百合と怪獣
第10話
水留百合は取り調べを受けていた。
正確には合同会議だが、この状況は取り調べ以外の何物でもない。
「つまり、水留統括官はこれがテロリストによるものではないと言いたいわけですか?」
ここは東京都千代田区にある、特異環境保安庁の本庁舎。百合はこの日、獣害対策部保安室との合同会議に出席するため、この場所を訪れていた。
目の前で対峙するのは、保安室長の駒谷だ。白髪が混じり始めた小柄な男で、似合っていない制服を着ている。キャリア組の一人だった。
「そう言うわけではありません。あらゆる可能性を考慮すべきと言っているんです」
百合は毅然と言い返すが、駒谷は馬鹿にしたように言った。
「それは、オカルトを考慮するという意味ではないでしょう。普通」
奥秩父で発生した、ダイダラボッチによる獣害。その原因は、何者かにより捕獲されたダイダラボッチの子供にあることが判明している。
つまり意図的に獣害を引き起こした人間が存在するということで、環保は捜査に乗り出していた。
特異環境保安法により、特異環境への無許可の侵入や民間人による怪獣の捕獲、飼育、移動はすべて罪に問われる。それらの行為に対する捜査や場合によっては逮捕権を行使するのが特異環境保安庁保安室の役割だ。
よってこの件の捜査は保安室が担当している。また首都圏の特環で発生した事件と言うこともあり、重大事案として本庁が介入することになったのだ。
百合は事件発生時の現場責任者の一人として、また獣害対策室の統括官として捜査会議に参加することになったのである。が、
いらない口を挟んだかもな。と思いながらも言ってしまったことを取り消す気は、百合にはなかった。
「普通でない事態が起きているとすれば? いえ、元々起きていた。今回にいたってようやく我々がそれに気が付いた……。一連の獣害が、『何者か』……、特異環境内知的生命体によって引き起こされていた、と」
「ここは陰謀論を開帳する場ではないんだよ、水留統括官」
駒谷はややいら立っているようだった。他の参加者も、一様に渋い顔をしている。
当然だ。特異環境内知的生命体、いわゆる怪獣人類なんて、宇宙人と並ぶオカルトの一種なのだから。
だが、百合はひるまなかった。
「お言葉ですが」
そう口を開く。
「そもそも、厳重に管理されているはずの特環へ侵入し、ダイダラボッチの子を5匹探して連れ帰ったと考える方が無理があるでしょう。完全武装の我々ですら、第一層の調査で死にかけてるんですよ?」
百合の反撃に、駒谷は口をつぐむ。百合はその隙を逃さずに追撃した。
「怪獣の使役は有史以来一度も成功したことがありません。テロリストならそんな不確実で回りくどい方法を取らずに、我々を直接襲撃するなり、もっと手っ取り早くて確実な方法を取るはずです」
「だとしてもだ。怪獣人類の可能性があるだなんて考えてると庁外に漏れて見ろ。国民は呆れていよいよ環保を見放すぞ!」
これが本音か。
百合は内心ため息をついた。
今の環保は、存続の危機に晒されて保身に入っている。という批判が胸の中に湧く。しかし、自分もまた例外ではないかと思い直して、それを口にするのはやめておいた。
代わりに皮肉っぽく言う。
「では、容疑者不明のまま有耶無耶に流しますか? そちらの方が国民のひんしゅくを買うのではないですかね」
「もういい! 水留統括官は下がっていなさい!」
駒谷は怒鳴った。
怒鳴る奴は嫌いだ。と思いつつも、黙って引き下がる。
「次期防災大綱のとりまとめも近い。これ以上我が庁が失態をさらすわけにはいかんのだ!」
駒谷は力強く言い放った。
その後会議は、各セクションが把握している現状を報告して、予定通り終了した。
「次からは呼ばれないかな……」
本庁を出た水留は、ぼそりと呟く。
元々乗り気でなかった会議だ。呼ばれないならありがたい話だと思った。出世街道からもとうの昔に外れているため、特に気にすることもない。
