第3話
翌日。
席に座っているうちに授業は飛ぶように過ぎて行くものの、生憎六限が終わる頃には土砂降りの大雨になっていた。
いつものように一人で裏門から出ると、俺は帰路に歩み出す。
雨音が傘を打ち鳴らす下。ふと、傘に包まれた身体が、雨の煙る路地先に吸い込まれる様な感覚を覚える。
――と、その時。
ポン。
肩に載せられた手を振り返ると、つい昨日見知ったばかりの顔があった。
「……井出、先輩?」
名前を思い出すのに、ほんの一瞬だけ掛かった。『日本人』の名前を覚えるのは、今でも苦手なのだ。
要件はディベート部だろうか?
「今きみは、孤独ですか?」
しかし先輩は唐突に、滑らかな口調で不思議なことを尋ねたのである。
「……先輩も今は一人ですよね?」
「まぁ僕もそんなところですね。どうでしょう、帰りがてら一緒に寄り道でもしませんか?」
俺が訝しげな視線を返すと、先輩は手にした傘の縁で目元を隠しながら、小さく肩をすくめた。
「いえ。僕はただ孤独な者同士、二人きりで話し合うのも悪くないかと思って」
雨の降り頻る路地を先輩の後に付いて行くと、辿り着いたのは一軒の小さなカフェだった。
軽やかなカウベルのと共にドアが開くと、ジャズの流れる落ち着いた空間に足を踏み入れる。先輩は、およそ高校生に似合わないこの店の常連らしく、慣れた仕草で窓際テーブル席へと俺を導いた。
雨粒がガラスを打ち鳴らす傍で、先輩に勧められるがまま俺はアップルティーを、先輩はコーヒーを頼む。
「まずは、僕の誘いに付き合ってくれてありがとう」
「いえ、俺は……いつも暇ですから。一人でいることが多いんです」
「だろうね。僕もそうだよ」
ゆったりと椅子に腰掛ける先輩を、俺はじっと観察した。
出来ることなら、こんな場所からは今すぐにでも出て行きたい。人と話すのは苦手だし、何より目の前の先輩は――
「信用できない、そう思っているよね?」
スッと目を細めつつ、先輩はテーブルの上で指を組んだ。
「確かに僕だって、特に信用して貰いたいとも思っていない。だから実の所は、お相子なんだけどね」
「……何が言いたいんですか?」
「きみ、自分自身が嫌いなんだろう?」
先輩は短くそう告げると、その長い指を解いた。
「君みたいな目をした人には、何度か会ったことがあってね。君の目は、自分嫌いな人の目だ――昔の僕みたいに」
先輩に正面から見つめられて、俺は思わず目を逸らした。
思い出すのは、思い出したくもない記憶。
小学校の頃――帰国子女だった俺は、日本語が上手く話せずに周囲から『イジメ』を受けていた。
『アハハハハ!』
『ドウセ、ナニイッテルカナンテ、ワカンナイヨ!』
『ニホンゴ、ワカリマスカー?』
あの時はまだ、何を言われているか分からなかった。でも何となく自分が『イジメ』られているとだけは分かった。
その時からだ。
自分の『母語』だった筈の英語というものに、俺がトラウマを抱えるようになったのは。『英語』というアイデンティティーに自分で蓋をしてしまったのは。
「……先輩に、何が分かるんですか?」
気が付くと、そう言っていた。声の震えは抑えられなかった。
「確かに俺は、自分が嫌いです……いえ、自分のこと以上に......」
言いかけた言葉を、いつもの癖で飲み込む。
俺にとって、英語はかつての自分が纏っていた脆い殻。『イジメ』られていた頃の弱さの象徴。
そんな弱い自分が嫌いだったから。とにかく英語から逃げ出したかったから、俺は日本語にのめり込んだ。ずっと必死に日本語を勉強し、何とか今の高校にまで入れたのである。
ずっと、ずっと逃げてきて......それなのにどうして? どうしてここまでも、英語の影が追いかけてくるのだろう?
「まぁ、そんな所だろうと思ったよ」
井出先輩は、いつの間にか手にしたコーヒーをすすりながら、そう呟いた。
「本当、昔の僕にそっくりだ」
「?」
怪訝に思って顔を上げた先。先輩はその豊かな前髪をぐしゃりと掻き上げると、不意に一言こう質問した。
「君にはこれが、地毛に見えるかい?」
「......え、その髪ですか? 普通に黒髪ですよね?」
「本当かな?」
もっと近くで見てごらん、と言う先輩に促され、俺は遠慮がちにテーブルに身を乗り出した。
先輩の髪は一見、普通の黒髪に見える。しかし間近からよく見てみると……。
掻く上げられた前髪の付け根には、下からうっすらと色素の薄い髪がのぞいていた。
さらに俺が目を逸らした先。知性を湛えたその瞳は、普通の日本人と比べて少しばかり青みがかっているように見えた。
「......え? つまり先輩って」
「まあ、そういうことだね」
道理で昨日、初めて会った際に先輩の目鼻立ちがはっきりしていると思った訳だ。
「先輩、もしかして下の名前は」
「教えないよ? 僕はハーフでも『日本人』なんだから」
そう静かに告げると、先輩は儚げに微笑んだ。
「一つ言っておくと、僕は自分の過去を語るつもりは無いし、君のを語らせる気もさらさら無い。だけど……世の中には、君と似たような人もいると知っておいてほしくてね。君自身は、そうは思わないかもしれないけど」
「は、はぁ……」
そんな俺を尻目に、話は終わったとばかり先輩はコーヒーを飲み干すと、さっさと立ち上がってしまった。
「えぁ、ちょっと待ってください......」
冷めたアップルティーを一気に飲み干そうとして、俺は少々むせながらも鞄を肩に引っ掛ける。
「あの......先輩、ここのお会計って?」
「あぁ、それなら心配しなくて良いよ?」
先輩は俺に振り向くと、薄く微笑んだ。全てを無言で包み込むようでもあり、同時に微妙な距離も感じさせるような笑みだった。
「君の勘定は、僕が奢ってあげよう――税抜き価格の分はね」
会った時と同様、先輩はまたもや不思議なことを言うと、さっさと会計を済ませて店を出てしまった。
遅れて会計台に立った俺の目に入ったのは、コイントレイにきちんと積まれる、先輩の残した三百四十円分の硬貨だった。
カフェを出てみると、まだ空は曇っていた。
しかしいつの間にか、雨は止んでいた。
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