第3話 温肌感触

 朝起きてからのルーティーンは、今日から少し変わりそうだ。

 いつもと違い、二つカップを用意する。

 牛乳をご機嫌に注ぎ……は無理なので細心の注意を払って注いでいく。

 脳裏に浮かんだのは、牛乳一滴が指を溶かしてしまう光景。

 皮膚から肉に溶け込んだ脂肪分で指先が膨らみ、夏場のバターのように室温によってとろりと肉がずり落ちる。骨と肉から滴った雫は、床に落ちて雑菌に蹂躙されるのだ。

 腐っていく。やがて傷口からもどろりと——


「——クソ……もう何を恐れているのかもわかんないぞ」


 万が一にもあり得ない可能性。だか兆が、京が一つにならばありえるかもしれない理不尽。

 指先の冷たさが腕を伝い、背筋が凍るような感覚がする。

 牛乳を注ぎ終わる頃には、全身を刺す“寒さ”で凍えそうになっていた。

 これほどまでに死に覗き込まれるなど、ほんと世界はふざけている。いや、ふざけているのは私か。うーん、それとも両方だろうか。

 死を覗き込む限り死に見つめられ、死に見つめられる限り死を覗く行為をやめられない。これでは堂々巡りではないか。

 やめだやめだ、こんな思考で時間を無駄にする方がどうかしている。どうせ死は私を捉えて離さないのだから、泥に沈むように流されている方が良い。

 カップに白い粉をぶち込み、スプーンでかき混ぜる。

 普段ならばここで一気飲みして終わりなのだが、客がいるのにそんな真似はできない。


「ほら、お前の分だ」

「あ、ありがとう」


 界理がおずおずと受け取った。

 待てよ。私は界理から寒さを感じない。なら界理が触れたものはどうなんだろう。


「やっぱりそっちが私のだ」

「ええっ!?」


 ヒョイっと取り上げれば、なかなかに面白い顔を見せてくれる。

 もう一方をやるから勘弁してくれ。

 

「…………」


 取り上げたカップを見つめる。

 死にかねない道理が思考を乱す。

 指先がとろりと崩れる光景と、そこから広がる“寒さ”。神経も苛立って不快だ。

 いつも通りの寒さは、何の変わり映えもない。

 どうやら界理が触れたからといって、私が安全だと認識するわけではないらしい。

 だとしたら何が原因だ。私の無意識の中で、界理とそれ以外を分けているのは一体何なのだろうか。

 と、何か言いたげにこちらを見ている界理が視界に入る。


「どうした」

「いや、僕が触ったのをそんな実験物を見る目で見られると、ちょっと釈然としないですよ」

「敬語禁止だ」

「……しないよ」


 界理の言い分はもっともだ。私だってそんな扱いをされればイラっとくる。


「すまないな。素直に謝る」

「うぐ、僕は伽藍さんに匿われてる」

「遥だ」

「遥さんに」

「呼び捨てにしろ。裏があるのかと心配になる」


 口にしない思いとして、私は界理に壁を感じたくはなかった。


「は、遥……」

「よろしい」


 顔を赤くする界理に満足感を味わいつつ、私はカップに口をつけた。

 プレーンのカロリーバーを牛乳に溶かしたような味がする。冷たい牛乳だからか溶け残りで舌触りも悪い。

 不味くはないが、美味とも言い難い。ただし栄養があるから便利だ。

 正直客に出すものでは決してない。ないのだが……のっぴきならない事情により出さざるを得なかった。


「それにしてもごめんなさい。僕が弱ってるから昨夜も今朝も牛乳だけで」


 ピンポイントで言われるとは思わなかった。

 申し訳ない気持ちと後ろめたい気持ちが湧いてきたし、なんだか死とは関係のない冷や汗が出ている気がする。


「本当は美味しいもの食べたいでしょうに、わざわざ僕に合わせるなんて……」


 顔を逸らして窓の外に目を向ける。

 うむ、どんよりとした良い天気。自殺したい陰鬱とした人間が喜びそうだ。


「別に僕は気遣わなくても良いですよ?」

 

 何が“良い天気”だ。そんな思考で自分を誤魔化せるものか。

 ああ言えない。そんな殊勝なことなどこれっぽっちも考えてないなど、健気な界理には口にできない。

 普段なら殺意を込めて威圧するところだが、何故か私は界理にだけそれができないらしい。

 チラッと界理を盗み見る。

 色素の薄いサラサラの髪に彩られた、青白い繊細なかんばせ。昨日よりも光を取り戻した瞳など、ぱっと見ガーネットが嵌っているかのような印象を与える。

 各パーツもキャンバスとなる顔も小さいのに、どんな遠くからでも天使を連想させるなど反則だ。

 抱きしめれば折れてしまいそうな肢体など、庇護欲が刺激されまくるばかりか、逆につい触りたいと思ってしまう。

 こんな可愛い顔したほっそいショタにできるわけないだろ馬鹿野郎っ!

