第3話 毒味と犯人

 あらゆる恐怖を盛り合わせたようなお皿を前に、これから自分の身に降り掛かる最悪の事態を想像して、鈴の顔は蒼白になった。


「何をしてるの? 早くしてくれないと、名無しのせいで朝のお祈りに遅れてしまうわ。名無しは無能だから、神々へのお祈りの大切さがわからないのでしょうけど」


 華やかな化粧をして美しく着飾った日菜子の言葉に、周囲からはクスクスと鈴を嘲笑する忍笑いが聞こえてくる。

 木製の食器にごちゃ混ぜに盛られている朝食の禍々しい様子に、鈴は唇を真一文字に引き結び、ゴクリと固唾を呑んだ。


「ちょ、頂戴いたします」


 床に跪いたまま、深く息を吸い込んでから意を決して礼をし、カタカタと震える指先で箸を持つ。

 ごちゃ混ぜにされて、なにがなにだかわからない食べ物に、鈴は恐る恐る口を付けた。

 咀嚼したところで、味なんか感じない。

 食べ物を『美味しい』と思う感覚はとうの昔に失っていた。


(見た目は禍々しいのに、舌を焼き切るような感じはない……? これなら見た目よりも弱い呪詛なのかも。良かった、今日は苦しまずに済むかもしれない)


 鈴はわずかにホッとしながら、冷え切っていた食べ物を嚥下した。

 ――刹那。ありえない熱さが喉を焼く。


「ゔ、ゔ……っ!」


 カラン、とリノリウムの床に木製のお皿と箸が転がる。

 鈴はその場にどさりと崩れ落ち、喉を両手で抑えた。

 日菜子の朝食に仕込まれていた呪詛が喉を通り、食道を通り、胃に落ちる。

 火傷をするような灼熱が肌の上を這いずりまわり、血液を沸騰させた。


「ふーっ、ふーっ」


 息もできないほどの痛みに涙が溢れる。

 その瞬間、左手の甲が黒炎で炙られ、呪詛を仕込んだ術者の名前がジリジリと音を立てて現れながら焼きついた。


(……っ、どうして……)

「まあ! 私の大切な名無し……! 大丈夫? 身体は平気?」


 日菜子はわざと大げさに驚き、傷ついた様子で鈴を見下ろす。

 呼応するかのように、カフェテリア内はざわざわと騒めきだした。


「誰が日菜子様に呪詛を……」

「怖いわ、学年主席に呪詛をかける生徒が今ここにいるってことでしょう?」

「まさか日菜子様が、『巫女選定の儀』に出られないようにするために?」


 生徒たちは怖がるばかり。床に倒れたまま静かに涙を流しながら苦しみに悶えている鈴には、誰も手を貸さない。――カフェテリアの二階席に座っていた、背の高い少女を除いては。

 長い黒髪を高く結い上げたハンサムな少女は制服の裾をはためかせながら、パルクールの要領で二階から一階へ飛び降りてくると、すぐさま鈴へ駆け寄った。


「大丈夫かい!? 名無し、今すぐ治療を……ッ」

「……あさひ、様」


 真っ青な顔で鈴を抱き起すと、彼女は「〝祓いたまえ、清め給え、我が身にその呪詛を移し、この者の身を守り給え〟」と一心不乱に祝詞を紡ぐ。

 その様子を日菜子は『興醒めだわ』とでも言いたげな様子で席に座ったまま眺めていた。

 が、すぐに悲しむそぶりを演じながら、「名無し、それで相手は誰なの?」と、旭と呼ばれた少女の腕の中で息も絶え絶えの鈴へ聞く。


(……どうしてなのですか)


 旭の祝詞のおかげで呪詛の痛みが引いていく中、唇を噛み締める。


(この十一年間、彼女の存在はどこか心の支えだった。巫女見習いの生徒も使用人の生徒も、すべてを平等に見てくれる……正義感の強い方)


『名無し。今日はクレープワゴンが来ていただろう? さあ、誰にも秘密だよ』

『で、でも。私、いただけません』

『生徒会長たるもの、生徒の健康には気を配りたいんだ。これっぽっちじゃ、足りないかもしれないけれど』


 彼女は狙ったように鈴がひとりでいる時にやって来ては、生クリームとチョコレートたっぷりの苺クレープを差し入れてくれた。


(……この方が術者だと信じたくない)


 けれど〝無能な名無し〟として鈴が唯一できることのひとつが、祖父によって施された背中の術式による〝呪詛破り〟だ。

 今まで生きてきた中で、ただれた傷跡として身体のあちこちに刻まれていく犯人の名前が間違っていたことなど、一度もなかった。

 鈴は新たな涙をこぼしながら、日菜子を見上げる。


「こ、こちらの、呪詛は……――夏宮なつのみや旭様の、ものです」


 犯人の名前を聞こうと静まり返っていたカフェテリア内に、鈴のか細い声は思いのほかよく響いた。

 ハッと、誰かが息を詰める音がする。

 三年生の主席をおさめる夏宮旭の名前に、騒めきが一層強くなる。

 夏宮家の長女は四季の名を冠する名家に相応しい人格者と評判だった。それが、なぜ、と。


「そう、夏宮旭先輩ね。名無し、ご苦労様。お祈り前に少し忙しくなりそうね」


 日菜子はクスクスと笑って、目の前で鈴を抱き起こしていた長髪の少女を見据える。


「もちろん先に学院長室へ行って、待っていてくださいますよね? 夏宮生徒会長?」

「……ああ」


 旭は諦めたように笑うと、「すまないね」と一言だけ鈴に向けて呟く。


「霊力の細部まで緻密に計算して、彼女に向けた呪詛をかけたつもりだったんだけれど……勉強不足だった。君に迷惑をかけたね」


 旭は壊れ物に触れるかのように、鈴の頬に手を添える。

 そして彼女は名残惜しそうに鈴から離れると、彼女の使用人とともにカフェテリアを後にした。

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