街路樹の銀杏も落ちきり、あたりは冬の気配が濃くなっている。黄色の葉の絨毯を踏みしめながら、百合は足早に地下鉄の駅へと向かった。
ぶぶ、とスマホが震えた。電話だった。
「はいはい。どうしたの?」
電話の相手は笑だ。
腕時計を確認すると、ちょうど向こうは昼休みの時間だった。
『会議、ちょうど終わった頃かなって思って』
笑が言う。
『ちょっと心配だったから電話してみたの。家出るとき、浮かない顔してたから……』
「ありがと。会議なんだから、ウキウキでは出ないでしょ」
百合は笑う。
「色々言ったから、多分次からは呼ばれないと思う……」
『何言ったのよ、もう』
笑は少し怒っているようだった。百合はあわてて話題を変える。
「ところでそっちはどう? 変わりない?」
『大丈夫よ。飛鳥ちゃんがちょっと百合と話したそうにしてたけど』
「あー、どうせ深部調査させろって話かな。ま、帰ったら適当に聞いとく。あ、でも今日は直帰しようかな?」
『何言ってるの。ちゃんと聞いてあげてください』
「わかったわかった」
そこでふと、笑が言った。
『ねえ百合……。百合は私の事、愛してくれてる?』
「どうしたの、急に」
百合は笑いながらも言った。
「愛してるよ。これからも、ずっと」
『……ありがとう。私も』
その言葉で、電話が切れる。
「……最近足りてなかったかな?」
百合は自分の行動を振り返りつつ、地下への階段を降りた。
北総市までは電車を乗り継いで一時間ほど。途中昼食をはさんで職場に戻った時には、午後3時を少し回っていた。
「やあ、おかえり、水留」
統括官室の前で、野田飛鳥が立っていた。
「ただいま。話なら後に」
「渡良瀬特環で獣害が発生した。今から20分までのことだ」
その言葉に、百合は眉を顰める。
「出現したのはメイフネコ。特環孔で速やかに駆除されたよ。民間にも環保にも被害は出ていない。特環孔の門が壊されたぐらいかな」
小規模に分類される獣害だ。管轄の異なる百合への報告は、遅くなっても仕方がない。
「報告ありがとう。被害が出てないならよかった」
「ただちょっと気になる点があるから、水留の耳にも入れておきたくてね」
「…………。中で聞こうか」
百合は飛鳥を部屋に招いた。
「で、私に聞かせたいことって?」
コートを脱いでラックにかけると、さっそく百合は話を促す。飛鳥は言われるまでもなく、部屋のコーヒーメーカーのスイッチを入れる。百合が個人的に持ち込んだ私物だ。
「渡良瀬に出現したメイフネコ。メスだったらしい。コーヒーは?」
「……へえ。この時期は子育てに勤しんでるはずだけど。貰うよ」
百合は飛鳥が入れたコーヒーを受け取る。自分の分のコーヒーも入れた飛鳥は、そのまま来客用ソファに腰掛けた。
メイフネコは特環に生息する猫型の怪獣だ。個体差もあるが、体長はおおむね10メートルから15メートルほど。濃い緑色の短い毛を持っている。
主に秋から冬にかけて子育てを行う生態が知られており、繁殖期に当たる夏は気性が荒くなり、獣害を引き起こす可能性が高くなるとして警戒されている種だ。
「子供がどこに行ったかはわからない。現在捜索中だよ。だけどこの状況、今までの獣害と同じじゃないかい?」
「7月の北総と、10月の奥秩父だね」
ヤマトハリトカゲとダイダラボッチによって引き起こされた獣害。それぞれ、子供を追った親が原因だった。
「調べてみたら、3月に湘南特環で起きた獣害も、同様のケースだった」
「……タツマキカモメの奴か。でもあれは、子供がどうこうとかはなかったんじゃなかったっけ」
今年三月、神奈川県湘南市の湘南特環から出現したタツマキカモメは、その名の通り竜巻のような突風を引き起こしながら湘南市内を飛行。環保によって駆除されるまでに数十戸が半壊する被害を出した。
被害こそ出したが、獣害としては特別おかしなことはなかったはずだ。と百合が思い返していると、飛鳥が人差し指を立てる。
「調べてみたら、こんなことがあったらしいんだよね」
そういって、飛鳥は週刊誌の切り抜きのコピーを差し出した。
