未来へのプレゼント
春光 皓
未来へのプレゼント
「――麻沙美! おい、麻沙美! しっかりしろ!」
自他ともに認めるおしどり夫婦は、突然の終わりを告げた。
不慮の事故だった。
あの日、道路に飛び出してきた猫を避けようとしてバランスを崩した。
瞬く間に街路樹との距離が近くなり、気が付けば空を見上げていた。
後から聞いた話では、乗っていたバイクは原形をとどめておらず、辺りにはバイクの破片と、女性が一人倒れていたらしい。
結婚して明日で……、いや、正確にはあと一分足らずで、丁度二十年を迎えるはずだった。
どれだけ時が経とうとも、この笑顔は色褪せることはない。
真一の髪が白くなっても、皺が増えても、麻沙美はあの頃と変わらない表情で、こちらに微笑みかけている。
真一は今日の出勤を持って、会社を退職した。
「もう四十年以上も勤めていたのか……、人生の半分以上だな」
鏡の前でネクタイを結び直しながら不意に、時の流れの早さに笑みが零れた。
慣れた手つきで美しいディンプルを作り出す。
「喜んでくれるだろうか……」
光沢のある、上品な赤いネクタイは首元に優しい彩りを与えていく。
真一がジャケットに腕を通すと、机の上に置かれたスマートフォンが振動した。
画面を確認し、スマートフォンを耳へと当てる。
「もしもし」
『もしもし? あ、お父さん? 今日で定年退職だね……、本当にお疲れ様』
娘の
早いもので彩華も二児の母となったが、今でもこうして節目節目に連絡をくれる。
麻沙美に似て、心の優しい子だった。
「彩華。わざわざありがとう。こうして父さんが働いてこられたのも、彩華と
真一がそう言うと、電話越しに可愛らしい声が聞こえてくる。
『『せーの……。おじいちゃん! ごていねん、おめでどーござぁます』』
どうやらこの日の為に練習してくれていたらしい。
身体の芯から活力が湧き出るような、愛くるしい孫たちからの言葉だった。
「ゆきちゃん、そうたくん、ありがとう。じぃじ、とっても嬉しいよ」
『じぃじ、嬉しいってー』
筒抜けとなった天使の声が心を包んでいく。
『上手に言えたでしょ? いっぱい練習していたんだよ』
「あぁ。もう本当に上手だった。どんどん成長して……、父さんも歳を取るわけだなぁ」
元気いっぱいの孫たちの声にかき消されそうな彩華の小さな笑い声が届いた。
そして一呼吸置いた後、彩華は口を開く。
『お父さん。今日さ……』
先程までとは打って変わって、電話越しに感じる彩華の空気が重みを増す。
真一はその意味を理解していた。
「あぁ。この日を二十年間ずっと……、ずっと待っていたんだ」
口に手でも当てているのだろう。
真一の言葉を聞くと、彩華は息を殺すようにしながら、何度も鼻を啜る音が聞こえた。
『ママー? どこか痛いのー?』
『違う……、違うのよ。大丈夫だから……、向こうで遊んでいなさい』
「彩華。本当にありがとう。それじゃあ、父さんは行くから」
『お父さん! やっぱり私は……』
「それ以上言うと、子どもたちから離れることになってしまうぞ。父さんは子どもたちからお前を奪いたくはないんだ……」
真一は彩華を優しく諭すような口調でそう言いながら、あの時の事を思い出していた――。
今から二十年前――……
決して裕福なわけではなかったが、真一は何故か自分しかいない個室のベッドの上にいた。
あの事故は真一から色々な物を奪っていた。
それにも関わらず、心と身体には深い傷が刻まれている。
事故の後、真一は丸三日間、意識を失っていた。
奇跡的に一命を取り留めてはいたが、目を覚ますと全身に強い痛みを感じ、指一本動かすことが出来なかった。
目に映る自分の身体が別人のものなのではないかという錯覚にも陥った。
ただただ瞬きだけを繰り返し、他人事のように痛々しく処置の施された身体と、点滴の雫が垂れていく様を見ていることしか出来なかったが、彩華に握られた左手の温もりだけは、これが現実であると教えてくれていたのだった。
そして体調が少しずつ回復し、ようやく会話が出来るようになった頃、白衣に身を包み、首から「
「奥様はあの事故で、命を落とされました。この病院に運ばれて来た時にはもう――……」
白石の口は真一の前で動き続け、その後も何かを伝えてくれていたような気はするが記憶にはない。
『麻沙美はもうこの世にはいない』
その事実だけが、頭の中を隅から隅まで駆け回っていた。
もうこの脳に、新しい情報を処理する力など残ってはいないはずだった。
しかし、その状況は白石の一言によって、絵に描いたように崩されていく。
「占部さん。あなたには一つの選択肢があります。奥様に……会いたいですか?」
僅かに開いた脳の隙間に、白石の言葉が矢のように鋭く突き刺さる。
――麻沙美に……、会える?
