生物の塔を下りて行く
左原伊純
第1話 だって幼かったから
透明な板の向こうに水が充填されており、その中を生命が優雅に泳ぐ。
板に添える手に水の温度は届かない。
水中生物は私と区切られている。
私たちは巨大な円柱の塔の第四階層にいる。
円柱の第四階層部の壁は全て水槽で、その内側に私たちが歩ける空間がある。
環状の水槽から魚を出す事は不可能。
爆弾くらいでは破壊できない水槽だ。例え破壊したなら歩ける空間が水で満ちて私は溺死する。
塔の頂上の半球状の温室、通称ドームで生きていた私は魚を初めて目にする。
魚の存在を知っていたが知識として頭にしまっていただけだ。
水中生物には人類と違い多岐に渡る種がいると聞いた時から、脳内だけの想像に過ぎなくても憧れを持っていた。
タコが華麗に触手を広げて魚を捕食している様に、思わず感嘆の声を漏らした。
触手を駆使するというよりも、タコがその身全てを賭けて他の命を狩る様は残酷さを超越した美しさがある。
実物を見る感動に触れて、知識だけの認識は到底及ばないと知る。
あまりにタコに見惚れる私を笑うのは、私たち人類を守護してきたアンドロイドだ。
女性型であり、顔も体も控えめながら上品な造形だ。
後頭部の高い位置で赤みがかった黒髪をリボンで結んでいる。
髪をきつく締め付ける金のリボンは限りなく薄い金属で、彼女の根底を成すプログラムのバックアップが彫られている。
なぜ魚の群れに夢中な私を笑うのかと、ふざけてわざと顔をしかめてアンドロイドを覗き込んでみた。
「あまりに楽しそうだから、やっぱり下りてきてよかったなと思ってさ」
アンドロイドが少し歯切れ悪くはにかんでいるのは、ドームから下におりることを、以前は彼女が頑なに反対していたからだ。
人類が頂上のドームに、その他の生物が種別に階層を分けて収納されているこの塔を創ったのは青人類という名の宇宙から来た生物だ。
私達人類と同程度の言語能力と、私達を大きく上回る科学力を持っていた。
私たち人類はドームの中で『ヒトを絶滅しないように存続させること』を青人類から要求された。
世界のあらゆる人種が広大とはいえ一つの空間に寄せ集められたのだから、悲劇がいくつあったかは想像もつかないし、種の存続という大義名分を掲げた冒涜が幾度あったかも想像がつかない。
星にまばらに住んでいた人類が一緒くたにされて、食料生成機が作った生命維持に十分な量のみの炭水化物の配給を全人類で分け合えと指示されたが、そうはならなかった。
時には配給の量を巡る戦争が起きた。
その後、戦争を一時止めて食料生成期に頼らない農業を始めた。
商売が始まり店ができてトイレも出来て水道も電気もある程度開発された。
ドームに閉じ込められてから千年後の人類は穏やかに暮らすあまり出生率が下がり、人口が減っていく。
また増えて、減ってを繰り返してついに今、絶滅する。
なぜなら私が最期の個体。他の人類は全て既に死んでいた。親の顔も知らない。
人工子宮から私を取り上げて産湯に浸からせ、リリーと名付けたのはアンドロイドだ。
彼女は青人類が階層ごとに一人ずつ配置した『守護者』の一人だ。
人類の管理、監視、保護の役目を全うするために人工物であるがゆえの半永久的な命を使う。
青人類は塔の維持の一切をアンドロイド達に任せ、彼ら自身は大地で暮らしている。
かつて人類と動植物が暮らしていた大地で。
人類の最期は惨憺たるものだったらしい。近親交配の末にぼろぼろだったとか。
私は冷凍精子と冷凍卵子のストックを使い果たした時に受精したそうだ。
正直に言うと私に人類への思い入れはあまりない。既に誰もいなかったから。
私に生殖能力がないと明らかになった時、何も思わなかった私と違ってアンドロイドは少しだけ微笑んだ。
どうしてかと聞くと、彼女は幸せそうな顔でこう言った。
「リリーは自由なんだ。種の存続の呪いから解放された」
確かにその通りだと私も納得している。
私は塔を下りる冒険がしたいと言った。
アンドロイドが反対した理由が面白くて、『危ないから』というものだった。アンドロイドなのに随分可愛らしい事を言うものだ。
