8月24日 ・・・・◎◎◎◎◎


     × × ×      


 2023年8月24日。

 相変わらず鉄板で焼かれるような天気だ。

 日陰でなければ数分の信号待ちすら耐えられず、ガードレールに触れるだけで指先が焦げそうになる。


 僕はうんざりするほど汗をかきながら、独りで梅田うめだの街に向かった。

 行き先は阪急三番街の紀伊国屋きのくにや

 石生いしゅうから借りた本のお礼に、僕も好きな漫画を貸したいと考えたのだが、あいにくスマホの中から取り出せなかった。

 放射線状に本棚が並ぶエリアを歩き、コミックコーナーで「無職の兄妹が周囲の人々を繋げていく漫画」の1巻を手に入れ、僕は早々に店を出た。


 行き交う人々に紛れて駅前の横断歩道を渡る。JR駅の構内は色んな国の観光客で満杯になっている。


 僕は地下街で山椒まみれのまぜそばをいただくことにした。

 食券片手にカウンターの空席を探す。

 汗だくの社会人の隣に腰掛け、器を受け取る。

 前に庄司しょうじと来た時は山椒をかけすぎて味覚が吹き飛んでしまった。同じ失敗は繰り返さない。少しずつ丁寧に食べきる。


「ご馳走様でした」


 僕は水を飲み干して店を出る。あの手の飲食店に長居は禁物だ。ついでに言えば、外出先でゆっくりしすぎると他のたちに「変化」の瞬間を見られてしまうかもしれない。

 今のところ叔父さんから『カウンター』が貯まったという報告は来ていないが。いつまで待たされるのやら。


「おかえりー」


 梅田から福島区ふくしまくに戻ると、アパートの外階段で顔見知りの女性に出迎えられた。山名やまなさんだ。

 さっぱりした笑顔に汗が伝う。シャツとスラックスと空になったペットボトルが似合う社会人、仕事帰りというには時間が早い気がする。


 僕は短パンから部屋の鍵を取り出しつつ、探りを入れてみる。


「こんにちは山名さん。早退ですか?」

「半休取ったんだー。いひひ。さっきまで心斎橋しんさいばしで玄米ランチ食べててさ……そうそう蒼君に紹介したい子がいるんだよねっ」


 彼女が右手を挙げる。

 視線の先にはパタパタと駆け足でペットボトルを持ってくる女性の姿があった。社会人というより就活生みたいな格好をしている。走りにくそうだ。


「はあ、はあ、はあ。斯波しばあかり、戻りました」


 間近で見るとヒールも相まって身長の高さを感じられた。平均的な山名さんより頭一つ大きい。バレーボール選手のような体格だが、息の切れ方からしてスポーツ経験は少なそうだ。

 ぜえぜえと前屈みになる(多分頭を下げてくれている)彼女の代わりに山名さんが紹介してくれる。


「蒼君。この子が斯波にゃん。ウチの会社にOG訪問で来てくれた子でねー。なんと我らが麗谷れいこく大学ボードゲーム同好会の現役部員! しかも『バトルライン』に自信があるらしいの!」

「ああ……だから叔父さんの家に連れてきたんですか」

「そういうこと。イサミ先輩にも紹介したいしさ、どうせなら飲みたい」


 山名さんが不敵な笑みを浮かべながら鞄の中身を見せてくる。お土産に蒸留酒の瓶が入っていた。

 もはや合鍵を渡してもいいくらいだが、彼女なりに初対面の人を勝手に連れ込む分のすじは通そうとしてくれているらしい。

 叔父さんなんてボードゲームの相手が増えるだけで満足するのに。


 一方の斯波さんの方は自販機で買ったばかりのペットボトルを早速飲み干しつつ、やや浮かない顔をしていた。


「すみません……そんな用件なら都心のボードゲームカフェに行けよ、赤の他人の家に押しかけて厚かましい女だと思われますよね……」

「大丈夫大丈夫。蒼君は優しいから。それに4人なら『バロニィ』のボードも広がるし『大鎌戦役』も『リスク』も盛り上がるって」

「あっ。先輩『バロニィ』もやるんですか……!」


 山名さんに背中を押され、アパートの外階段を登っていく斯波さん。

 個人的に一部を除いてボードゲーム同好会の関係者とは関わらないようにしているが、例の苦行『満漢全席』をやり遂げた叔父さん世代ではないし、大丈夫と考えていいだろうか。


 僕は201号室の鍵穴をほじくりながら、斯波さんと目を合わせる。この世の全てに怯えているみたいだ。すぐに視線を逸らされてしまう。

 念のため、訊ねておこう。


「斯波さんは『満漢全席』をご存知ですか」

「あっ。えっと、ちゅ、中華料理のフルコースみたいな……」

「あー」「あー」


 僕と山名さんの反応が被った。


 お客様をリビングの座布団に案内してから、僕たちは台所で少し話し合うことにする。

 すなわち例の「奇行」について。小声で。

 山名さんは苦笑していた。


「どうしよっか。嬉しくて連れてきちゃったけど、あの子のあの感じだと『満漢全席』で人間が壊れた話、あの世代まで伝わってないよねー」

「山名さんの6つ下でしたっけ」

「あたしのことより……イサミ先輩の「奇行」自体もそうだけどさ、蒼君が本当は男の子だって説明できないでしょ。このままだと」


 たしかに他者に現状を説明するのは大変だ。まず「奇行」の現実改変(奇行変動)を信じてもらえない。

 いきなり元の姿に戻ったら否が応でもわかってもらえるだろうが、そんな事態は考えたくなかった。


 僕は自分の身体を一瞥いちべつしつつ、


「ひとまずめいということにしましょう。おじさんにもメッセージ送っておきます」

「君が良いなら、それで行こっか。ふふふ」


 なぜか山名さんに頭を撫でられる。

 以前ならドキドキしたかもしれないが、今は柔らかい気持ちになるばかりだ。


 リビングの方でガタッと音がした。

 斯波さんが不安そうな顔でこちらを見ている。


「あの……わたし、やっぱり帰ったほうが良い感じですか……もしかしてお二人、社交辞令で誘っただけなのに、なんでこいつマジでついてきたんだ、みたいな話をしてませんでした……?」