「『湘南海岸に巨大ごみ? サーファー大迷惑』……。4月の記事だね」
そこに写っていたのは、人の背丈ほどある白い湾曲した板のような物体だった。記事によると、似たような物体が大小数十個、湘南海岸に漂着したらしい。
「これ、当時は週刊誌記事で報道が終わっちゃって、すぐに処分されちゃったらしいけど、よく見れば卵の殻に見えないかな?」
「タツマキカモメは春に産卵するんだったっけ」
「そう。つまりこれも、一連の事件の一つってことだと思う」
飛鳥はふんぞり返ると足を組んだ。
「それはね、これは私の仮説なんだけど、『何か』は準備をしているような気がしているんだ」
「準備?」
「というか、訓練というか、用意というか。とにかく、ちょっと怪獣を動かして満足しているようには思えない」
「……何の?」
「察しの良い水留統括官殿ならもうわかってるでしょうに。東京を囲む三つの特環で起きてるんだよ? ……首都大獣害を引き起こそうとしてるに決まってるじゃないか」
首都大獣害。
文字通り、東京を怪獣が襲うことによって発生する、未曽有の大規模獣害だ。江戸時代から過去数回発生しており、最近では昭和29年、東京湾口特環から出現した爬虫類型怪獣「トウキョウニソクトカゲ」によって引き起こされた。
戦後復興最中の東京は、この怪獣によって焼き払われ、甚大な被害を出した。これまで『獣害保安本部』として建設省の一部局だった怪獣駆除部門が、特異環境保安庁として再編されるきっかけにもなっている。
つまり特異環境保安庁は、この首都大獣害の再来を防ぐために結成されたと言っても過言ではない。それほどまでに、百合達環保の人間にとっては重たい言葉だった。
「それは……、私たちへの攻撃ってことかな?」
「そこまではわからないさ。でも、向こうにはそれが出来る能力がある。静観するのはまずいだろうね」
「ま、こちらが何か出来るとは思えないけどね」
百合は投げやりに言う。
「今日も会議追い出されちゃったし」
「まったく、上は頭が固いんだから」
飛鳥も肩をすくめた。そして付け加える。
「とはいえ、座して死を待つわけにはいかないからね。私の方でももう少し色々動いてみるよ」
「すまないね、飛鳥。頼んだよ」
百合はコーヒーに口をつけた。そして、ふと思い出したように尋ねる。
「ところで話は変わるんだけど」
「何だい、水留」
「最近、柏とはうまくやってるの?」
「ぶっ」
飛鳥はコーヒーを噴き出した。
「何だって急に京子君の話になるんだい!」
「お前ら、遭難したときのことなんか隠してるでしょ。黙っててあげてるんだからその後の事ぐらい聞かせてほしいなって思って」
「う……」
飛鳥は呻いた。だが、観念したように脱力する。
「別に、何かあったということはないさ。強いて言うならあのあと何回かキスしただけだよ」
「おお」
百合は少しだけ嬉しそうに笑った。
「何? じゃあ付き合ってんの?」
「……付き合っては、ない」
「告白は?」
「……まだ」
「っていうか、そもそも野田は柏の事好きなの?」
「うるさいなあもう!」
飛鳥は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「人の話を根掘り葉掘りと! 何が楽しいんだい!」
「えー、楽しいじゃん、人の恋バナって」
「そう言うのは学生で卒業しておいてほしいね!」
「若々しさを保つ秘訣だぞー。ウチの人間そういうの全然ないからちょっと心配してたんだよ」
「余計なお世話だ!」
飛鳥は鼻を鳴らすと、ドスンとソファにふんぞり返る。
「だいたい、人の事ばかり聞いてるけど、君はどうなんだい? 市原君と上手くやってるのかい?」
「ええ、聞いちゃうー?」
「……聞かなきゃよかったかな」
にやにやと笑いだした百合を見て、飛鳥は頭を押さえる。
「この間デートしてきたんだよね、海ほたるに。その時めちゃくちゃ風が強くてさ。そこで笑が」
「ああもうわかったわかった。聞いた私が悪かったよ」
