第2話

 いよいよ多田の地に高僧たちが訪ねて来た。

 そこで一行を大切に歓待すると、ついでに良い機会だからと仏様や御経の供養をしてもらうことになる。

 だが、普段から仏事をあまり重視していなかったせいか、いざ御供養をしてもらおうとすると、あまり準備ができてなかった。

 そこで、皆で手分けして急に用意することになったのである。

 阿弥陀仏あみだぶつの絵姿を描いてもらえるように頼んだり、『法華経ほっけきょう』の書写を急いで行ったりと忙しい。あまり長い間、尊い方々を待たせるわけにはいかないからだ。

 ありったけの紙を用意すると、小萩のような女性まで駆り出し、字が書ける者は納める為の経文を写した。

 また当時、紙はとても貴重なものだったので、直ぐには手に入らない。そこで、各々が以前に受取った手紙の裏側までリサイクルして書写をしたのである。


 その日の夜更けのことである。

 小萩は自室に籠り、無心で経を写していた。

 すると、誰かが入ってくる気配がする。

「御父上ですか……? 心配なさらずとも、若い者達で経を用意しておりますから、先にお休みなさいませ! 」

 と、部屋に入って来た満仲様を見るなり声を掛けた。

「いや、我も眠れんので、ここに来たのじゃ」

 普段から、満仲様は用が有っても無くても小萩の処にフラリとやって来ては、ちょっかいを出し怒られて帰っていく。そこで別に驚きもしなかったが、その夜の満仲様はいつもと雰囲気が違っていた。

「ほう、源賢もそなたには忠実まめに文を送っておるのう」

 文机ふづくえ粛々しゅくしゅくと写経に勤しむ小萩を尻目に、満仲様は机の上の書き損じの紙や、もう要らなくなった手紙の紙束に目を走らせている。

「ちょっと、父上! どさくさに紛れて何をなさいますか? 」

 しっかりチェックしている満仲様に気付いて、さすがに小萩も抗議した。

「何じゃ、わざわざ比叡山から御坊様達がいらしたかと思えば、源賢のによるものか」

「父上、策などとおっしゃるのは心外です。あれでも源賢は僧なのですから、父上の後のことをいろいろ考えて出家の手筈てはず調ととのえてくれたのですぞ」

 そう言うと、満仲様は困ったように苦笑している。

 子供達の気遣いが、決して嫌なわけではないのだが、いつまでも親としてのプライドが邪魔で、素直に喜べない満仲様なのだ。

「……えっ、ちょっと! まだ見るのですか、いい加減、良い年をして悪さをするのは止めて下さいませ」

 ちょっと大人しくなったと思ったら、満仲様は他の手紙を盗み見ていた。

 紙が貴重なので、古い手紙の裏でも使えまいかと出しておいたのが間違いの元だ。いつの間にやら、満仲様は小萩が受取った手紙の束をチェックして、プライバシーを侵害しているようだ。