思いもよらない話に戸惑いつつも、思考は恐ろしい程に冷静だった。
「それは……、遺体に……という意味ですね?」
真一は白石に強い眼差しを向けると、白石は迷うことなく、即座に回答した。
「違います。生前の奥様に、という意味です」
事故の影響だろうか。
普通であれば「ふざけるな」と怒鳴りたくなるようなこの状況においても、思考は嫌に落ち着いている。
「詳しく……、お伝えいただけますでしょうか」
「あまり驚かれないのですね……、わかりました。では今からお伝えすることは身内の方のみにお伝えし、それ以外の方には決してお話しにならないとお約束いただくため、こちらにご署名をいただけますか?」
真一は静かに頷き、手渡された書面に震える腕でサインをした。
「ありがとうございます。では、今からお伝えする情報は国家機密であることを前提にお聞きください」
白石の目に力が宿っていく。
「単刀直入に申し上げると、我々は『死んだ人に会える薬』を開発いたしました。これまでの臨床結果がこちらです」
差し出された書類には、そのにわかには信じがたい薬の臨床結果が事細かに記載されていた。
「この国が人々の夢や想像、妄想といった目には見えない記憶に関する技術に優れていることはご存知ですね? さらに、それらの思考を映像として残すことが出来ることも」
「えぇ。夢の内容を録画出来るようになってから、随分と経ちますからね」
「そうです。夢の場合は脳の海馬に刺激を与えることでこれを実現しましたが、我々は更にその先、より古い記憶を呼び起こす大脳皮質と呼ばれる場所にも刺激を与えることで、その人の望むところへ思いを巡らせることを可能にしました」
白石はまるでこれが当たり前であるかのように、淡々と話しを進めていく。
「結果、僅かでも記憶に残る人物であれば会うことが出来るようになったのです。もちろん、それは人以外でも構いませんが、現在の効能では人の方がより色濃く映し出されることがわかっています。恐らく、記憶の中に含まれる感情の部分が強く作用しているものと我々は考えていて、その為、敢えてこの薬を『死んだ人に会える薬』と呼んでいるのです」
真一は機械のように話す白石の感情がどこにあるのかが読めなかったが、逆にそれがこの薬に対する白石の自信のようにも思えた。
「薬を投与している間、私はどのような状態にあるのでしょうか」
「精神と身体を分離させるイメージで、簡単に言えば『睡眠』と同じ状態にあります。ただ睡眠と異なる点は、強いイメージを持つことで、その状態を保つことが出来る点です」
「すみません、よく意味がわからないのですが……」
強い目力で白石は語り掛けてきたが、いよいよ頭の中がパンク状態になってきていた。
「具体的には、その時の自分の容姿や服装、手に持った所持品などをそのままに、会いたい人に会うことが出来るのです。例えば、占部さんが赤い花束を強くイメージして奥様に会いに行けばその花束を持ったまま、奥様と会うことが出来ます。『生前の奥様に会える』と言うと少し語弊があるかもしれませんが、占部さんの『記憶の中で生きている奥様に会える』という意味に捉えていただければと」
麻沙美が亡くなった事実を受け入れられたわけでも、その事実が消えるわけでもない。
しかし、これからも自由に麻沙美と会える希望を抱けることは、夢のような話だった。
まさに青天の
「それが本当ならとても素晴らしい話だとは思います……が、その薬は何故、世間に公表されていないのですか。そんな薬があるのであれば、とっくに世の中に広まっているでしょう」
白石は初めて、少し言葉に詰まるような表情を見せた。
そして大きく息を吐き出してから、再び話し出す。
「理由は二つです。まず一つ目は、この病院に来られた一部の患者様……、主に不慮の事故で最愛の方を亡くされた方にしかこの話をしていないからです。この薬はまだまだ大量生産が出来る物ではありません。その為、我々と政府の厳重な管理体制の元、一定の基準を超えた方にのみ、このお話しをしております」
白石の言う『一定の基準』という言葉が少し気になったが、真一は黙って次の言葉を待った。
「そしてもう一つの理由……それは、この薬には大きな代償があるからなのです」
「大きな代償?」
真一は首を傾げた。
「はい。それは敢えて最愛の方を亡くされたこのタイミングでこの話をしている理由でもあります」
「それで、代償と言うのは……?」
中々本題へと移らない白石に、真一は急かすように言葉を被せていく。
「本来、薬の力で精神と身体の分離を引き起こすなど、あってはならないことです。その代償として……、占部さん。この薬を投与するとあなたも命を落とします」
感情に任せて言葉をぶつけようとしたが、開いた口が塞がらない。
その僅かな沈黙が、白石の次の言葉を生んだ。
「元々この薬を開発することになったのは、いわゆる『後追い自殺』が後を絶たなかったからです。もちろん、この薬を投与しても命を落とすことに変わりはないので、その点に於いて薬の開発を成功とは呼べないのは確かです。しかし、この『後追い自殺』はご自身だけでなく、その身内にも広がる傾向があります。この薬に関する情報を身内の方にお伝えいただくのはその為です。本人も納得した上でこの方法を選んだのだということを身内の方にもご理解いただき、負の連鎖を防ぎたいという願いが込められているのです」
