第5話 殺意殺寒
「やあやあ失礼するよ」
細身のハイグレードスーツに身を包み、白髪の混じり始めた髪をオールバックにした中年。物腰は柔らか、顔には余裕が滲み出る笑みが張り付いている。
私は認めたくないが、言動からみる客観的な性格も悪くはないだろう。むしろ付き合う人間は好意的な印象抱いているらしい。
「お、おはようございます」
「これは丁寧に。君が例の子供かな? ああいや、子供扱いは失礼だったかもしれない。気を悪くしたならすまないね」
如何にも訳ありな界理を前にしても、この通りだ。気遣いのレベルもかなり高い。
「君は料理はするかい?」
「は、はい。少しぐらいなら……」
「そうかい、なら手土産は正解だったね。これはハーブセットだよ。エルダーにカモミール、タイムもある」
「わ、こんなに。すごく良い香り。ありがとうございます!」
袋を前にニコニコと笑顔な界理。
界理の笑顔は嬉しいが、それが私由来でないと考えるだけで苛立つ。
なんでこいつは手土産まで完璧なんだよ。いつもそんなもん持って来ないくせに。絶対に界理の情報を仕入れてやがる。
「さっさと座れ。でなけりゃ出ていけ」
「当然座るとも。こっちのソファに掛けても?」
「好きにしろ」
ほんの少し殺意を込めた私に対しても、なんら変わりなく接してくる。それが神経を逆撫でして、私は顔を顰めた。
私はこの男が嫌いだ。
年に似合わない情熱的瞳。しかし私を見る時には爬虫類にも似た色を見せる。
気遣いは本物。だが常に完璧を体現しようとする。
早い話、男は自分を偽っている。
「自己紹介がまだだったね。僕は
「僕は冬馬界理です。遥がいつもお世話になっています……!」
界理は私の母親か?
龍善も目を丸くしている。こいつの間抜け面は珍しいな。
「ははは、随分と仲が良いね。僕も嬉しいよ」
保護者気取りかだまれよ龍善。ぶち殺すぞ。
界理がいて口にできないのが残念だな。
「ああそれと、いつもの如く久遠くんが固まっているから、連れてきてくれないかな?」
「またかよ」
龍善はいつも付き人を侍らせている。
そいつは口は悪いが裏表なくわかりやすいやつだ。
「玄関だろ。私がいない間に界理にちょっかい出すなよ。ころ……刺すぞ」
「おや怖い。大人しく待っているさ」
私は界理に歩み寄り、その頬に手を当てる。
「待っててくれ。そこの胡散臭いやつに危険を感じたら呼んでくれよ。私が締める」
「大袈裟だよ。良い人だし。玄関なんてすぐなんだから」
凄まじく心配だ。
しかし龍善が私を困らせないのは、なんだかんだで知っている。本っ当に気に入らないことではあるが。
いつか化けの皮を剥いでやる。物理的にも。
名残惜しくも部屋を出て玄関を見れば、偉丈夫が突っ立っていた。
「お前なんでいつも入ってこないんだ?」
「……お前の家に許可なく入れるかよ」
よくわからない理由だ。
平均より高い身長に発達した筋肉、仏頂面だが精悍という言葉がピッタリな顔。
女を泣かせていそうな容姿のクセに、こいつはほんと律儀なやつだよ。
「さっさと入れ
「はぁ……入る」
久遠の説得は完了した。さっさと戻ろう。
界理が心配で仕方がないので、早足にリビングへと入る。
そうして——
「いたっ……」
——界理の痛みを訴える声を聞き、私はナイフを抜いた。
身を低くして全身のバネを躍動させ、龍善に刃を突き立てんとする。唖然とする界理の表情も、余裕ある目を向ける龍善も、動きを止める理由にはなり得ない。
界理の痛みを訴える声だけが、私の頭蓋に反響する。
その原因は界理の腕を掴む龍善。怒りが重い。
ならば殺す。
凍えるような寒さが全身を貫く。神経が尖る。
だから殺す。
界理に痛みを与えたのは
「よく見ろ。害意ある動きじゃない」
ナイフを振り上げる私の右腕が、久遠によって後ろから掴まれた。
凄まじい握力だ。骨が軋むのではないかとすら思える。
「久遠……お前も……」
「は、遥っ! 何やってるの!?」
冷たく暗い私の声を、界理の叫びが遮った。
狭まった思考が、徐々に普段の状態へと変わっていく。
「なんでナイフなんかっ!?」
「龍善が……界理に痛みを……」
「傷を見てもらってただけだよ! それなのに襲おうとするなんて!」
傷?