 駄目だ。なんか変なテンションになってしまう。こんなの私のキャラじゃないのに。


「遥さ……は、遥、だけでも美味しいものを食べて……遥さん?」


 敬語を指摘することもできなかった。

 昨日からやたら食、というか生活全般にこだわりがあるらしい界理。『睡眠と食をおろそかにするとかあり得ませんね。あとリラックス空間』とか言っていたから間違いない。

 私自身の自堕落生活を知られたらなんと言われるものか。考えるだけでも恐ろしい。

 私は、界理に嫌われたくないのだ。

 “寒さ”を感じさせない界理がいなくなるのが、よすががなくなるのが、堪らなく怖い。

 ゆらりと、私は右手を界理の頭に添えた。


「な……っ!? はる」

「少しだけ、このままでいさせてくれ」


 夢じゃない。界理の体に触れても、体を突き刺すような寒さは感じなかった。

 それだけじゃない。


「温かいな……」


 寒さのフィルターが掛かった、不快な熱ではない。

 人生の中で存在したかもはっきりとしない、優しく寄り添ってくれる人の温かさだ。

 こんなの、失うことなんて考えたくもない。

 惰弱だ。私は弱さを持った。

 全てを忌み受け入れることを否定する氷に、亀裂が入ってしまっている。

 だが仕方ないだろう。初めて温かさを感じたのだ。

 明けない夜の中で一筋の炎を見出してしまえば、もう人は縋らざるを得ない。背を向けることなど、できはしない。

 それを、昨夜眠る時に悟ってしまったのだから。

 ゆっくりとした時間が、私達の間で流れた。


「って、そんなので誤魔化されませんよ!」

「……ダメか」


 界理に触れていた手を離す。

 きっと私の想いは重過ぎる。だから咄嗟に流してしまった。


「……遥さん。昨日、ちらっと見えた冷蔵庫の中身が牛乳以外なかったような気がするのですが」


 界理が何かを悟ってしまったようだ。

 冷や汗が背中を伝う。口に含んだカップの中身に味が伴わない。

 こんな体験初めてだ。私が散々追い詰めてきた犯罪者共に、少しだけ共感できる気がする。


「服も皺だらけでしたよね。形状記憶生地でも誤魔化せないほどに」


 これはもうダメかもしれない。

 いやでも、強気のショタも悪くない。こんなに可愛いし……。

 

(いやいや、何考えているんだ私は!? こんな状況で至る思考じゃないしキャラ崩壊してないか!?)


 そうだ、今は唯一無二の灯火が私の下を離れるかという危機なのだ。

 なに新しい扉開こうとしているんだ私は。まだ手遅れではないはず。

 というか、冷静に考えれば界理は19歳でショタじゃない。それどころか年上ですらある。

 ん、なら別に問題ないのでは? いくら愛でても青少年保護育成条例の違反にはならないし。

 待て待て冷静になれ。その思考はただの現実逃避だ。


「こっち、見ていただけませんか?」


 ギギギッと油の切れたブリキみたいな首の動きになった。これって現実でもあるんだなぁ。

 目が合ったので、とりあえずスマイル。社会の基本だ。社会不適合者である私の言うことではないが。

 ふむ、社会的模範を守ってみたが、まるっきり使い物にならないらしい。私の笑みが酷く引き攣っているのが如実にわかる。

 対して、界理はジトーっと私の顔を凝視している。

 そんな目で見ないで欲しい。何故か心拍数が上がってしまう。


「この栄養補助食品入りの牛乳だけの食生活、ではありませんよね?」


 これは、終わったか?

 界理が出ていくフラグが立ってしまった気がする。


「……栄養補助食品じゃなくて完全栄養食だ」

「それは重要ではありません」


 最後の言い訳もバッサリ切り捨てられてしまった。

 私はそれ以上何も言い返せずに、出来損ないの笑みを維持する。そろそろ表情筋が痛くなってきた。

 カップにも手をつけずに、沈黙の時間が10秒程続く。

 界理は私から視線を外すと、すくっと立ち上がりキッチンへ向かう。

 私も距離を空けながらついていく。絞首台に向かって歩く気分だ。

 冷蔵庫が開けられる。中身は牛乳8割、ミネラルウォーター2割。

 冷凍庫には保冷剤と包帯、タオルが詰められていた。


「これは酷い……」


 自覚はある。私は否定するが、はたからみればミニマリストの末路といったところか。

 続いて食器棚。コップとスプーン、使った記憶の全くないナイフのみが幾つか仕舞われている。見事にスッカスカだ。


「……これが日本人?」


 私はクォーターだが、生まれはジャパンでしっかり日本国籍である。

 界理によって戸棚が開けられると、粉末タイプの完全栄養食『オールインワン』の袋がぎっしり詰まっていた。隣の戸棚も、下の収納スペースも、なんなら調理器具を入れる場所までもがオールインワンに侵食されている。