「先程の『一定の基準』というのも、この辺りが含まれているのですね?」
「その通りです」
真一は天を仰ぎ、目を閉じた。
妻が亡くなったことを知った日に、自分の死を促されるような話をされるなど、誰が想像出来ただろうか。
「更に付け加えると、占部さんが薬を使用する決断をした場合、娘さんは政府の管理下に置かれることになります。当然、娘さんにも説明の場を設けますが、我々は占部さんの身の安全を、そしてその決断を尊重した行動を取ります。従って、もし娘さんが占部さんの意思に背く行動を犯した場合、最悪、身柄を拘束させていただきます」
「娘に何をするつもりですか?」
一気に現実へ引き戻された真一は、初めて声を荒げて言った。
「危害を与えることはありません。ただ占部さんが薬を飲み、そして娘さんが落ち着くまでこちらで保護をするだけです。それがどれだけの期間になるかはわかりませんが……」
自分の行動で、彩華に危害が及ぶ可能性がある。
それは真一にとって、二つ目のリスクとも呼べるものだった。
「薬に関しては、今すぐ飲まなければならないというものではなく、占部さんが決断した日の前日に処方する形になります。突然のお話しで混乱するのも無理ありませんが、このお話しをした以上、薬を使用する意思確認だけは、退院されるまでの間に決めていただければと思います」
「病院の管理下では無くなるタイミング、ということですか」
「申し訳ありません」
頭の中で白石の話をもう一度思い返してみたが、すぐに答えが出るはずもなかった。
その日はこれ以上話が進むこともなく、白石は「ゆっくりお考え下さい」と言い、静かに病室を出て行った。
一人残された真一は、これが何度目のため息なのか、自分でもわからなくなっていた。
白石の話を聞いてから数日が経過し、真一は未だに答えを出せずにいた。
麻沙美に会って事故について謝罪をしたい。
また一緒に話がしたい。
同じ時間を過ごしたい。
そう思う一方で、白石に言われた『後追い自殺が後を絶たない』という言葉が胸に刺さる。
自分のことだけを考えるわけにはいかなかった。
コンコンコン――……
病室のドアを叩く音がする。
「お父さん、入るよ?」
その声とともに、気丈な笑顔を見せる彩華の顔が覗く。
「彩華。学校は?」
「今テスト期間だから午前中で終わるんだ。それよりどう? 体調は?」
「そんな大事な期間にわざわざすまないな……。体調はとても良いよ」
「何言っているの? テストなんかより、ずっと大切なことじゃない」
そう言って彩華は病室のカーテンを開け、置かれた花瓶の水を変えてくれた。
真一が目を覚ましてからというもの、彩華は一度も涙を見せていなかった。
まだ十七歳の彩華にとっても、母親が突然いなくなってしまう程、辛いことはないというのに。
自分がどんなに辛くとも、人の為に動く。
本当に彩華は麻沙美にそっくりだった。
その姿を見る度、真一の心は何者かに鷲掴みにされたように苦しくなった。
「ありがとうな……、ん? その椅子に置いてある小包は何だい? だいぶ形が崩れているけど……」
彩華の鞄の横に、綺麗なラッピングとは対照的に潰れた小包が置かれていた。
彩華は花瓶を机に置くと、思い出したように小包を手に取った。
「危ない、これを渡しに来たんだった。これね、お母さんの鞄の中に入っていた物みたいで、今朝、警察の人が渡しに来てくれたんだ」
「母さんの?」
「たぶんお父さん宛の物だと思うから……、開けてみたら?」
真一はボロボロになった小包を、丁寧に開けた。
その中には美しく赤いネクタイと、一枚の手紙が入っていた。
「ラブレターかな? お父さん、読んでよ」
――その手紙を読み終わった後、真一は彩華に事の全てを打ち明けた。
真一の想いを知ると、彩華は初めて大声を出して泣き崩れたのであった――……。
――……残り一分で、四十回目の記念日を迎える。
「彩華。今まで本当にありがとう。彩華はお母さんみたいな、立派なお母さんになった。きっと天国でお母さんも喜んでいるだろうな……。これからも、元気でな」
真一は彩華からの言葉を待たずに、静かに電話を切った。
そして、あの時渡すことの出来なかった香水を握りしめたままベッドに横になり薬を飲むと、深い深い眠りにつくのであった――。
『真一へ。今日で結婚二十周年だね。まさか真一と結婚して、こうして二十回目の記念日を迎えられるなんて、当時は思ってもいなかったよ。私と結婚してくれて、本当にありがとう。いつもいつも、素敵な笑顔を、温かい時間をありがとう。真一と彩華は私の宝物です。これからもよろしくね。この記念すべき日に、私からはこのネクタイを贈ります。真一は覚えているかな? 二十回目の記念日は、お互いが定年の歳に身に付ける物をプレゼントしようねって言っていたのを。真一が定年を迎えた日……、そう。私たちの四十回目の記念日にはこのネクタイをして、その長い社会人人生を華やかに彩って。そして、その誇らしい姿を私に見せて』
『これは私からの、未来へのプレゼントです』
未来へのプレゼント 春光 皓 @harunoshin09
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