第28話 幕開け

 竜胆は少し照れくさくなった。

 だからあえて答えずに、またひと粒を彼女の唇へ近づける。

 遠慮しながらも、まるで雛のように金平糖を頬張る姿は、愛らしくて、愛らしくて――……これ以上、手が伸ばせない現実を思うと胸が苦しくなる。


 そうして、三つ目の金平糖を頬張る彼女を眺めていると。

 朝焼けに空が白むかのごとく、彼女の姿がすうっと薄くなり始めた。


「……時間切れか」

「え……?」

「迷子にお迎えが来たようだ」


 竜胆は寂しさと切なさがごちゃ混ぜになった感情を押し殺して、彼女から一歩離れる。

 彼女はなにか言いたげに口をはくはくとさせているが、こちらにはもう声が聞こえない。

 そして。

 背後の風景が薄く透けて見えるほどになっていた彼女は、蝋燭の火が消えるかのごとく、竜胆の前からふっと消えていった。

 領域の境界線を越えた場所で、ちりん、ちりんと鳴る小さな鈴の音を残して。


 無駄だと知りながら、彼女の存在を追いかけるようにしても、気配は微塵も感じられない。その霊力も、存在も、魂も。すべてが消え去っている。……また振り出しに戻ったようだった。

 竜胆は夢渡りの術の終わりを感じ、すっと頭が冷えていく気がした。


 同時に、自分の意識も浮上する。

 どうやら竜胆は机の上に突っ伏すようにして眠っていたらしい。

 枕にしていた両腕の下には、己の血を用いて書いた夢渡りの禁術符があった。術の正しい終わりを示すかのごとく、白紙に戻っている。


(……儚い時間だったな。ほとんどなにも喋れていない)


 禁書蔵の扉の隙間から差し込む朝日に目を細めながら、竜胆は夢幻の出来事を反芻する。

 彼女に触れてもぬくもりを感じなかったし、彼女の涙の冷たさすら手に残っていない。

 それにただ彼女を泣かせてしまっただけで、穏やかな微笑みを見せてはもらうことは叶わなかった。

 その上、彼女の存在が消失した件に関して、真実に到達するために聞き出せた内容はごくわずか。この機会に真名を知れたら御の字と思っていたが、まさか真名を失っているとは。


(それでも。僕の番様は、生きていた――)


 ようやく実感できたその事実が、絶望を抱いていた竜胆の胸をじわじわと熱くする。 

 と、その時。


 ふと、妙な胸騒ぎがした。


 彼女と出会ったあの日のそわそわとした浮き立つようなものとは真逆の、悪い予感がする胸騒ぎだ。

 竜胆は目を閉じて、細い糸のようなその予感の気配に意識を集中させ――。


「……な、ん、だ…………これは……!」


 怒濤どとうの濁流となって、彼女の霊力が復活している気配がする。


(いや、違う。彼女のものじゃない。これは、これは春宮家の傲慢な娘の――――!)


 己の番様の霊力は、春の暖かな陽だまりの中で大地に草花が次々と芽吹き花を咲かせていき、苔むす巌によって堰き止められていた川が、冷たい水しぶきあげながら一気に流れて滝を作り出す――……そんな光景が鮮明に思い浮かぶ、五行の偏りのない莫大な、それはそれは心地よい清廉な霊力だった。

 それが今や、歪な雑音と霊力を帯びる形で再び存在していた。

 竜胆は神気が再び怒りで膨れ上がる。


(彼女の真名を剥奪して魂ごと存在を消失させたのは、彼女の存在を神々に知られぬよう永久に隠し続けながら、彼女の莫大で清廉な霊力を奪い取るためだったのか……!)


 おそらく春宮家は彼女に目覚める霊力が高位のものであると知っていたはずだ。

 もしかしたら〈六合の巫女〉を娶った時点で、この計画を立てていたのかもしれない。

 そしてこれからも春宮家が欲するさらなる栄華を極めんと、あの傲慢な娘に霊力を差し出すためだけに、彼女は春宮という檻の中で生かされ続けるのだろう。


 それは彼女にとって残酷な運命の始まりであり――。

 また竜胆にとっても、悔しく、惨めで、怒りに満ちた暗闇の深淵で生きる日々の幕開けだった。


 神気に、ゆうらりと瘴気が混じる。




 竜胆が細部まで巧みに創造した広大な己の神域を完成させたのは、それからひと月後。

 それほどの箱庭を維持し続けるにはまだあまりにも若すぎる、雪も深まる睦月の下旬のことだった。


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