 改めて見ると自分でも引くレベルだ。


「…………」


 界理も呆れてものが言えないらしい。

 とりあえず、私は居心地が悪いのでそっぽを向く。


「遥、僕の目を見てくれないかな?」


 許してくれなかった。

 敬語が抜けているのは地味に嬉しいが、それ以上に界理が出ていかないかが心配になる。

 恐る恐る目を合わせる。とりあえずスマイル。表情筋よ、酷使を許せ。


「その下手な笑いもいらないかなぁ」


 通用しなかった。社会的模範なんぞクソ喰らえ。


「とりあえず聞くけど、まともな生活を営む気はあるの?」

「……ある」


 当然ある。

 あるが……それをホームレスしていた界理に言われるのは、なんというか納得し難い。

 私の生活はそれはそれは酷いだろう。

 食事はオールインワン。洗濯機の設定も変えたことはない。アイロンは面倒なので形状記憶生地任せ。加えて夜な夜なナイフを持って徘徊している。

 それでも家はあるし収入も足りている。

 未だガリッガリの界理に言われても、説得力がうんぬん。


「まあ、その考えがあるだけマシか」

「……なんでそんな上から目線」

「なにか?」


 界理が可愛らしい笑みで威圧。

 強気な合法ショタというキーワードに、私は萎縮とは違う意味で胸が高鳴った。

 うん、ここは大人しく流されておこう。


「実行しようとしたこともある。だが……私自身が“まとも”から離れすぎていた」


 物が増えても寒い。物が減っても寒い。

 死と結びつく道理が常に頭を埋め尽くす。

 そんな人間わたしが、他者のように安寧を得られるわけがなかった。


「何やら深い事情があるようで。なら、うん……」


 界理がニッコリと笑う。

 私は見惚れた。天使か? 可愛過ぎだろ。


「遥の生活全部、僕が管理してあげる」

「……は?」


 なんかとんでもないこと言われた気がする。


「ご飯も作るし洗濯物のアイロンもかける。掃除も完璧にこなす。睡眠時間は自己管理できてそうでも生活リズムは崩れてそうだから、一日のスケージュールもバッチリ決めてあげる。安心して、家事は一通りできるから」


 ヤバい。これ本気だわ。

 界理ができるかどうか知らないが、本気マジの顔をしていた。

 青白い肌と枯れ枝みたいな四肢に反して、その繊細な顔に光が宿っている。特に目に宿る妖しい色がなんとも……。

 あ、なんか惹かれてしまっている。


「まずは調理器具と皿とカトラリーと……うん、まだまだ必要だね」

「明日にでも行くか」

「ダメ、今日中にあらかた揃える」

「お前買えないだろ」


 界理は素寒貧のはずだ。その状況で何を買うというのか。

 そんな疑問を抱く私に、界理はなんてことないように告げる。


「遥お金持ちでしょ。家具とかブランド品ばっかりだし、このマンションやけに品が良いし」

「つまり私に払えと」


 界理の笑みが深まった。

 何当然のこと言ってるの? という笑顔である。


「何か反対意見があるの?」


 繊細な顔から小さな体まで使った、全力の威圧。顔の上部に影ができている錯覚に陥る。

 正直恐ろしくはないが可愛すぎだろちくしょう!

 いかん、なんだか胸が苦しいぞ。


「いえ、ありません」


 思わず敬語になってしまう私だった。

 

(美形合法ショタに管理される生活……なんだろう、悪くないと思ってしまう)


 まずいな。私の社会適正が暴落している。

 ついでに新しい扉が開けた感覚が刻まれた。


「……だけど、良かった」


 ポロッと、私の口からそんな言葉が零れた。

 界理が出て行かなくて本当に良かったと、心の底から安心している。


「何か言った?」

「いや、何も」


 相変わらず寒いし、死は私を見つめている。

 そんな世界で、界理だけが温かかった。

 いずれ崩れる関係でも今だけは、この瞬間だけは寄りかかっても良いだろうさ。

 せめて、別れと共に私が硬く冷たい氷の戻るまでは。

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