ショート・ショート・エッグ
五郎
Hesitation will lead to defeat
雨はますます勢いを増し、20時を回る頃には僕らのいるアパートの窓を叩きつけるほどになっていた。
僕は卓上に残された牌を手でいじりながらも、この雨の中出かけている澪のことを考えずにはいられなかった。
「うえ、雨すげェな。こんな降るんなら雨戸のある部屋に住めばよかったぜ」
ベッドに腰かけ、ウイスキーの水割りを傾けながら軽口を叩く大地。この部屋の主であり、今日の麻雀会の発案者であり、そして僕の知る中で誰よりも酒を飲む男。前が見えているのか怪しいくらいの長髪はいつ見ても鬱陶しいが、本人はトレードマークとして気に入っているらしい。
床に置いていた缶チューハイを飲もうとする僕に、大地が声を掛ける。
「それにしても二人とも遅ェな、どこまで煙草買いに行ったんだ」
「まったくだよ、僕もいっそ吸ってやろうか」
「やめときな、壁と肺が汚れるだけだぜ。てか、そもそもお前さん吸うんだっけか?」
「いや、僕は吸わない。ただ、吸いたい気分ってのがあればこんな時だろうなって思っただけだ」
「なるほどな、まぁ俺らは酒さえあれば生きていけるってね」
大地はヘラヘラと笑っているが、僕の心中は穏やかじゃなかった。
澪が煙草を吸うことはこの際問題じゃない。問題は、彼女が雅史と一緒に出掛けたということだ。
雅史……
小林雅史。僕の同級生ではあるが、歳は僕の1つ上だ。怪我だか病気だかで一浪したらしいが、そんなことはどうでもいい。ともかく、僕は雅史のことが好きじゃない。むしろ嫌いとすらいえる。なぜかはうまく言葉にできなかったが、どうも彼の陽気さというか、コミュ力の高さの裏にある底知れなさが気に入らなかった。
(……量産型の星野源みたいな顔しやがって)
呪詛とも誉め言葉ともつかない言葉を頭に浮かべる僕。
もともと、最初の計画ではこいつを呼ぶつもりはなかった。僕が澪を誘っている最中、偶然通りがかった雅史がそれを耳にして、のこのことやってきたのだ。面子が三人しかいなかったことも追い風となり、断り切れず招き入れてしまったが、やはり失敗だった。
酒をそんなに飲まないことも、二局とも安定した順位で終了したことも、奴が対局中に澪の方をチラチラ見ていた気がすることも、僕は気に入らなかった。
「それよりよかったのか、澪を誘ったのはお前さんだろうに」
大地が声を掛けてくると、僕は迷いを振り払うように呟いた。
「いいも悪いも、重要なのは里中の意思だ」
「そりゃ殊勝な心掛けで」
いつもなら気にならない大地の物言いが、今回は耳に障る。
「あと」
僕が続ける。
「名前呼びはやめろ。あいつは“里中”だ」
「へいへい、サトナカさんっと」
面倒そうに複唱しながらグラスを口にする大地を無視し、僕の脳内は澪のことでいっぱいになった。
澪。里中澪。僕の同級生であり、今回の影の主役であり、僕が恋い慕う女性である。入学直後のガイダンスで彼女と知り合った僕は、それから今までの2年間、彼女のことを想わなかった日はないとすら自覚している。初恋らしい初恋もしてこなかった僕にとって、彼女は憧れの対象であると同時に、それ以上の崇高さすら感じられる存在であった。
「里中はさ、どこまで行くって言ってた?」
落ち着かない気持ちのまま、大地に尋ねる。僕は二人が外出する丁度その時、腹を壊してトイレに篭っていたのだ。
大地は慣れた手つきでウイスキーの蓋を開けながら答えた。
「さァね。だが、お前さんのライバルは“駅前のファミマまで”とかなんとか言ってたな」
「雅史は僕のライバルじゃない。でも駅前までにしちゃあ遅くないか?」
「……大方、道にでも迷ってるかなんかだろ。心配なさんな」
グラスにウイスキーを注ぎ終えると、その足でキッチンへと向かう大地。僕はそれを聞いてなおさら不安になったが、心配していても仕方がないことは僕自身が一番理解していた。