そういえば、界理の体には擦り傷のようなものがいくつも付いていた。
「それを何故龍善が」
「遥君」
優しげな龍善の呼び掛け。私にはねっとりとした粘度が感じられた。
龍善と目を合わせる。穏やかで熱の籠った——熱された泥のような瞳だ。
「君は気にしたことがないだろうが、弱った人間は僅かな雑菌さえも油断できない」
目に映る龍善の姿さえもが、澱みの塊になっていくかのように感じた。
“寒い”。
龍善の存在が死を象り、私を見つめる。
「界理君は今非常に弱っている。消毒の一つでもしなければ化膿してもおかしくはない」
いつもそうだ。龍善は客観的に善人だというのに、私だけは受け入れられない。
久遠に痺れるほど強く握られている右腕より、離れた龍善の姿の方がよほど寒さとなる。
「界理君に痛みを与えてしまったのは謝ろう。しかし必要な事だったんだ」
初めて会った時から、私はこの男を恐れている。
私に向ける無機質な視線も、言い知れない熱も、仮面の裏に隠した本性も。何一つとして理解が及ばず、ただ受け入れられない死の気配となった。
害を与えられたことはなくとも、龍善は誰よりも私の“死”に近い。
「君の気持ちもわからなくはないが、君は少々優れ過ぎている」
龍善の言葉が真実か偽りか知らない。だがこの男は在り方がそのものが偽り。
きっと私は、“龍善”という偽りのベールで隠されたナニカに怯えている。
寒い。なのに目が離せない。
決定的な破綻と破滅が目の前にあり、それが人間の形をしているという事実。
それはまるで……私の最古の記憶にある、壊れ果てた女のようで。
黒い澱みから発せられる粘度ある言葉に、見えもしない妄執を幻視してしまう。
寒い、寒い寒い寒い……!
「持つ者である君——」
「そこまでにしろクソ野郎。遥を怯えさせんじゃねえぞ」
だから背後から響いた低い声が龍善を止めた事に、安堵の息を吐いてしまった。
「久遠……?」
名前を呟いて背後を見れば、怒りと憎悪を込めた視線で龍善の睨む顔が映った。
久遠はすぐにいつもの仏頂面に戻ると、私の右腕を解放する。
ピリピリとした感覚の残る腕をさする私を放って、久遠は私と龍善の間に立つ。それがどちらに配慮したものなのかは、私ではわからなかった。
「申し訳ありません龍善様。処罰は御心のままに」
頭を下げる久遠にも、龍善は穏やかな声を返す。
「僕と君の仲じゃないか。それにたまには気安く声を掛けて欲しかったからね。どうだい、これからはフランクでいくかい?」
「遠慮させていただきます」
「ははは、いつでも変えてくれて構わないよ」
あんな暴言を吐く久遠は初めて見た。
それを許した龍善は、意外ではなかったが。
「ああそうだ。遥君、私が渡した医療バッグは残っているかい? 残っていたら持ってきてくれないかな」
医療バッグ……傷の処置に使うのか。
そこまで理解して、だが久遠の体で見えない龍善の言葉に、私は反応しなかった。
「…………」
「…………」
どこか怯えた界理の瞳。それが私に向けられている。
私に対する界理の恐れ、それを堪えるかのような表情。
私の胸が、穿たれるようにジクジクと痛んだ。
(違うんだ、違うんだよ界理。私はお前を守りたくて……)
胸が詰まる。動くことさえ億劫だ。
そんな私の腕を、久遠が引っ張る。
「いくぞ。バッグの場所を教えろ」
反射的に伸ばした手は、界理に触れることなく空を切った。
「……ああ、奥の物置にしまってある」
界理から視線を外す。
息苦しい。感覚が鈍い。冷たいコールタールを頭に詰められたようだ。
こうすればよかった。あれをしなければよかった。
ああほんと、後悔ばかりだ。
界理に触れられなかった手には、冷たさだけが残った。
いやだ。この冷たさを和らげる熱が欲しい。
なあ、界理。お前はどう思っているんだ?
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