「私は自由だって言ったでしょ」
「だって、リリーに早死にして欲しくないんだ」
アンドロイドなのに人間みたいだと笑いそうになった直前、私は人間と会ったことがないと思い出した。
私の中の人間とは単なるイメージに過ぎず、それを構成するのは全てアンドロイドから聞いた話だ。
たくさんの人間が存在していたのに今は私しかいない。寂しさは無かったが、生物の絶滅とは不思議なものだと思った。
私が幼い頃のこと。
アンドロイドが針と糸で何かを縫っていた。
ミシンはたくさん遺されているが、人類が健在だった頃にストックした電気をあまり使いたくない彼女は手作業をする事が多かった。
塔にしまわれた直後から人間と暮らしていたために、彼女は人間ができる作業は全てする事ができた。
分厚い布を細い針で綺麗に縫いつける。布そのものよりその手際の素晴らしさをじっと見ていると、急に彼女が私ににこりとした。
いきなりどうしたのかと首を傾げたが、私の服を縫っていると知らされた。
よく分からないが頬が熱くなり、幼い私は彼女に抱きついた、というより飛びついた。
「そうか。嬉しいのか」
私が嬉しいと思うのを、アンドロイドも嬉しいと思う。
私は人間として嬉しいを理解した。
アンドロイドが作った服は半袖のワンピースだ。脚を遮らない着心地の楽さに喜んで走り回り、すぐに二人で暮らす室内に戻った。
外の足場はひび割れていて遊ぶ場所はない。アンドロイドが塔の設立時から住む政治的リーダーの屋敷に私達二人で住んでいる。
ひび割れている外と違い、二人の家だけはアンドロイドが常に補修しているので綺麗だ。私も成長と共にそれを手伝うようになった。
ドレスルームの壁一面の鏡の前でアンドロイドと二人で色々な服を着て遊んでいる。
アンドロイドは金のリボンと緊急破壊用のピアスを必ず身につけているが、それ以外はいつも違う服を着ていた。直線的なタイトな服、花びらが舞うようなドレス。時には胸が開いた服も着る事がある。
アンドロイドは自分の服以上に私の服を作ってくれた。
出来立ての半袖のワンピースは胸の下の切り替え部分にリボンがある。裾の両サイドにスリットがあり、そこから赤のレースが覗く。
「大体五百年前に流行ったデザインだよ。子供に特に似合うと思ってね」
鏡の中の私しか、私は人間を見たことがないため美醜の比較対象は無いものの、アンドロイドが作る服はいつも私によく似合う。
人工物ゆえに理想的なスタイルのアンドロイドと並んでも私が引けを取らないように、スタイルと見せ方を緻密に計算して服を作ってくれるのだ。
二人がいるのは主にキッチンとダイニングだった。彼女の料理は予めのプログラムを再現するようなものではなく、彼女自身の味覚を用いて試行錯誤を繰り返して作り上げた物で、いつもおいしい。
三千年の最中に完全に廃れた民族の料理さえも作ってくれた。
アンドロイドに料理を習った私に、『千年前なら一流の料理人になった』と、嬉しそうに誉めてくれた。
千年前が最も人類が栄華を誇っていたとも教えてくれた。
かつての人類が作った農作物はとっくに無くなっており、私達は食料生成機からしか食材を得られないが、生成器の調整をいじれば大抵の物を再現できる。
三千年の時を生きた彼女は自らのプログラムをその都度書き換えて時代に合わせていたそうだ。
人間の流行り廃りに合わせでもしないと、人工知能の学習機能が退屈すぎたと彼女は言った。
時に誰かにプログラムをいたずらされた事もあったが、他の人に直されたとか。
多くの人間とは関わらなかったが、今私と仲良くしている程ではなくてもそれなりに仲良くした人もいたと言っていた。
それほど人間と共に時を過ごしたのに、人類存続の不可能よりも私の自由を大きな物として見るとは不思議な人、いや、アンドロイドだ。
「リリーが一番仲良しだな」
今まで仲良くした人間の話を聞きたがる私にたくさん話した後、いつも終わりにそう言ってくれた。
凄く嬉しくて、そして誇らしくて、私は私が一番良い人類だと思った。
だって幼かったから。
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