雅史はライバルじゃない、というのは嘘だ。実際のところ、どうも最近澪の周りに雅史がいることが多い気がする。授業で偶然彼女を見かけた時も、雅史が同じ教室にいるところを見た。僕が食堂で昼食をとっている時も、彼女と雅史が近くを通っていくところを見た。見間違いではない。
まさか二人はそういう関係に……。いや、そんなはずはない。しかし、それにしては最近二人の接触が多い気がする。今日だってそうだ。澪を誘う時も、対局中も、なんとなく居心地の悪さを感じたというか、どうも二人の視線が合っている瞬間が多かった気がする。考えすぎだろうか。いやでもしかし……。
思考の渦に飲まれていると、目の前にマグカップが置かれた。顔を上げると、大地が面倒そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「考えすぎってかなんていうか。まァ、とりあえずこれ飲んで落ち着け」
「…………ありがとう。悪いな」
「アァ、気にすんな」
そうだ、悩んでも仕方がない。僕にできるのは、ただ帰りを待つことだけなのだから。僕は自分の頬をぺちぺち叩くと、迷いを断ち切るようにマグカップを口にした。
「ぶっ!!!」
思わず吹き出す。この味、香り、そして体内に血液が廻る感覚は……。
「酒じゃねえか!」
「あーあー勿体ねェ、俺にしちゃ上等なやつだったんだぞ」
「なんで焼酎なんだよ!ここは水だろ、普通!」
「ッたりめェだろ。俺ンちで酒以外を口にできると思ってんじゃねェぞ」
「お前なあ…………」
思わず脱力してしまう。そうだ。大地はそういう奴だった。
僕が一年の頃、サークルの新歓へ参加した時に、酒を勧めてきたのが大地だった。こいつは当時3年次で、今は留年に留年を重ねて25歳の4年次。院進を考えているらしいが、その資金はどこから湧いてくるのか、僕は今でも不思議に思っている。
「まったく、相手が僕だったからよかったな。里中にでもやってたら僕が許さないぞ」
「へいへい、まァこれでも絡む相手は選んでるんでね」
「気に入られた僕の負けってか?」
「そうなるな。水飲みたきゃシンクで汲んできな」
そう言うと、先程のマグカップを口にする大地。図太いというか無神経というか。
「それじゃ、シンク借りるぞ。ついでにトイレも済ませてくる」
「へいへい、ご勝手に」
マグカップを空にした大地を尻目に、僕はキッチンへ足を運んだ。
紙コップで水道水を飲んだ後、僕はトイレに座って用を足していた。
まったく、大地のイタズラにはほとほと呆れる。子供だましに引っかかる僕も僕なのだが。
ふと、ポケットのスマホの振動に気付く。
里中からだ。
「@みうらさとし ごめん言ってなかった!飲みすぎちゃったから帰るね!二人ともありがと!また誘ってね~」
あぁ、澪、飲みすぎちゃったのか。まだ20時で、缶チューハイを1本しか飲んでなかったのに。
僕に言わなかったのはタイミングが悪かったからだな。
キッチンの方に置いてあった荷物が二人分消えていたのも、タイミングが悪かったからだな。
メッセージが『二人とも』と書いてあったのも、タイミングが悪かったからだな。
すべては、僕の間が悪かったせいなんだな。
トイレの排水音に紛れ、僕は声を殺すことしかできなかった。
「おお、遅かったな。どうした、吐いてたか?」
「里中、飲みすぎたから帰るってさ」
「……そうか」
「荷物ももうなかった。雅史の分も一緒に」
「……気付かなかった。そりゃ残念だったな」
「いや、いいんだ。……酒、くれないか?」
「ああ、待ってろ」
大地がマグカップを手にキッチンから戻ってくる。
「ほら、酒だぞ」
「悪いな」
一気に飲み干す僕。
「水じゃねえかよ、ちくしょう…………」
広くなった部屋を、嗚咽の音が満たした。
窓を叩く雨は、激しさを増していくばかりであった。
『Hesitation will lead to defeat/躊躇は敗北を招く』
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