 小萩は急いで取り返したが、一通だけ取り返し損ねた。

 それは他の物よりも明らかに上質な紙が使われている物だ。

「何じゃ、随分と洒落た歌が書かれておるではないか、小萩もやるのう! 」

 手紙を開くと、満仲様はニヤリと笑う。

「それは、権佐中弁ごんさちゅうべん様からいただいたものです」

 小萩は少し悲しそうに目を伏せた。

「何と? 式太しきた殿の歌なのか! そなた、まだそのようなものを持っておるのか」


 "式太"とは、藤原惟成これしげニックネームである。

 そしてそれは、小萩のだった。

 惟成は、つい先頃まで在位していた花山天皇の乳母の息子で、幼い時から帝の側に仕えていた人物だ。

 そこで即位と同時に帝をサポートするべく、どんどん出世することになった。

 そして、そんな惟成の有望さに賭ける為に、満仲様は小萩を嫁がせたのである。

 花山天皇というと、平安時代後期に成立したといわれる歴史物語 『大鏡おおかがみ』 の影響から、女性好きで、情動的なイメージが強い。

 また、後ろ盾になってくれる外戚たちも流行病等でほぼ亡くなっていたので、孤立無援の状態だった。

 当然、周りに親身になって支えてくれる身内がいない状況下では、乳兄弟である惟成の存在は大きかったのだろう。

 もともと官吏としても優秀だった惟成は、五位蔵人ごいくろうどから、やがて検非違使けびいし左衛門権佐さえもんのごんのすけ権左中弁ごんさちゅうべん兼帯けんたいするまで出世したのである。

 つまり、ただの平官吏が、武官や文官の統括、天皇の雑用全般までこなさなければならないような重鎮になった感じだ。

 だが、これは花山帝にとって味方になってくれるような人材がいなかったことの表れであり、いかにな政権だったかをあらわしていることでもある。

 案の定、花山天皇の時代は二年程の短期間で終わってしまった。

『大鏡』 では、天皇が愛した女御にょうご・藤原忯子が妊娠中に死亡したので、供養する為にしたがっていたところ、対抗勢力である藤原兼家かねいえの息子・道兼みちかねそそのかされ、こっそりと御所を抜け出すと、元慶がんけい寺(花山寺)で出家してしまう。話が書かれている。

 冷静に考えても、まだ十九歳程の若い天皇が僧になる道を選ぶなんて悲しすぎる話だと思うが、実際の社会ではそれだけでは済まない。

 もともと望まれない政権のサポーターであった惟成も、帝に従って出家することになったのである。

 そして、そんな理由から、十八歳になったばかりの小萩も、僧の道を選んだ夫に離縁されてしまったのだ。

 だが間抜けなことに、その原因を生み出す一端を担ったのは他でもない満仲様達・源氏の者らだった。

 花山天皇が出家の為に寺へ向かう途中、天皇の安全を守る為の護衛を? いや、邪魔が入らないように"護送"の役目を果たしたようである。

 確かに、小萩は出戻るが、……それでも五分五分の成果は得られただろう!

 と、満仲様は考えていた。

 花山帝の御代が終わっても、それに敵対している藤原兼家や、その孫にあたる懐仁やすひと親王(後の)に恩が売れるからだ。

 満仲様にとって重要なのは、その行動に正当性があるかとか、大義がどちらにあるかではない。

 あくまでも、どちらに付けば一族が繁栄するのか、それが最も大事なことなのだ。

 そこで、そのために少々仕事をすることになってもと思っている。

 だが、満仲様とてである。小萩に対して心が痛まないわけではなかった。


「小萩よ、此度このたびはすまんかったのう。まさか、あのように容易たやすく婿殿が出家するとは思わなんだ。……その気があれば、喜んで我が地に迎えたものを! 」

 離婚して独り身になった小萩が多田の地に帰ってきた日のことである。

 満仲様は、いつもの偉そうな態度とは違って、随分と申し訳なさそうに小萩を迎えた。

「……いいえ、良いのです。むしろ、あの方らしい御決断だったと思っております」

 そう言いながら、小萩は笑ったのである。

「そうか、あまり沈んでおらんようで何よりじゃ、……ならば、また嫁に行かんか? そなたはまだ若い。右大臣の側腹そばはらの子などはどうじゃ? 」

「もう、何をおっしゃるかと思えば、……あまりはしたないことは言わないでください」

 今度は真剣に怒り出した。

 すると、怒られながらも満仲様は目を細めて笑っている。

「……私は、やっとここに帰って来たばかりなのですよ! 」

 だが、小萩の声は怒りながらも、だんだん震え出した。どうやら泣いているようだ。

 ちょっと、元気でも出させるつもりでいたのに、満仲様は墓穴を掘ったようだ。

 さすがに、これには百戦錬磨の強者である満仲様も心が痛んだ。

 小萩には、幼少の頃から辛い思いをさせてきたからである。


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