風吹かぬ

 

 午後の湿気って気の狂った暑さを倍増させるのはなんでだろう。

 答えは単純明快。風が吹いてないからだ。


 一服後は、身だしなみチェック。

 ボロアパートの洗面台。ヒビの入った鏡の前で、僕は慎重にひとつひとつ、剃刀を滑らせていた。



 まずは頬。皮膚を指先で引き上げ、浅く刃を当てる。力を入れてはいけない。切れるのは、あくまで刃の角度と肌との関係だ。


 シュッ……と細く擦れた短い音がかすかに鳴る。音が出ないのが理想だが、ドラム缶から切り取り加工した刃ではどうしても鈍い雑さが残る。研磨が足りんのです。


 顎の下。皮脂が溜まりやすく、毛の密度も高い。何度もなぞる必要がある。

 一度、二度、三度。水で濡らした布で刃を拭いながら、同じ箇所を静かに慎重に攻める。

 ひとつひとつの動作に、必要以上の集中をかける。こういう仕草が大事だ。


 だが、問題はシェイビングクリームがないことだった。金が圧倒的にない。


 だから、サボテンとヨモギの葉を潰して作った液体を代用していた。


 机の上に置いてある陶器の小皿。その中には、濁った緑の粘液が溜まっている。

 お手製のすり鉢で潰し、繊維を漉し、不純物を取り除いたものだ。

 手の甲で温めてから、指先で頬、顎、唇下、眉毛に塗っていく。


 戦場に向かう前、獣脂や薬草で肌を整え、化粧を施す。そんな儀式めいた行為が、今の僕には妙にしっくりきていた。やっぱりお手入れは楽しい。


「……それ、なにしてんの」


 背後から、語尾に全く力がない声だ。毛布を肩まで引きずって被ったまま、青い目でじっとこちらを見つめている。そろそろ猫座がデフォルトかもしれない。


「……そんなに丁寧にする意味あるの?」


 彼女は眠気をまとったまま、顔だけこちらに向けて、言葉を続ける。


「……見てて苦しくなるんだけど……必死さ全開で……」


「そう?一応、丁寧にやってんだよこれ。ほら、ここ……顎のラインが……ね?微妙に残ると美しくないんだ。だから整えて切ってんの」


 僕が指でなぞると、ガールはため息をついてきやがる。


「誰に見せるつもり……。髭なんて全部剃っちゃいないなよ……ファッションでも似合わないよ」


 ごく浅く、どうでもよさげに息を吐いた。

 あくびかと思うくらい静かで、口を半開きにしている。なんならずっと目もほとんど閉じかけている。


 そのまま壁にもたれ。再び猫のように丸まった。視線だけは僕の手先だけを追っている。


「似合わないって言われてもなあ。髭は男の立場を決めるもんだからね」


「……キモいよそれ……」


 即答だな。笑っちゃった。

 怒りも軽蔑も湧かない。彼女本位の動揺や戸惑いに僕がうけとめる気なぞない。


「……うざ……」


 今日一番の低い声だ。笑われるのが苦手らしい。さすが、僕の家に寄生する拗ねちゃまだ。


 黒い髭カスを水で流しながら、わざとらしく伸びをひとつ。


「びゃあ~暑い。こりゃ外に出たくないわな。うざいのは天気のほうさね」


 流してやった僕の言葉に、族長殿は無反応。

 壁に寄りかかりながら支え木に手をかけている。なんだ?


「日焼け止め、塗らないの?」


「つけても遅すぎる。そんな金あるわけないだろ」


「……知ってるよ。そういう問題じゃない」


 こいついつもイライラしてんなあ。小さい蚊がずっと付きまとってくるような声だ。


「外に連れてって……」


「なんだって?」


 僕は一瞬だけ動きを止めて、ガールのほうへ振り替える。蛇口から水が滴り落ちる音だけが、間抜けに響く。


「……おいおい、外って。その大層な足でか?ホンマでっか!?」


 返事はない。ただ、壁にもたれたまま、杖をぎゅっと握る細い手が意思を物語ってる。うーわ、だるいっぴよ。


「僕をなんだと思ってる?介護者か保護者か?どっちとも違うね、行くなら自分の足でだ」


 嫌味を込めて聞いてみたが、黙ったままだ。

 返ってきたのは肉体だ。静かに体を持ち上げようとしている。


 ガールは、無言のまま唇を強く噛んでいる。頬に力が入って、白い肌にうっすらと赤みが入る。喉の奥で固めた呻きとして押し込めていた。


 ぷるぷると、両腕の筋肉が微かに震えている。体重を支える力が明らかに足りていない。それでも、立ち上がることを選んでいた。


 左膝が床を押し、重心をぐらつかせながら上体を引き起こす。右足は、床にはつかない。腫れた足首をかばって浮かせたまま、無理な姿勢でバランスを取る。



 次の瞬間、ピクリと肩が跳ねる。


 患部が軋んだのだろう。なんで続けるんだ、僕に声すらも出さないんだ。

 代わりに、眉根だけがわずかに寄っている。



 まじかよこいつ。



 腫れた足を無理にでも立たせようとして、杖を握りしめた指が白くなっていた。

 息が、喉の奥でひどく浅く震えた。


 無理に力を込めた杖はぐらつき。


 そのまま前のめりに崩れかける。

 



 指先に使っていた集中力が切れる。

 いつものように、思考が追いつくより先に身体が動いていた。



 めんどくせぇったらありゃしない。


「はいはい、もういいって。止まれ」


 鏡も剃刀も視界から消え、勝手に手が彼女の肩を掴んでいた。

 引き寄せ、支える。床に顔をぶつける寸前、腕が勝手に滑り込んでいた。



 僕の手が背中に添えられた瞬間、わずかに身体が揺れた。驚きか、拒絶か、そんなものは分からない。


 なぜかは知らんが逃げないでいる。


「もういい。連れてってやるから。おぶってやるさ」


 そのまま腕を回し、体重を自分側へ。軽く右足が浮くように身体を支えてやる。

 僕の口だけが後からついてきた。



「人にものを頼むときはお願いしますだ。もうちょい言葉選べば、ちゃんと連れてってやったのにねぇ……まったく……」


 リアは、顔をこちらには向けない。杖に縋ったまま、限界ギリギリに弱った腕だけが小さく震えている。

 あのまま、黙って限界までやってのけたら、却って悪くするのは明確なのに。


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