「全然そんなことないよ! ほらほら、そっちの戸棚にイサミ先輩のコレクションあるよ。『ドミニオン』めっちゃ揃ってるでしょ!」

「わーっ」


 ボードゲームのコレクションにウットリした様子を見せる斯波さん。

 僕は心配性の客人のために麦茶を入れることにした。



     × × ×     



 斯波あかりという人物は大学生にしては社交性が死んでいた。

 なにせ初対面の相手にいきなりぶち込んできた話題が、


「あの……蒼さんは生理が重いタイプですか……?」

「うえっ!?」

「あっ。す、すみません。お互いの共通項が性別しかわからないので、他に共感を呼ぶ話題が思いつかなくて……ああっ。そっか。好きなボードゲームを教えてください」

「特には無いですけど……」

「わたしは──」


 彼女はあれやこれやと古今のボードゲームの名前を挙げてくれる。知らないものばかりで反応しづらい。


 生理については考えないようにしていた。元々保健の教科書で学んだ程度のことしかわからないし、いずれ心配しなくても済むようになるからだ。

 とはいえ、もう今の身体になってから半月以上になる。

 月経というからには「来る」可能性も否定できない。

 僕は思わず下腹部を押さえてしまう。自分には理解できない臓器が体内にある。純粋に恐ろしい。


 なぜか山名さんと目が合った。


「蒼君。後で良いものあげよっか」

「大丈夫です。いらないです。絶対に来ないです」

「そう言わずにさ。ほら『バトルライン』でもそうだけど、何事も次善策を持っておくことが肝心なんだよ」


 彼女の指先が手札を軽やかに操る。

 彼女の愛する『バトルライン』は9つの旗を取り合うゲームだ。それぞれ旗の前に3枚のカードを繰り出し、合計数の大小で旗の持ち主を決する。ただし『ポーカー』のように連番・同色であれば数の大小をくつがえせる。


 山名さんは中央の旗で「7」「7」「7」の同数字スリーカードを狙っていたが、対戦相手の斯波さんがより強力な連番同色ストレートフラッシュを作りあげそうになると、あっさりそこを捨ててみせた。

 そして右端に先ほど使わずにおいた「7」「7」を配置。山札からもう1枚の「7」をドローしたことで同数字スリーカードを完成させ、他の旗と合わせて斯波さんの戦線を崩してみせた。


 敗北した斯波さんが悔しそうに唇を噛んでいる。


「強いですね……同好会ランキング2位のわたしが負けるなんて……」

「斯波にゃん、本当はすぐに連番同色を完成させられたのに、あたしが同数字を完成させるまで手札の中に温存してたでしょ。あたしにカードを浪費させるつもりだったね?」

「いひひひ……もう1回やらせてもらって良いですか」

「もちろん」


 山名さんが60枚のカードを拾い集めていく。

 次善策。プランB。奥の手。いざという時の備え。どれもあったほうが「賢い」かもしれないが、自分はそれらを杞憂きゆうに終わらせると決めている。

 何なら今日元に戻れるかもしれない。


 斯波さんが2連勝でリベンジを果たした後、僕は戸棚から『カタン宇宙版』を持ち出した。

 2時間以上かかるヘビーゲームなら彼女を夕方以降まで拘束できる。

 叔父さんが戻ってくるまでアパートに居てもらい『ねがいカウンター』の材料になってもらう。


 そんな僕の企みは「すみません……わ、わたし、住処が八日市ようかいちなんで……あまり遅くには……」という斯波さんの言葉により粉砕されてしまった。

 ネットで調べたら愛知県の近くだった。


「大学まだ休みでしょ。あたしの家に泊まっていけば?」


 山名さんが助け舟を出してくれたが、斯波さんには「他人と話しすぎた」として固辞されてしまう。

 見れば、彼女の顔は明らかに疲れていた。


「あれ、おかしいな……わたしなんかがアパートに連れ込まれて、ここまで引き止められる、ま、まさか。ここはヤリ部屋でわたしはイサミという人に……わたしなんかを……?」

「斯波にゃん妄想力あるよね。まあ、また今度にしよっか」


 混乱状態の斯波さんを連れて、山名さんは苦笑しながらアパートを出て行った。

 やはりボードゲーム同好会関係者には変人が多いらしい。僕は卓上を片付けつつ、叔父さんからの吉報を待つことにした。



     × × ×     



 結局、叔父さんが帰ってきたのは夜中だった。

 お盆の連休前に受けていた印刷物の注文の件で、若手社員がクレーム対応せずにそのまま海外旅行に行ってしまったらしい。

 詳しいことはわからない。

 ただ対応に回された便利屋=叔父さんにとっては傍迷惑極まりなく、各所で神経をすり減らし続けた結果、靴箱の前で倒れた時には『精神力コマ』がゼロになっていたようだ。


 倒れたままの叔父さんにタオルケットを被せつつ。

 僕はスマホのカレンダーに目を向ける。

 日付が変わり、夏休みの終わりまであと1週間を切ろうとしていた。

 自分のことばかりで申し訳ないが。

 今の筋力では叔父さんをベッドまで連れていけないように、自力ではあるべき形になりようがない。


 それがどうにも、もどかしい。

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