始まった惚気話を、飛鳥は手を振って遮る。
「元カノに聞かせる話かい、それが」
「引きずるタイプじゃないだろ、お互い」
「私は倫理の話をしているんだよ」
「お前に倫理は説かれたくないな」
「……ま、違いない」
そしてコーヒーを一気に飲むと立ち上がった。
「そう言う話は今度飲みの席ででもゆっくり聞いてあげるよ。……お互い首の皮が繋がってたらね」
「はいはい。じゃあ頼んだよ」
百合は飛鳥を見送る。飛鳥は手をひらひら振ると、振り返ることなく出て行った。
「まったく、帰ってきて早々嫌な話を聞かせてくれるんだから」
誰もいなくなった部屋で、百合は独り言ちた。
「……そういえば笑見てないな」
ふと周囲を見回す。と、扉がノックされた。
「水留統括官、佐倉です。報告書の件で相談が」
「あ、うん。どうぞ」
「失礼します」
佐倉美波が部屋に入る。手には分厚いファイルが握られていた。
「あ、佐倉さ、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「市原知らない? 帰って来てから姿が見えなくてさ」
すると美波は怪訝な顔をして答えた。
「市原主任官なら、今日は出張ですよ?」
「え」
「渡良瀬特環事務所に行くって」
「あ、ああ。そうだっけ?」
「ご自分でおっしゃってたじゃないですか」
美波はくすくすと笑った。最近、少し雰囲気が柔らかくなったな、などと関係のないことを考える。
「うーん、もう年かな?」
「統括官はまだまだお若いですよ」
「どうも」
しかし、と百合は頭を抱える。
笑は自分の直属の部下だ。彼女の出張は、原則として百合が管理していることになる。その自分が、笑の出張の予定を把握できていないというのは恥以外の何物でもない。
「疲れてるのかな……?」
「最近お忙しい様子でしたものね」
美波が気遣うように言った。
「ところで、市原主任はどういった目的で渡良瀬に行かれたんですか?」
「えっと、視察だったよ。うん」
「おひとりでですか?」
美波は意外そうに首を傾げた。
「そ、そうだけど……」
「珍しいですね。視察が一人なんて……」
「そうかな?」
「でもまあ、ちょうど獣害が起きたところでしたし、大変でしたね」
「そうだね。また連絡しとくよ」
そうだ。笑は獣害の現場に立ち会ったのだ。そこまでの気すら回らず、自分に愕然とする。
どうにも調子が悪い。百合は眉間を押さえると、大きく息を吐いた。
夜。10時を回った頃に、ようやく百合は職場を出ることが出来た。
「確かに最近忙しいなぁ」
頻発する獣害対応に、上層部との折衝、部下の管理。統括官は中間管理職としてあちこちに奔走する羽目になっている。
そもそも統括官という役職自体、現場と事務方を繋ぎ、研究部門と駆除部門を現場レベルで統括するために作られたものだ。忙しいことが、初めから決まっているような立場なのである。
それに今日は、もう一つ大きな事件があった。
「防災大綱ねえ」
正式名称『国土防災計画の大綱』。南海トラフ地震や火山噴火、首都直下型地震、台風などの水害、そして大規模獣害などの広域災害に対応するべく取りまとめられた、全国規模の防災計画だ。
環保の他にも、国土交通省、気象庁、防衛省、警察庁に消防庁、海上保安庁といった省庁が集まり、編纂される。特異環境保安庁としては、ここで存在感を発揮することで、取りざたされている環保廃止論を抑え込みたい狙いがあった。
その編纂業務もまた、百合に肩に重たくのしかかってきだしたのである。
「ただいま」
家に帰ると、リビングには明かりがついていた。
「おかえりなさい」
パジャマ姿の笑が迎えてくれる。
「遅かったわね。お疲れ様」
「ありがと、笑」
笑にかばんを預けると、百合はコートを脱いだ。
「笑こそ出張お疲れ様。大変だったんじゃない?」
笑は一瞬きょとんとした顔をしたのち、すぐに笑った。
「ああ、獣害の事? 大丈夫、現地の駆除隊の人たちがすぐに駆除しちゃったもの」
