手が、止まった。
女の表情から、笑みが消える。
幼な子は手に力を入れた。
女は、幼な子の記憶にある姿をしている。
女の虚な目が嵌る顔には、能面のような表情があった。人間性の削ぎ落とされた、幽鬼の貌。
枯れ枝の如き四肢は細く、青黒い血管が浮き上がっている。まるで冥府の罪人のようだ。
着せられている患者着ですら、女には重そうに見える。枯れ木に引っかかった布切れでさえも、もっと安心感があることだろう。
(やっぱり、私は愛されていなかった)
幼な子ではなく、私の思考だ。
だって、女の腹部は凹んでいた。その腕には、赤子が抱かれていなかった。
女の幸福が写っていたアルバムに、この一枚があったのだ。
それはつまり、赤子がいないことが女の幸せだった。そうだろう。そうに違いない。だってそうでなければ————ッ!
「ほんとに、そう思う?」
幼な子の言葉に、空気が変わった。世界の在り方が、変質した。
私は見下ろしている。
幼な子は見上げている。
過去をトレースするだけのはずである幼な子は、明らかに
あり得ない異常事態に、私は“寒さ”が強まるのを感じた。
視界を覗き見ることができず、幼な子が何を瞳に映しているのかもうわからない。
「愛してない。そう、思う?」
抑揚の少ない声が、私に再び投げられる。
私の思考はその問いに埋め尽くされた。
愛されていないと思うか?
思うに決まっている。他に答えがあるとでも言うつもりか。
女の幸福であった記録、幸せに彩られた人生の欠片、伴侶が残した唯一のアルバム。
そこに写っていない
私の考えのどこが間違っている。
「そう」
色素の薄い緑眼が、呆れを表すように細められる。
「あの笑顔も、偽物だって言うんだね」
(うるさい黙れ亡霊がッッ!!!!)
——左右から腕を押さえられた女が、赤子の顔を覗き込む。
————幽鬼のようだった女の表情が、歪な笑みに変わった。
思考の中に、記憶が蘇る。
歪んだ笑み。醜い笑み。苦しい笑み。なのに、狂人とは思えない笑み。
——苦しげな笑みは、女に残された最後のよすがを表すものであっただろうか。
違う違う違うッ!!
あいつは狂人だ! 赤子の首を絞め殺そうとする、狂い果てた死の化身だ!
そんな笑みを浮かべるはずがない!
————苦悩に塗れ歪ではあるが、確かな親愛の残滓を感じる微笑。それは愛情かもしれないし、哀れみかもしれない。
だから記憶にあるのは幻想だ。私の妄想が生み出した、ふざけた
「怖いんだ。だから愛されてないって言う」
幼な子が言い募る。
見上げる瞳が、無感動な色で私を射抜く。
「人は愛する人でも殺す。それが怖いから」
黙れ、と。私は全力で叫ぼうとした。
しかし音は結ばれず、空気の流れもなく、喉の震えすら生まれない。
「愛する人ができたから。自分が狂っているって知ってるから」
手を動かそうと……手がない。
怒りを示そうと……熱がない。
何かをしようと……何もない。
幼な子はゆっくりと瞬きをして、私の思考を抉り晒した。
「愛する人を自分で殺すのが怖いんだ」
思考の中心に氷柱が突き立てられたように、私の中で寒さが広がっていく。
神経は苛立たない、ただ重くなるような冷たさだ。“寒さ”には慣れたと思っていた。だが、今感じる寒さは経験したこともない重量で、私の心の底に伸し掛かる。
これは、“死”の気配による“寒さ”なのだろうか。
「気持ち悪い? でもそれ、母様だってそうだったかもよ?」
幼な子が、こてんと首を傾げた。
「嵐の前の静けさはもうない。さっさと起きなよ」
緑眼が、光を呑み込む闇に見えた。
さっきまでは
“寒い”。
寒い。
「じゃないと、いなくなっちゃうよ?」
お前は私じゃない。一体、ナニモノだ。
†††††
目が開いた。
カーテン越しの光は見えないし、毎朝感じる喉元の振動もない。
珍しく、目覚ましに頼らずに起きられたらしい。
(なんだあの夢は……。クソッタレに寒かったぞ)
今も寒い。神経が苛立ち、体が冷えている。
ふざけた内容のくせに、死の気配は濃厚だった。私の中で広がっていくような……
(……妙な、寒さだったな)
夢の中だから、といえばその通りかもしれない。だが、それでは説明のつかないほどに異様な寒さだった。
(クソッ……界理で温まって——)
私は二、三度手をもぞもぞさせて、異常事態に気付く。
握り合っていた手の先に、熱を感じない。
二人でベッドに入ったのに、私以外の吐息が聞こえない。
「界理ッ!!」
布団を弾き飛ばし、体を起こす。
迷惑でも構わない、嫌がられてもいい。ただ確信が得たい。
私の想像が、勘違いであるという確証が欲しい。
だが現実は、私の想像通りのものであった。
「ぁ……あっ……」
ベッドの上に立ち上がり、周辺に目線を走らせる。
闇に浮かび上がる、見慣れた部屋。私以外の人間はいない。
そんなはずがない。一緒にベッドに入った。手を繋いだ。また明日と言った。
水を飲みに行ったとかお手洗いに行ったとか、考えられることはある——
「かい……り……?」
——だが私は確信を得てしまっている。
この家はセンサーが張り巡らされ、人がいればこの自室で確認できる。壁のパネルに、反応はない。
だからこれは紛れもない現実だ。
界理は、もうここにはいなくなっていた。
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