七つの掌編

スロ男(SSSS.SLOTMAN)

第一夜 「一発殴らせろ」

 一発殴らせろ。

 それが俺とあいつのいつもの決め科白ゼリフだった。うっかりであったりわざとであったり理由は様々ながらも、お互いの期待や信頼を裏切るようなことをしたときに、そう云って実際一発殴って水に流す。それが俺たちの流儀だった。

 発端がどうだったか、もう覚えていない。きっとあいつも覚えていないだろう。

 最後に殴ったのは俺で、殴った理由はあいつが進学せず働くと決めたことだった。もう十年も前の話だ。



「ねえ、パパ」

 妻が朝食の用意をしながら云って、俺はタブレットから顔を上げた。

 トントントンと小気味良い音はネギを小口切りにしてる音だろう。そういえば今日は月曜だったか、と思う。今日刻まれた数本のネギは週をまかなうために冷凍の刑に処されるのだ。

「なんだい」

「こないだ、電話があったんだけど」

「固定に、か? 誰から?」

「山崎さんって人。ご主人は在宅ですかって。夜の八時ぐらいだったかしら」

 山崎。

 懐かしい名前に鼻の奥のほうをきゅっとつままれたような気持になった。

「用件はなんだって?」

「また電話するって」

 妻が振り向いて頬笑ほほえんだ。


 パパと呼ばれるようになったのはいつからだったか。そういう呼び方の変化というのは、普通は子供ができてから変わるものだろう。だが我々は子宝には恵まれなかった。笑ってしまうのは、妻は子供ができづらい体質なうえに、俺は無精子症だった。

 不具同士だったから笑い話になるし、笑ってやり過ごせた。もし一方だけに問題があったらと思うとぞっとする。責められればつらいし、同情されればなお辛い。責める側ならそうでもないのかもしれないが。


「山崎さんって面白い人ね」

 夕餉ゆうげの時間に妻が云い、俺は顔をあげた。

「会ったのか?」

「電話で話しただけだけど」

 きょとんとした顔で云うので、それはそうかと俺は苦笑する。「で、山崎がなんだって?」

 妻は含み笑いをして、「若い頃、あなた結構でたらめだったのね」

「あいつほどじゃない」

 妻が吹き出した。

「山崎さんもそう云ってたわ。おんなじような口調で」

 俺は箸を置いた。

「何か用事があるならスマホにかけろって伝えてくれたんだよな?」

「電話番号と一緒にね」

 俺は溜息を吐いて、ハイボールを口にした。……そういえばあいつは酒を飲むのだろうか?


「山崎さんと会っちゃった」

 舌をぺろりとだして妻が云う。俺は冷静を装いながら天井に顔を向ける。なぜ、このタイミングでそんなことを云いだすのか。すっかり俺の息子は力を失っていた。

 久々の夫婦水入らずの時間だったはずだ。仕事に追われ、すれ違いも多いというのに最近はあいつの名前ばかり聞かされている気がする。

「どこで会ったんだ?」

「渋谷。……久しぶりにいったわ」

「なんだって会うことになったんだ」

 妻が楽しそうに笑う声。

「昔、ふたりでバンドやろうって話になったんだって? どっちがギターをやるかで揉めたって」

「正確にはどっちがベースをやるかで揉めた、だけどな」

 数拍の間のあと、妻が云う。「わたしならドラムがいいけどなあ。スカッとしそうじゃない?」

「……それで?」

「その時にふたりで作った曲が出てきたから、是非あいつに渡してほしいって」

 曲なんか作っただろうか。思い出せない。そもそもバンドが成立することはなかった。バンドやろうぜと意気投合した直後に、あいつが進学はやめたと云い、俺はあいつを殴ったというのに。



 殴った俺のほうが悪いのか。

 あいつが進学を諦めたのは家庭の事情で、自分より優秀な弟を進学させたいから自分は就職する、というものだった。二人とも進学させるほど家は裕福ではない、と。

 しかし正直な話、あいつは俺よりよほど勉強ができたし、いくらでも道はあったはずだ。育英会という名の金貸しから金を借りたとて、あいつなら無駄にならない投資だったと思う。

 冷めたような、悟ったような表情でそういうあいつに、俺は云った。

 一発殴らせろ、と。

 あいつは微笑んで、俺に頬を差し出した。

 わがままな俺が、わがままを抑え込んだあいつの頬を殴ったのだった。

 それから疎遠になり、もう十年が経つ。



「山崎さんがね」といつもの調子で妻が云いだし、俺は先を促すようにそれでと応える。妻はあいつとの実に濃厚な情交の様子をつまびらかに語り、俺はふむふむと話を聞く。

 もしかしたら赤ちゃんできちゃうかも、と恍惚とした表情になる妻に、俺はそうか、よかったな、としか云うことができない。

 俺たちにはできなかった、それが君たちならできるかもしれない。単にそれだけ興奮して気持ちよかったということの言い換えかもしれないが、それも俺が与えることのできなかったものだ。素直に賞賛する。


 もし俺がいまあいつと会ったとしても、きっと「一発殴らせろ」と云うことはないだろう。そもそも俺はあいつと会うことなんてできるのだろうか。

 最後に殴って以来、一度も会ってないあいつが、どうやって固定電話の番号を知ったのかすら謎なのだ。

 うっとりとした表情の妻に微笑みながら、この譫言うわごとのような状況が一段落したら、俺はその時言えるだろうかと自問する。


 妻に。

 一発殴らせろ、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る