「らしいね。被害がなくて良かった」
百合はそう言うと、シャワーを浴びに浴室へと向かった。
汗を流していると、笑が聞いてくる。
「ご飯、どうする?」
「軽く食べたい」
「じゃ、おうどん用意しとくね」
「ありがと」
浴室から出ると、だしの匂いがした。笑が包丁で何かを切る音も聞こえてくる。
パジャマに着替えてダイニングに向かうと、月見うどんが湯気を立てておかれた。
「はい、どうぞ」
「いただきます!」
百合は手を合わせてうどんを啜った。関東風の濃い味付け。具材はネギとかまぼこ、そして椎茸に卵。深夜の、仕事明けの体に染みわたる。
一通り腹を満たすと、百合は冷蔵庫からサイダーの缶を取り出して、プルトップを開けた。
「また飲むの? あんまり飲みすぎると糖尿病になっちゃうよ?」
「これが楽しみなんだよ。一日一本にしとくからさ」
笑の忠告に、百合は笑って答える。
「くぅ」
一気にサイダーを煽ると、百合はぐでりと机に溶けた。
「疲れたー」
「本当に大変ね、統括官殿」
「飛鳥みたいな言い方しないでくれない?」
「はいはい」
百合は首を鳴らす。
「そういえばさ」
飛鳥の名前が出たことで、ふと疑問が浮かんだ。
「笑、なんか変なものとか見なかった? 渡良瀬特環で」
「え?」
笑は固まった。言葉足らずだったかと思い、百合は付け足す。
「いや、その……。前の奥秩父の時みたいなことがあったら嫌だなーって思って」
「ああ、そういう」
笑は胸をなでおろした。
「特になかったわよ。うん。別に」
「そう。ならよかった」
笑の身に何かあったのかとも思ったが、杞憂なら、それに越したことはない。
細かい報告は、また現地の特環事務所が上げてくれるだろう。
「……ねえ、百合」
「ん? どうしたの?」
笑は百合の前に座った。
「防災大綱、どうなの?」
「あー、あれね。上が張り切っちゃって。私たちに雑用が降ってくるわ降ってくるわ。いい迷惑だよね」
「どういう方針に決まりそう?」
どうしてそんなことを聞くのだろう、という疑問は、笑の目を見ているうちに霧散してしまった。
百合は自分が知っていることを喋る。
「基本的対処方針ねー。今ちょうど揉めてるとこなんだよ、そこ」
獣害における基本的対処方針は、これまでも変遷を遂げている。環保発足後から70年代までは積極駆除・積極管理を目指し、特環内の調査や開発が行われた。その後は自然保護の観点から、現在の消極駆除、封印主義に変わっている。
「でもあれが出来たでしょ、PPI(粒子放射阻害剤)。怪獣駆除もレベルが変わってきそうで」
PPIの開発を主導した環保技術・装備部と環保の関連機関である国立特異環境研究所は、PPIを使用した積極駆除にかじを切るべきだと主張していた。
「特環研の連中とかは特に過激でさ、PPIさえあれば特環の征服だって可能だーって言ってて。積極的深層調査まで主張してる。対策部は反対。実際人員を出すわけだからね。調査部は中立ってところかな? PPIの効果の様子見って感じ」
「そう……」
笑は浮かない顔で頷いた。
「何か心配事?」
「うん。……百合が大変そうでちょっと、いや、かなり心配」
「ふふ、ありがと」
百合は微笑む。
「まあ大変だけどさ、笑にそうやって言ってもらえるだけで元気でた。多分これで大丈夫だよ」
「そう?」
「そうそう。ま、テキトーに乗り切るからさ、安心してて」
百合はどんと胸を叩いた。
とは言え、防災大綱編纂業務は、日に日に百合を圧迫していった。
連日の残業に、さすがの百合の顔にも、疲れの色が濃くなってくる。
「お疲れのようだね」
日もすっかり沈んだ午後9時。一人残業に追われる百合の元を飛鳥が尋ねたのは、12月も中旬を過ぎた頃のことだった。
「さすがにね。代わってくれない」
「やなこった」
飛鳥は舌を出すと、代わりに百合に向かって栄養ドリンクの瓶を投げる。
「差し入れだよ」
「どうも」
「ところで、君の愛しの伴侶はどこ行ったんだい?」
「笑ならもう帰ったよ。家で待っててくれてるさ」
「そうかい」
飛鳥は了解を取るよりも前に、百合のデスクに腰掛けた。
「あのねぇ」
「報告がある」
「……なに?」
飛鳥は人差し指を立てた。
「基本的対処方針が決まりそうだよ」
「なんでお前が私より先にそれを知るんだ」
「ちょっとした伝手があってね。特環研の同期が検討会に潜り込んでるんだよ」
飛鳥は一瞬微笑んだが、すぐに顔を引き締めた。
「どうやら、PPIを活用した積極駆除・積極調査に決まったってさ」
「……そうか」
百合は大きく息を吐いた。
「よかったんじゃない? 野田には」
「積極調査はともかく、私は積極駆除には反対なんだよ。わざわざ貴重な怪獣を殺しに出かけるなんて、阿呆のやる事さ」
それに、と飛鳥は付け加える。
「特環研の最終的な狙いは怪獣の絶滅と特環の『普通環境化』。地下に広がる莫大な土地を、国土として利用できるようにしたいだけ。PPIの開発でそれにめどが立ったから、本庁の方針を変えさせるのに躍起になってるんだろう」
「怪獣の絶滅ねえ……」
「全国民の願いではあるだろうけどね」
飛鳥の言葉を、百合は遠い目をして聞いていた。
「願い、か」
「ま、これで水留も早く帰れるようになるんじゃないのかい? よかったじゃないか」
「そうだね」
百合は目を瞑る。そんな彼女に、飛鳥は声をかけた。
「……いいのかい?」
「何が?」
「このままだと、積極駆除が基本的対処方針として採用されるだろう。私たちは特環に、怪獣を殺しに行くことになる」
「そう決まったのなら、そうするしかないさ。私たちは公務員だからね」
「……まあ、君がいいのならいいんだ。気にしないでくれたまえ」
飛鳥は机から飛び降りると、百合に背を向ける。
「あともう一つ、この間の渡良瀬の獣害、メイフネコの子供の死体が見つかったらしいよ」
「どこで?」
「渡良瀬遊水地のど真ん中に沈められてたんだってさ。保安室が捜査を始めてる」
これで、渡良瀬特環で発生した獣害も、一連の『怪しい』獣害の仲間入りした。
百合は大きく息を吐く。このままいくと、何かとんでもないことが起きるのではないかという予感がしていた。
「じゃあ、私は先に失礼するよ。残業、頑張っておくれ」
「はいはい。報告ご苦労さん」
飛鳥が去り、部屋は急に静かになる。その中で、百合は一人呟いた。
「怪獣を殺す、ね……」
怪獣駆除の現場指揮官として、駆除命令を出す度、百合は同じことを考えていた。
「なんで殺さなきゃいけないんだろうなあ」
ただ、外に出てきただけの命を、人間の都合で殺してしまう。それが怪獣駆除だ。駆除しなければ、社会に甚大な被害が出るとは言え、命を奪っていることに変わりはない。そのことに、百合は複雑な心境を抱いていた。
「……ま、仕方ないか」
仕方がない。それが仕事なのだから。それを、自分が選んだのだから。
百合はいつものように、自分にそう言い聞かせる。
その時、電話が鳴った。相手は笑だ。
「はいはい。どうしたの、笑」
『大丈夫? 今夜も遅くなりそう?』
「うん。ごめんね」
百合は頭を下げる。
「だけど、もう少ししたら、早く帰れるようになると思う。防災大綱の対処方針が決まったらしくって」
『どうなったの!?』
笑が食い気味に訪ねてきた。百合は答える。
「PPIを使った積極駆除に変わるんだってさ」
『…………』
「笑?」
『うん、そう……。そう、なのね』
「どうかした?」
『……ねえ、百合』
笑は深刻そうな声色で尋ねる。
『私、どうしたらよかったのかな?』
「え?」
『私は……。私たちは、どうしたらよかったのかな?』
「それって」
『ごめんね』
ぷつりと通話が切られた。
「笑?」
嫌な予感がする。
百合は荷物をまとめると、仕事をそのままに部屋を飛び出した。
そして寮の自室へと駆けこむ。
そこに、笑の姿はなかった。
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